記憶のない殺人 ~前編~
「あら」
夕暮れが差し迫る時刻、氷川神社の巫女・澪は、鳥居の前に佇む中年男を目の端にとらえた。
「あの……」
声を上げかけて、はたと口を噤む。なぜならば、澪はその男を知っていたが、男は澪を知らないはずであったからだ。
しかし、一度上がってしまった声を消すことはできない。両手で口元を押さえる澪を、男は不思議そうに見ていた。
そこで澪は、気を取り直すと笑顔を作って言う。
「ご参拝ですか?」
くたびれた背広をまとったサラリーマン風の男は、しばらく何やら考えているようだったが、そのうちに重い口を開いた。
「……神主はいらっしゃいますか?」
澪はうなずくと、男を本殿に隣接する社務所兼自宅へと連れて行く。
澪は、父である神主に取り次いだ。その後、そっとお茶を出しただけで、すぐに部屋をあとにしたのである。
境内を竹箒で掃いていると、家から男が出てきた。案内してから三十分も経っていなかったと思う。澪に会釈をすると、男はそそくさと鳥居を潜り、帰って行った。
「お父さん、あの人……」
家に入るなり口を開く澪に、父は深くうなずいて言う。
「ああ。あの人が借りている体の持ち主だ」
「あの人」とは、自分が死んだことに気づけずに彷徨い続け、澪に対して深い執着を持つ霊のことである。この日は自らの意志で氷川神社を訪れたようではあるが、あの中年男もまた、「あの人」に憑依されている者の一人であった。
「お父さんに何の話があったのかしら?」
尋ねると、父は重い息を吐いて言う。
「相談を受けたのだよ」
「相談?」
「近頃、記憶を失くすことがよくあったらしくてね」
「……それは、あの人のせいよね?」
「ああ、そうだろうね。あの人に悪気があるわけではないのはわかる。しかし、憑依された方としては、記憶のない行動をとることがあるというのは、気味悪く思って当然だろう。気がつくと見知らぬ地にいることが多いらしくてな。だが、それには共通点があるらしい」
「共通点?」
「いつも見知らぬ地で気がつくのだが、それは必ず氷川神社の近くなのだそうだ」
「……」
「脳神経外科や精神科にまで行ったらしいが、これといって解決法を提示されなかったので、藁にも縋る思いでここへきたのだという」
「そうだったの」
一刻も早く、あの人に天上界への扉を開いてあげなくては……。
澪は、その話を聞きながらそう思うのだった。
それから、男はたびたび氷川神社を訪れるようになった。何やら相談にきているようだったが、澪にはその中身まではわからない。神主は、娘にであっても相談の内容を話すことはなかったのだ。
そして、ある日を境に、ぱたりと男が訪ねてくることはなくなった。
ちょうど、あの人を封印した時期からである。
あの人は、一月もの間札の中に封印されていたが、十日ほど前にようやく封印が解かれ、浄化
された魂は天上への階段を昇って行ったのであった。
そんなある日のこと。
スーツをぴしっと着こなした三十代と思われる青年が、氷川神社を訪れた。彼もまた、神主への面会を希望している。その胸には、向日葵を模したバッジがつけられており、その中心には天秤の絵が彫り込まれている。彼は弁護士である。
弁護士は、一時間ほども話して帰って行った。その後、澪はすかさず神主のもとへと行って尋ねる。
「お父さん、何かあったの?」
父は、いつになく神妙な面持ちで重い口を開いた。
「どうやら、事件に巻き込まれてしまったらしい」
「……事件?」
「よく相談にきていた人がいただろう?」
「……記憶が飛ぶことがあると言っていた人のこと?」
「ああ」
「でも、それは、あの人が憑依していたからでしょう? なら、もう解決したじゃない。あの人は、もう天上界へと還ったのだから」
「これからについては、記憶を失くすということはないかもしれない。だが、問題は、一ヶ月半前のことなのだ」
「一ヶ月半前……?」
「その頃なら、あの人が封印される前のことだ」
澪は嫌な予感がした。父は続ける。
「相談にきていた人の奥さんが、亡くなったらしい。……首を絞められて」
「絞められてって、それじゃ……」
「ああ。殺人事件だ。そして夫である彼は、その容疑者とされているそうだ」
澪はあまりのことに俄かに口を噤んだ。
「状況から考えて、彼の犯行であることはほぼ疑いようがないらしい。奥さんの首に残っていた指の跡も、彼のものと一致したとのことだ」
「そんな……」
