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しづく 愚か者の列に並んだ者  作者: はるあき
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1.圭人1

「圭人、ごめん。また、いなくなっちゃった」


 涙を流しながら、しづくはお腹に手を置いた。

 顎のラインで揃えた髪が嗚咽と共に揺れている。

 白一色の病室は陰気くさくて圭人は嫌いだ。こんな場所にしづくを居させたくないと思う。


「気にするな。また来てくれるから」


 圭人はしづくをそっと抱き締めた。細い肩が腕の中で震えている。


「しづくさん、また流れてしまったの?」


 その声に圭人の腕の中の体が大きく震えた。


「早く後継ぎを産んでいただかないと」

「母さん!」


 圭人はしづくの頭にそっとキスをして、母、瑞季の腕を取ると外へ連れ出した。

 ショックを受けいるのにそんなことを言うなんて。

 自分の母親なのに情けなく思う。


「結婚して、もう3年になるのよ!」


 瑞季の声は大きい。廊下に連れ出しても病室のしづくには聞こえてしまっている。


「帰ってくれよ」


 声を押し殺して泣いているしづくの所に圭人は早く戻りたかった。


「お見舞いに来たのに、その態度はなに?」


 圭人がきつく睨むと、瑞季は顔をしかめてしぶしぶ帰っていった。


「いい知らせを早く聞かせて欲しいわ」


 授乳時間なのか、赤ん坊を抱いた女性が何人も通りすぎていく。

 元気な泣き声が廊下に響いている。

 しづくに聞かせたくない、赤ちゃんの声は。こんな所にしづくをおいておきたくない。

 圭人は大きく息を吐いてしづくの元へ戻ろうと扉を開けようとした。

 開かない。

 しづくはまだ動けない。鍵をかけられるはずもない。

 部屋の中から泣き声が聞こえる。

 圭人は必死に扉を開けようとするが、びくとも動かなかった。



「ゆめ、か。」


 圭人は体を起こし、前髪をうっとおしそうにかき揚げた。

 嫌な思い出だ。

 嗚咽を堪えて泣いているしづくの元に駆け寄って抱き締めたのを覚えている。

 ありきたりの言葉でしか慰められなくて自分が嫌になったのも。

 しづくは、高校の時に両親を奪った交通事故で自身も大怪我を負いその後遺症で子供が授かりにくい。

 それはしづくのせいではないし、圭人も分かって結婚した。

 ただ、喜びが悲しみに変わる瞬間はあまり体験したくはない。

 だから、今は医者と相談しながら子作りをしていた。次は大丈夫だと希望を持ちながら。

 そういえば、次、いつ行くんだった?

 圭人は定期的に通っている産婦人科の通院日が気になった。

 もう行く日は過ぎているはずだ。

 一人で寝るには大きすぎるベッドを下り、カレンダーを確認する。

 1ヶ月近く過ぎている。

 まあ、通う必要のあるしづくが居ないのだから、圭人が行く必要はない。

 結婚と同時に建てた新居。今、いるのは圭人一人だけだ。その圭人も今はたまに帰ってくるだけ。

 しづくはあの日以来見ていない。

 一ヶ月くらいになるか?

 最初のうちは昼間に荷物を少し取りにきていたようだが、最近はそれもない。

 どうしてるのだろう?

