6.しずる1
しずるはムカついていた。
いつまでも怒っていても仕方がないと正哉兄ちゃんは言うが、それでも怒りがおさまらない。
しづくのことを思うと悲しくなる。なんで、あの姉だけがこんな目に遭わなければならないのか!
理不尽だ!!
あいつを殴ることも罵ることさえ出来ないのが腹ただしい。
職場に行った時も関係無いって態度で躊躇もせずこちらが出した誓約書と離婚届に記入していった。
あれだけしづくが悩んで悩んで書いたのに!
しづくのこと好きだったはずだろ! と胸倉を掴みたかった。
噂通り、しづくが物珍しかっただけ?
荷物を取りに行ったときもこっちを無視してしづくのことを聞こうともしない。
過去の女なんて、もう関係ないってことかよ!!
「しずる。社長が第二応接室に来てくれって!」
正哉兄ちゃんが呼んでいる? 新しい仕事か?
忙しいほうが気が紛れていい。
何もしないでいると藁人形でも作りたくなる。
しずるは第二応接室に急いだ。
応接室には最近会った人たちがいた。
あいつの姉夫婦だ。あの時はあいつとしづくの離婚理由を知らないらしく普通の態度だった。それがまたムカついた。
確か婿入してて、夫が條原清治、姉が葉月という名前だった。
「愚弟が申し訳ございませんでした」
立ち上がるとガバッと音が聞こえそうなくらいの勢いで、頭を下げたのはあいつの姉、葉月だった。
清治のほうも静かに頭を下げている。
「今さら」
しずるの口から出たのはその言葉だった。
「そ、そうですね、今さらですよね」
葉月は困ったように視線をさ迷わせていた。
「言い訳にしか聞こえないが、私たちが圭人君がしづくさんにしたことを知ったのはあの荷物を片付けた日なんだ。君たちを見送った後に圭人君から聞いた。本当に申し訳なかった」
ふらつく葉月を支えながら、清治のほうが頭を下げていた。
「お座りください」
正哉兄ちゃんに視線で促され、しずるはしぶしぶ頷いた。
「あなたたちがしづくを傷つけたわけではないので」
謝ってほしいのは、謝らせたいのは、目の前にいる人たちではない。
正哉兄ちゃんの隣に座ると、二人もホッとしたように席についた。
「お願いがあります」
清治がまた頭を下げた。
「圭人君に謝罪する機会を与えてください。あなたたちだけでも」
「謝られても許しませんよ」
しずるは眉を寄せて言った。
謝っても許してやるもんか!忘れることも許さない。
「当たり前です。圭人君は、それほどのことをしましたから」
しずるは驚いた。清治の声には怒りが籠っている。
「條原さんは、圭人君に怒ってみえるようですが」
正哉兄ちゃんに葉月が清治を愛情の籠った目で見つめながら答えている。
「主人は弟を殴ったのですよ。娘を持つ親として許せないって」
しずるは目を見開いた。しづくの苦しみを分かってくれる人が向こうにもいたことが。
「父も私が同じ目にあったなら、主人を死んでも許さないと言っていました」
「僕はそんなことをしないからね。」
清治が慌てて葉月の肩に手を置いていた。葉月が分かっていると笑って答えている。
しずるは離婚届を出したその夜に謝罪にきた條原幸生の姿を思い出した。しづくの願い通りにすると言って、しずるが追い出すまでずっと頭を下げ続けていた。
あの時、條原幸生は殴られ罵られる覚悟で来ていたのだと。
「問題は、母親の瑞季さんですか。」
正哉兄ちゃんの言葉に清治は頷いた。一番の問題だと。
「ええ、義母は圭人君に非が無いと思っています。たぶん、今まで何かあっても、義母が動いて圭人君が悪くならないようにしていたのでしょう。だから、圭人君は謝ることに慣れていません。人から責められることも。逃げることだけ上手になってしまった。逃げてもどうにかなっていましたから」
清治が痛ましそうに顔を歪めた。
「こちらにもお金が送られてきました。返しましたが」
さらりと正哉兄ちゃんが言った言葉に、清治は深いため息を吐いていた。
「分かってない人だ」
それには深く同意する。
しづくが悪いという時点で可笑しな人だ。関わりたくもない。
震えながら葉月が口を開いた。
「私からもお願いがあります。私の友達をしづくさんに会わせてください。私の友達は、あの時、弟と一緒にいた女性です」
しずるは頭の中が真っ白になった。何を言われたのか、理解出来ない。
誰がしづくに会いたいだって?
