本編 其ノ六 -白い空間-
気が付くと私は真っ白い四角い空間の中にいた。
現実感が全くないのに、夢の中のようなふわふわとした浮遊感もない、意識のはっきりした夢の中のような、明晰夢を見ているような不思議な空間。二日前に偶然に来てしまった空間だ。
予定通りうまくここへと来ることができたようだ。
少しでも何か得られる情報は無いかと辺りを見回してみるが、真っ白い四角い壁が四方にあるだけで、他には何も無い。
天井も床も壁も全て真っ白で距離感というものがよく分からなくなる。
それなのに何故私はここを四角い空間だと認識しているのだろうか?白がずっと無限に続いていく果ての無い空間かもしれないのに、不思議と私はここを比較的狭い四角い空間だと認識しているのだ。
穢
薬の精神安定作用の効果かもしれないが不安感や恐怖感といったものも感じない。
目の前を見てみると、前いたとおり同じ位置に真っ白いヤツがいた。
その白黒の左目で私をじーっと見ながら体操座りしている。
この前会った時と全く同じだ。
「お前は・・・一体なんなんだ?お前が治を攫ったのか?」
そいつは何も答えないしなんの反応もしない。ただ、その左目でずっと私を見つめているだけだ。
私もその真っ白いヤツを良く観察する。
上下七分丈程の真っ白い服、七分丈から伸びている真っ白い肌の手足から覗く真っ黒な爪、のっぺらぼうの顔の上に強膜の部分が真っ黒で真っ白い瞳の色をした左目だけが付いている顔。
前と同じだ、全く変わっていない。
こいつが治や柊さんのお兄さんを昏睡状態に陥れた元凶かもしれないと分かっているのに、おかしいくらいに自然とコイツの存在を受け入れている自分に驚く。
柊さんのお兄さんの手記にも書いてあったが、この真っ白ヤツはいつもそこにあるような存在として認識されるのだろう。
こいつが、アイ文を読んだ者の元に現れ、意識を持っていってしまう化け物?アイ文の元凶?治の意識はコイツに攫われた?
穢
目の前にいるコイツからはそんな危なさを感じない。むしろ、なんだか一人ぼっちでぽつんと佇んでいるような哀愁すら覚える。
なぜだか私はこの白いヤツに話が通じるのではないかと思って話かけた。
「ねぇ、キミ。お願いがあるんだ。治を返してくれないか?それと柊さんという男の人もだ。二人とも大切な人が悲しんでる、この二人の意識が戻ることを待ってるんだ」
「・・・・・・・」
そいつは俺の話を聞いているのか聞いていないのか、理解しているのか理解していないのか、クビを少し横に傾けただけだった。あとは何の反応もしない。
「アイ文とキミは何か関係があるのかな?キミは一体何なのかな?」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
私は少し気が急いた。
この空間での時間と現実の時間の進み方は恐らく違う。前にこの空間から目覚めた時は現実世界で数時間が経過していた。一時間という時間制限が付いている以上、あまりもたもたしている余裕は無い。
そこで白いヤツをじっと見つめていたわたしはふと前回と同じ疑問を抱いた。
コイツの顔は、これが素顔ではないのではないか?という疑問だ。
よく見るとラバーマスクのようなモノを被っているようにも見えるその顔は、如何にも取ってくださいと言わんばかりに、妙な好奇心を煽る様な怪しげな香りを放っている。
そんな私の内から溢れ出るマスクを剥ぎ取りたいというその好奇心・探究心を、柊さんとの触らないという約束が枷になって押し留める。
そうだ、私は彼女との約束によりこの顔に手を伸ばすことはしまい。絶対にしまい。だが気になる。なり申す。なりんす。
いや、待て。
よく考えれば、直接こいつの顔に触るわけではない。こいつが被っているマスクに触るわけだから大丈夫なのではないか?私は彼女との約束を破ったことにならないのではないか?
ジー
ほら、コイツも私に触れてほしそうに見つめている。
まるでご主人様に構って欲しい子犬ぬような様相を呈しているではないか。
穢
その顔がどうなっているのかと、内から溢れ出てくる思いがうずうずと疼く。
だが柊さんとの約束を破るわけにはいかない。私は約束したのだ、白いヤツには絶対に触らないと。
だが、白いヤツが被っている面ならば大丈夫なのではないか?