 気にはなっているが、こちらから連絡するのは許しを乞うようでしていない。

 ノロノロと着替えをする。今日はどうしても仕事に行かなければならない。

 仕事の関係でしづくの従兄に会うことになっている。その時、しづくのコトを話したいと言われた。

 気が重い。

 いくらショックだったとはいえ、こんなにも音沙汰無しはないんじゃないか。

 まあ、圭人もしづくに連絡を取ろうとしたのはたったの一回だけ。それでも一回はしたのだから。

 身だしなみを整えると圭人は家を出た。

 圭人は食品製造グループの跡取り息子だ。今は叔父が社長をしている子会社で働いている。

 応接室を新しくするため、デザインをしづくの従兄の会社に依頼していた。

 応接室は微妙な雰囲気に包まれていた。

 圭人の隣には叔父で社長の金正が座っている。

 向かいのソファーにはデザイン会社社長でしづくの従兄の寺田正哉としづくの双子の弟のしづる、この会社担当の永沢が座っていた。

 仕事の話しは終わって、今からプライベートだ。

 寺田正哉が封筒から紙を取り出した。


「圭人くん、これに署名をお願いします」


 一つは、誓約書。

 一枚は、離婚届。

 両方、しづくの署名がある。

 話し合いも何も無しにいきなりこれはないだろう。


「寺田さん、これは一体?」


 叔父の金正が怪訝な表情で問いただしているが、圭人は迷わず誓約書を手元に引き寄せた。

 そっちがその気なら、それでいいじゃないか。ゴタゴタ揉めるのも面倒だった。


 お互い金品を要求しない

 お互い理由を話さない

 お互い連絡を取らない、会わない


 たった三行書いてあるだけの紙が四枚。全て同じ内容だ。

 しづくの名前の上に圭人は自分の名前を書き込んでいく。四枚とも。

 離婚届にも記入を始める。


「圭人!」


 金正の制止の声も無視する。

 何も話したくないのなら、それでいいだろう。5年間の結婚生活は、しづくにとって会う必要もなく終わらせられるものだったのだろう。


「はい、書けました」


 正哉の方に書き終わった紙を置く。


「お前!」


 しずるが唸るように声を出すが、正哉に止められていた。

 怒るくらいなら、こんな紙、出すなよ。


「しずる、役所に出してこい。モロモロの手続きも忘れるな」


 正哉は内容を確認すると、離婚届をしずるに渡していた。


「正哉兄ちゃん!」

「早くしろ。健康保険証はすぐにいるんだ。」


 しぶしぶとしずるは立ち上がり、圭人を睨んで部屋を出ていった。

 保険証がすぐにいるって?

