9.江里3
江里は店で人が来るのを待っていた。
葉月に会ってから、圭人くんが江里のところに来なくなった。
圭人がまた逃げているのが分かっていた。
逃げて、逃げて、どうしようも無くなったら、江里に泣きついてくる。何も聞かずにただ慰めるだけの存在として。
そういう風にしてしまったのは江里だ。
だから、しづくさんからも逃げて逃げて逃げすぎて、その罰を今受けていることに気付いてもいない。
「こんばんは」
野村恵美さんが姿を現した。勝ち誇った目で江里を見ているのが哀れでしかない。
江里が恵美さんを誘った。
彼女一人では衝撃を受け止められないだろうと。
恵美さんは一人で喋っていた。
圭人くんがどれだけ素晴らしい人だと自慢気に話している。
確かに圭人くんは仕事は出来た。
仕事は圭人くん個人のことでは無いから、逃げることもなく対処していた。大きな問題も他人が元となったことがほとんどで難なくこなしていた。
昔の女性関係も江里のような分かっている女や思惑がある女がほとんどだったから揉めることも少なかった。
恵美さんが圭人くんを誉めれば誉めるほど、憐愍の思いが強くなる。
圭人くんは仕事が忙しかったのか、来るのが遅かった。
もう少し遅かったら、この哀れな犠牲者を説得しようとしてしまいそうだった。聞き入れてくれなかっただろうけど。
恵美さんは嬉しそうに目を輝かしていた。
圭人くんが避けて座っているのに、ポジティブに取る恵美さんは凄いと思う。
もう見ていられない。
江里は視線を下に向けた。
圭人くんの妻になれると疑ってもいない恵美さん。
それが彼女の妄想に過ぎないのが分かっているだけに辛い。
「赤ちゃんが出来たみたいなんです」
江里は納得した。そういうことか、と。
それは起こりうることだった。だから、圭人くんは気を付けなければならなかった。江里のことを言われたからと、妻の座を狙っている恵美さんと関係をもってはいけなかった。例え、江里のことをしづくさんに話されてしまっても。
「そうです。しづくさんは、生めなかったでしょう」
江里は固まった。それは絶対に言ってはいけないことだった。本当のコトでも。子供がいらないわけではなく、欲しかったのだから。
ああ、圭人くんが逃げようとしている。その前に捕まえておかなければ。このままでは彼女だけ傷付いて終わってしまう。
「俺の子か?」
恵美さんを疑う圭人くん。このままいけば、疑いのままに恵美さんを責めるだけ責めて、責任を取らずに逃げるだろう。
勝手に作った子だ、責任はないと。
だけど、そういうことをしていたのでしょ。しづくさんを裏切って。子供が出来るかもしれないことを江里とも。圭人くんに知らせずに勝手に生むことも出来た。それをしづくさんが知ったらどう思うか、考えたことはある?
「い、いらない」
そう、圭人くんは、たった一人の女性との子供しか求めていなかった。彼はそれを分かっていたつもりで、全く分かっていなかった。だから、しづくさんを裏切れた。それを分かっていて、彼を受け入れた江里の方が罪深い。
「家を見せてもらっていい?」
圭人くんがホッとしたように頷いた。まだ、間に合った。逃げようとしていたのを捕まえられた。
久々に見た圭人くんの家は寂しかった。灯りが一つも点いていなくて、独りぼっちのようだった。
中に入ったことはない。職場の飲み会の帰りに乗り合わせたタクシーの窓から見ただけ。その時はとても暖かそうな灯りが点いていた。
家の中はおそらく凄い状態だろう。
隣で恵美さんが息を飲むのが分かった。
大きく破れた壁紙、隅に追いやられた家具たち。穴が開いている壁もある。
「内装は、しづくさんのデザインでしたよね」
自分の声なのに、他人が話しているように聞こえる。
親戚のデザイン会社の社長とインテリアデザイナーの卵だったしづくさんの弟にアドバイスを受けながら、しづくさんが内装を決めたと聞いていた。こんな状態でなければ、ホッとできる空間だったのだろう。柔らかな色使いでそう感じる。
寝室が一番酷かった。一番長く圭人くんとしづくさんが一緒にいた場所。
「そう、しづくがデザインした。だから、何処もかしこもしづくの気配をして・・・」
苦しそうに圭人くんが言っている。縋り付くような目で見てくる。その瞳は本当は江里を映していない。そのことは分かっていた。それでも良かった、今までは。
いつもなら、もういいと慰めていただろう。圭人くんのためにならないのに、圭人くんのためだと言い訳して。
「どれだけ壊しても、新しい壁紙はしづくなら何にするだろうか? 家具はしづくはどんなのを選ぶ? 次もしづくを考えてしまう」
圭人くんが求めているのはしづくさん。どれだけ、圭人くんが消そうとしても決して消せることは出来ない。ずっと探して求めているのだから。
恵美さんは茫然としていた。
部屋の状態で? 圭人くんの告白で?
「ここは、しづくとの思い出が多すぎて、引っ越しも考えた」
部屋を見る圭人の目は虚ろ。その目には誰も、いいえ、しづくさんしか映っていない。
「何処に行っても、しづくなら、どんな感じにするだろうと考えてしまう。ホテルに泊まっていても」
やっと気付いた? 誰を探しているのか、誰を求めているのか?
圭人くんがやっと江里が居たことを思い出したようだ。
虚ろな目が江里を捕らえ、苦し気に歪む。
「だから、お別れを言いたかったの。私はしづくさんを越えられない。私は私を幸せにしてくれる人を探すわ」
だから、もう会わない。連絡しないで。
自然と笑みが浮かぶ。不思議と泣き声にならなかった。
さようなら、甘えん坊の手間のかかる愛しくて残酷だった男。
「江里、ありがとう。」
ごめんなさいよりましな答えだわ。
「恵美」
恵美さんがびくりと肩を揺らしている。
「子供がいてもいなくても、お前と結婚は出来ない」
もう大丈夫。圭人くんは逃げていない。
「そ、そんなー!」
恵美さん、仕方がないわ。あなたもしづくさんを越えられない。
「俺の子なら認知はするし、養育費も払う。だか、父親にはなれない。俺はその子を自分の子として愛せない」
逃げずにはっきり言えている。
これなら、本当に妊娠していても大丈夫だろう。
母子共に生活に困ることはないと思う。
恵美さんは、ショックのあまり床に座り込んでしまった。
「帰りましょう」
キッと恵美さんに睨まれたが、その目にはみるみる間に涙が溢れ零れ落ちていく。
「もう終わったの。ここにいても仕方がないわ」
恵美さんは圭人くんを見て、悲しそうに顔を歪めた。
圭人くんはもう恵美さんを見ていなかった。
「帰りましょう」
恵美さんを立ち上がらせ、部屋を出る。
「さようなら」
とは、言ったけど返事は無かった。
今のことで、目一杯なのだろう。
呼んだタクシーに乗り込み、もう見ることもない家に小さな声でもう一度さようならを言った。
恵美さんはタクシーの中で妊娠は分からないと涙を流しながら言い始めた。
月のものが遅れるのはいつものことで、しづくさんと離婚したからそう言ったら結婚出来ると思った、と。
病院でちゃんと検査を受けて結果を連絡してあげてねと言い聞かせて、恵美さんとも別れた。
段ボールだらけの家に着いた。
ボタッ、ボタッ。
床が濡れる。座り込み、嗚咽をあげた。
声が枯れるまで泣いてもいいかな?
明日は笑えるようになりたい。
年齢
しずるの婚約者梓 27歳