それならばヤツに直接触るわけではない、医師が手袋越しに患者に触る様なものだろう。
よし、時間も無い、こんなことを考えている間に現実世界でもう一時間経とうとしているのかもしれない。
手を伸ばした瞬間に柊さんに起こされるのかもしれない。ならば悔いの残らないようにここで過ごさねば。
穢
折角危ない思いをしてまでここへと来て、前と違う情報は得られませんでした、では柊さんにも治にも申し訳ない。それにここでヤツを触ったとしても、私がバカ正直に「触ってしまいました」といわなければ誰にもバレないではないか。
ジー
なんだ白いの、そんなに物欲しそうな顔をするな。
今からその面を取ってやろう、私が自らの意思で私自身の純粋な思考と行動力で貴様の面を覆うマスクを取ってやろう。
穢
私はそう思うと目の前に三歩進んでヤツの真正面に立ち、体育座りしているヤツを見下ろす形になるとゆっくりと両腕をヤツの両顎辺りに触れようと手を伸ばすが、途中でその手が止まる。
ヤツは私をクビを傾げてジーと見上げている。
あ・・・あれ・・・?何で俺はコイツを触ろうとしているんだ・・・?
いや、待て待て待て・・・自分の意思で触ろうとしているのだろう?
・・・そうだ・・・大丈夫・・・柊さんとの約束は破らない・・・大丈夫・・・マスク越しにコイツに触れるのならば・・・セーフだ・・・そもそも・・・私はコイツに触りたくないぞ・・・なんで触ろうとしてるんだ・・・?
思考が纏まらぬまま、思考がままならぬまま、思うより動けという誰かの名言を思い出した私は止めていたその手を伸ばし、ヤツの両顎に触れた。
ドロリ
ヤツに触れた瞬間、触れた両腕から何かドロドロとした怖ろしい不純な身の毛もよだつ良く分からないナニカが自分の中に流れ込んでくるのが分かった。
「!!?」
私はその瞬間ヤツに触れていた両腕を引っ込めたが、その一瞬の間に私の両腕に入り込んだドロドロ泥泥とした不純物が私の体内を駆け巡っているのが分かった。
腕から胸にきてそして首から頭にそのドロドロがゆっくりとそれでいて大胆に、他人の体内だということを一向に気にする様子も見せず、ずんずんずんずんと入り込んでくる。
なんだこの押し込み強盗の如き無遠慮で無思慮な泥は??誰が侵入を許可したというのか??俺か???
気持ちが悪い とても気持ちがわるい 気分が悪い 全身の皮膚が毛羽立つようだ なんだこれは なんなんだこれは ああ ああ ああ ああ ああ ここが現実なら間違いなく吐いているだろう 立っていられない 平衡感覚が無くなる そもそもここでは平衡感覚が元より希薄なれば 自分が立っているからこそ上と下が分かりけり
私は二~三歩後ろに後ずさると頭を抱えて膝を着いた。
頭がぐわんぐわんし目がぐるぐるする。
何か得たいの知れないモノが頭の中を全力で出口を求めながら明日を探して駆けずり回っているようだ。
痛くは無いが強烈な異物感違和感嫌悪感が全身を襲う。
むしろ痛いほうがまだ良かったのかもしれない、痛みは痛み止めでなんとかなる、ならば異物感違和感嫌悪感は何ならばなんとかなる???
分からない、分からない、俺は医者じゃない。医大生でもない。ただの帝大生。分からなくて当然だ。
何も問題は無い。
何故だろう言語感覚もおかしくなってきた気がする。
全身小刻みにガタガタ震え、視界定まらず、思考宙を飛び、四肢脱力す。
目の前を見る余裕無し、考える余裕無し、五感曖昧なりし、されど目前にいる白き者の気配切に伝わる。
何故か先程より断然鋭利に鋭敏に俊敏にヤツを感じている。
ヤツがゆらりと立ち上がったのが五感意外の第六感的感覚で分かった。
ぺた ぺた ぺた
近づいてくる
不味いな
多分あと二歩近づかれたら
ヤツに触れられてしまうのではないだろうか
そうなったらどうなってしまうのだろう???