 圭人は気にはなったが、訊ねる気は無い。話し合いも無しに紙切れだけで関係を終わらせる女に用はない。


「寺田さん、これはどういうことで?しづくさんはご病気なのですか?」


 金正は不安そうな表情を消せず、甥っ子の急な離婚に驚いていた。


「先日まで入院をしていました。やっと退院できたのですか、しばらく通院が必要と診断されていますので」


 正哉は二枚の誓約書を一通ずつ封筒にいれ、圭人の前に一通、金正の前に一通、後の二枚は封筒にしまい、鞄から入れ換えるように違う封筒を取り出した。


「誓約書の保管をお願いできますか?こちらの一部はしづく、もう一部を私が保管いたします」


 封筒から紙を出す。

 診断書と保険明細書。


「圭人くんの健康保険で入院していましたので。支払いは終わっています」

「明細って!圭人、知らなかったのか?」


 圭人は、取り出したタバコを指で挟んだまま動きを止めた。


「しづくの弟のしずるが連絡を取ろうとしてましたが、連絡が取れたのはしづくが救急車に乗る直前の一度だけと聞いています」


 正哉はテーブルに違う紙を置いていく。発信履歴。


「しずるの携帯の発信履歴です。携帯や自宅の留守電に伝言を残しました。職場にも何回か電話させていただいたのですが、連絡がつかなかったようです」


 圭人は自分の携帯番号が並んだ紙を見た。全部といいたくなるほど同じ数字が並んでいる。


「しづくさんは、どうされたのですか?」


 金正がハンカチを出して、額を拭っている。


「四週間前、自転車にぶつかられましてね。腹部を強打し・・・」


 正哉は小さく息を吐いて、言葉を続けた。


「流産しました。出血がひどく昏睡状態にもなりましたが、どうにか退院するまで回復いたしました」


 圭人はタバコに火を点けようと、タバコを咥えようとするが指に挟んだタバコが無い。


「しづくさんは、大丈夫ですか?」


 刺すような視線を隣の金正から感じるが、圭人は落ちたタバコを探した。テーブルの下に落ちている。


「これをご覧ください」


 永沢がポータブルDVDプレーヤーを机の上に置き、再生させた。

 圭人はやれやれと落ちたタバコを拾うと、プレイヤーに目を向けた。



 どこかの飲食店の映像が流れ出す。

 ザワザワしている店内。何かの祝いのようだ。


『しづくが!今すぐ行くから』

『しずる、何かあったのか?』

『しづくさん、駅に行ったんだろ』

『神田がバカやってたりして!』


 慌てて走り出すしずるを追って、画面が上下左右に揺れる。

 倒れて腹部を押さえている女性。ピンクのコートを着ている。心配そうに男性が付いている。


『し、しずる、ここ、ここだ』


 しずるはしづくの側に駆け寄ると、男性の胸ぐらを掴み脅すように聞いている。


『神田、何で?』

『じ、自転車にぶつかって・・・。しづくさん、すごく痛がって、救急車、呼んだけど。』


 付いてきただろう者がしずると同じようにしづくの側に寄って声をかけている。

 苦痛に顔を歪ませて、小さなうめき声をあげている女性が映っていた。


『なんで、自転車なんかにぶつかるんだよ!』

『あ、あそこのラブホから出てきたカップルがいて・・・。しづくさん、知り合いだったらしくて。』


 ラブホを映し出される。

『名前、呼んで、しづくさんが男のほうに近付いたら・・・。男がしづくさんを振り払って、また中へ。

 よろめいたしづくさんに自転車がぶつかって・・・。』

『男って、誰だよ!』

『け、けいとって、呼んでた。』


 小さなサイレンが聞こえてきた。

 しずるはスマホを取り出すと舌打ちしながら操作し耳に当てている。


『誰にかけた?』

『けいと、しづくの旦那』


 しずるは、心配そうにしづくを覗きこみながら、相手が出るのを待っている。サイレンの音が大きくなってきた。


『圭人!しづくが大変なんだ!』


 しずるの表情が一変する。


『ホントに女と一緒なのか!

 おい!撮ってるのかよ!』


 しずるが、カメラのほうに手を伸ばし、レンズを隠そうとしていた。


『証拠になるじゃん』


 赤いランプが定期的に辺りを照らしている。

 しづくの側には救急隊員がいた。


『ご家族のかたは?』


 スマホをポケットにしまったしずるが救急隊員のほうを振り向いた。



「その時の映像です」

 正哉はプレイヤーからDVDを取り出すとケースに入れた。その隣に白い封筒を置く。『圭人さま』と書かれている。


「その日、しずるがデザインした店の完成披露会がありまして。参加していたしづくは、帰るために駅に向かう途中でした」


 金正の手は大きく振るえ何かを必死に我慢しているようだった。


「20%以下だそうです」

「20%?」


 正哉に金正が聞き返す。


「しづくが次()()()子供を授かって、()()()子供を生める確率です。それもあって、入院が長引いたのですが」


 正哉は淡々と答えた。


「しづくさんは・・・」

「知っています。知っているからこそ、誓約書と離婚届を準備しました」


 永沢がプレイヤーを片付け帰る準備をしている。


「このDVDは、お渡しします。

 しづくは、子供が好きで、圭人くんとの子供を欲しがっていました。このような結果になり、残念です。

 来週の日曜日にしづくの私物を引き取りに伺います。圭人くん、ご準備願いますか?」


 名前を呼ばれて、圭人はぎこちなく正哉の方を見た。


「しづくはまだ出歩ける状態ではないので、私としづくの弟のしずる、その婚約者で伺います」


 正哉は立ち上がり、永沢もそれに続く。永沢が自分のスマホを見て正哉にそれを見せている。


「離婚届も無事、受理されたようです。そちらの手続きもお願いできますか?健康保険証やクレジットカード類は、その封筒に入っています。

 お時間を取っていただいて、ありがとうございました。失礼します」

「て、寺田さん、待ってください。」


 慌てて金正が声をかけるが、正哉たちは一礼をして部屋を出ていった。

 圭人は左頬に痛みを感じた。

 金正が何か言っているがよく分からない。

 机の上にある″誓約書の封筒″と″診断書と保険明細書の封筒″と発信履歴とDVD。そして、名前が書いてある封筒。そこに入っているのはカード類だけ?

 何が起こったんだ?

 誓約書にサインして、離婚届を書いて、診断書と明細を見せられて、発信履歴を見せられて、DVDを見せられて・・・。

 それより・・・・

 流産した?

 誰が?

 また、あの()()()()()()()()

 頬に冷たい物が当たる。

 目の前に見知った顔が心配そうに圭人を見ていた。


「しづくさんのこと、分かったの?」


 優しい、優しい声。いつも圭人を心配してくれる。

 その優しさに縋り付く。腕を回して、優しさを求めてしまう。


「しづくを一人で泣かしてしまった」


 圭人の腕に力が入る。


「しづくは、しづくは、あんな寂しい場所で、いなくなってしまった子供を思って泣くんだ」


 圭人の目から、涙が溢れた。

 しづくが涙を見せるのは圭人の前だけ。

 そんなしづくを一人で泣かしてしまっていた。

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