「何故ですか?」
正哉兄ちゃんの冷静な声が遠くで聞こえる。
「しづくさんに会って、直接謝罪したいそうです。それから、伝えたいことがあると」
謝るって、誰が誰に?
伝えたいことって? 何を? まだ、しづくを傷つけるのか!
「彼女は、弟の逃げる場所にされていただけなんです。彼女は、しづくさんのように弟に思われていないことを分かっています」
思われていなかった? けど、男と女の関係だったんだろ。
しづくを裏切っていたんじゃないか!
「ふざけんな!」
声を絞り出す。怒りで頭が沸騰しそうだ。
葉月がびくりと体を震わせた。清治が続きを話し出した。
「君の怒りはもっともだと思う。けれど、最後まで聞いてほしい。圭人君はしづくさんと付き合う前に全ての女性と別れた。円満といかない女性もいたみたいだが、件の女性とは問題なく縁を切っていた」
元カノかよ!
「圭人君から、再び連絡が合ったのは、しづくさんが二度目の流産をした頃だったらしい」
「逃げたのですか?」
険を含んだ正哉兄ちゃんの声。
「ええ、圭人君に気を使うしづくさんから。しづくさんを上手く慰められない自分から逃げて逃げて、彼女に救いを求めたようです」
何だよ、それ。
そんな理由、許されない!
「彼女自身、ずっと後悔していたそうです。しづくさんと向き合って弱さを見せるべきだと圭人君に言っていたそうです」
何とでも言える。
「分かりました。けれど、しづくには会わせられません。立ち直ろうと頑張っている所に傷口を開くようなことをしたくありません」
その通りだ。
しづくは忘れようとしている。
不義理な夫のことを過去のものにしようと頑張っている。
「分かりました。もし、しづくさんが彼女のことを気にかけるようなことがありましたら、謝罪していたとお伝えください。彼女は圭人君と決別し、遠くに行く予定なので」
しずるは何を言えばいいのか分からなかった。
会わせないのにその女性には逃げるな!と言いたい。
なんでもっと早くあいつと別れてくれなかったのか?
言いたいことは沢山ある。
何か一つでも口にしたら、止まらなくなってしまうのが分かっていた。
「お仕事のお邪魔をして申し訳ありませんでした。何かありましたらご連絡ください」
清治と葉月はすっと立って頭を下げた。帰るのだろう。
「ちょっと待って、あ、あいつは、な、に、を?」
しづくを裏切った、しづくを傷つけたあいつはどうしてるんだ?
「あいつ? 圭人君ですか?一応、仕事はしているようですが。彼女の話ではしづくさんと離婚してからは呆けて外を見ていることが多いそうです。あの家にいたくないから、部屋に来ているだけみたいな感じだと」
清治は慌てて言い足した。
「あ! 頻繁に来ているわけじゃないみたいで。来てもただいるだけという感じみたいだと。」
葉月が頷いている。
なんだよ、それ。
家に居たくないって?
呆けてる?
なんで?しづくなんてどうでも良かったんだろ?
「教えていただいて、ありがとうございます」
正哉兄ちゃんが頭を下げている。
しずるも慌てて頭を下げた。
二人も頭を下げて帰っていった。
まだ混乱している。
躊躇いもなくサインしたのに後悔しているような態度って?
しずるは圭人のことが分からなかった。