多分、よろしくない事態になってしまうのではないのだろうか???
ぺた
ぺ
あ 柊さん 申し訳ない 約束 守れなさそうです
「東雲くん!東雲くん!!」
「!!!」
バチッと目を覚ますと、あの白い空間ではなく現実世界の治の病室だった、そして不安げな顔をした柊さんが私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫か?!」
「え・・・?あれ?柊さん・・・?」
「いい、まだ寝ていたまえ」
起き上がろうとする頭を掴んで押さえつけられた。
あの空間で起きた出来事に混乱している。
そして、目が覚めてもう一つ混乱していることがある。
それは、何故か、今、私は、柊さんに、膝枕されている。
今の混乱を比率で表すならば 白空間3 膝枕7 だ。
目の前に柊さんの顔がある。近くで見ると本当に整った顔をしている、まつ毛が長い、メガネが似合っている、鮮やかな顎の曲線を人差し指の腹で撫でたい、後頭部が柔らかい太ももに乗せられている、そして温かい、タバコの匂いが混じっているが良い匂いがする。いや、タバコが混じっているほうがかえって落ち着く気がする。私が無理に起き上がろうとしない為にだろうか即頭部を両手で掴まれているが、力はそんなに入っていないので痛くは無い。掴まれているというより、添えられているといった感じだ。
「あ・・・あの・・・柊さん?」
「何があった?キミ、尋常じゃない魘され方だったよ」
頭に触れている柊さんの両腕や太ももが僅かに震えている。
彼女が本当に不安だったことが痛いほど伝わる。
だからあの空間で白いヤツに触ってしまったこと、そして触ってから起きた異変については咄嗟に伏せることにした。
「目的の場所には行けましたが・・・昨日ルーズリーフに纏めたこと意外の新しい発見はありませんでした・・・申し訳ありません・・・」
「今はそんなこと別に良いんだよ・・・何か向こうであったのか?」
「いえ、何もありませんでした・・・ですが、あまり向こうにいると・・・気分がとても悪くなることがわかりました・・・」
私は目を瞑って柊さんに目と表情から向こうで起きた変事を読まれることを避けた。
「そうか・・・やはりこんな実験するべきじゃなかった・・・すまない東雲く」
「いえ、言い出したのは自分です。柊さんに責任はありません」
その言葉の語尾に被せるように彼女の言葉を否定した。
あの白い空間でのドロドロとした得体の知れない泥のようなモノが身体に入った影響なのだろうか、全身が重くとても気だるいが、このままでは柊さんが自分を責めてしまうので必死でいつもの自分を取り繕う。
「それよりも大問題が発生しています」
「ん?なんだい?」
「目が覚めたら柊さんに膝枕されていました」
「イヤかね?」
「全くイヤじゃありません、むしろ頭を撫でてください。とてもイヤな夢を見ました」
「よしよし」
嫌な顔一つせず私の頭を優しく撫でてくれる柊さん。
その手付きがあまりに優しくて、私は幾久しく忘れていた女性が持つ母性というものを感じた。
無性に癒される、何故か気持ちを抑えていないと涙が零れ落ちそうになるほどだった。
おかしい・・・柊さんは不自然に思っていないようだが、いくらオドケタ体を装っているとは言え、頭を撫でてくださいなんて普段の私だったら口が裂けても言う筈がない・・・・・・
しかも治の前で・・・
なんでだろうか・・・多分あの空間で起きた出来事が自分が思うよりも衝撃的で、風邪をひいた時の人恋しい不安感のように精神が多少おかしくなっているのかもしれない・・・・・・
いつもよりも理性が緩くなっている気がする。不甲斐無い兄ですまない・・・治・・・・・・
「色々と不安でね、キミを膝枕したら落ち着くかと思ってな。そしたらほら、私は即断即決の女だからキミの意識が無いことを良いことに勝手に膝枕をさせてもらっていたんだよ」
柊さんはこう言っているが、恐らく魘されだした私が少しでも楽になればとの良心から膝枕をしてくれたのではないだろうか?
現にこうやって私は大変に癒されているわけであるし。
「それは大歓迎です、私なんかの頭で良かったらいつでも使ってやってください」
それから暫くの間、私が落ち着くまで柊さんに膝枕をしてもらった。