「ただ、問題は、彼にその時の記憶がないということだ。先程の人は彼の弁護士でね。彼は、たびたび記憶が抜け落ちることがあり、犯行の時の記憶もないと供述しているようだ。弁護士の方は、その真偽を尋ねにこられたのだよ。私は、彼から相談を受けていたからね」
「待って、お父さん……」
話を聞いていた澪は、恐る恐る口を開いた。
「奥さんを殺したかもしれない人は、殺した時の記憶がないと言っているのね? でも、遺された証拠から、奥さんを殺したのはその人しか考えられない……。その人の記憶がないのは、たぶん、あの人が体に入っていた時よね。それなら、その人の奥さんを殺したのは……憑依した……その人の体に入り込んだ、あの人ということ……?」
震える声で尋ねる澪を前に、父は困ったような表情を浮かべた。肯定も否定もしない。だが、澪と同じように、どこか腑に落ちないものを抱えているようではあった。
「そんなはずないわ」
いまだ震えながら、澪が言葉を紡ぐ。
「あの人が、誰かを殺すことなんて、そんなことあるはずがないわ」
何も答えない父に、
「お父さん!」
澪が、俄かに声を荒げた。
「澪、落ち着きなさい」
「でも……」
「封印を施されたあとのあの人ならば、そんなことはしないだろうと私も思う。だが、それ以前に関しては、正直ね、何とも言えないのだよ。もちろん、あの人が殺人を犯そうとしてやったとは思っていない。けれども、あの人のような浮遊霊の恐ろしいところは、自分がよくないことをしていることに気づいていないことだからね」
そう言われてしまえば、澪はもう何も言い返すことができなかった。ただ、歯痒い思いを抱えたまま、唇をきゅっと噛みしめることしかできなかったのである。
それからほどなく、妻殺しの容疑をかけられていたサラリーマンは、裁判において無罪となった。
脳神経外科や精神科への通院履歴もあり、また氷川神社の神主だけでなく、あらゆる人々に記憶がなくなることについて相談していたことが認められたからだ。
責任能力なしにより、無罪……それが、裁判所の下した判決であった。
澪がその男と再会したのは、男が裁判で無罪を勝ち取ってから一年後のことである。
それは、澪が鳥居の前を竹箒で掃いていた時だった。先に声をかけてきたのは男の方だ。
「やあ、氷川神社の巫女さん」
かつてのくたびれた感じからは想像もつかないような明るい口調に、澪は声もなく、ただ一礼する。
「この神社には、本当にご利益というものがあるのかな?」
男の言葉に、澪は首を傾げる。
「どういうことですか?」
「ここの神主に相談にきてからだと思うんだけど、最近は記憶が飛ぶこともなくなったんだよ。おかげで仕事もはかどるし、とても気分がいいんだ」
男は声を上げて、実に楽しそうに笑っていた。
「今日、一年前の事件で無罪となった人に会ったわ」
夕食を摂りながら、澪は父である神主に話した。
「最近では記憶が飛ぶこともなくなって、仕事もはかどっているそうよ。……とても、喜んでいたわ」
すると父は、手にした茶碗をことりと置く。その変化を気にも止めず、澪は話し続けた。
「一年経ったとはいえ、奥さんを亡くしたというのに、あんな風に笑えるものなのかしら。それに、あの事件は……ただの殺人事件じゃないわ。記憶がないとはいえ、奥さんを殺してしまったのは自分自身なのよ」
「……」
「とても気分がいいって、そう言ったの。仕事もはかどるし、気分がいいって」
「……仕事がはかどる、か」
その呟きに、澪はようやく父の様子がおかしいことに気がついた。
「なに、お父さん? 何か気になることでもあるの?」
父は、湯呑に残った茶で喉を潤すと、首を傾げて言う。
「仕事とは何かと、そう思ってな」
「それはもちろん、サラリーマンとしての仕事でしょう?」
「澪。実はね、彼は会社をクビになってしまったらしいんだよ。あの事件のあと、すぐにね」
「え……」
「会社としては、いつ記憶喪失になって事件を起こすかもわからない者を置いておきたくないと考えるのは当然だからね。もちろん、それを直接的な理由として辞めさせたわけではないだろうけれど、あの事件の直後のことだ。おそらくはそういうことだったんだろうね」
「それじゃ、今は?」
「今は、生活保護を受けながら転職先を探しているそうだよ」
「そうだったの」
「だから気になるんだ。お前に言った仕事とは、一体どういう意味だったのかと思ってな」
父の言葉に、澪も首を傾げる。
澪は、先程会ったサラリーマンのことを思い出していた。
あの時、彼は仕事がはかどると言って笑っていた。
その笑顔は、実に楽し気で、そして……ひどく歪んだものだった。