本編 其ノ十一 -恋-
そう思うと胸のうちから力が溢れ出て、疲弊して千切れかけていた精神がまだやれると動き出す。
目の前を見ると体操座りしたヤツがじっと私を見ている。あの空間で私に触れようと手を伸ばしていたが、ここではそうするつもりは無いらしい。もしくは、精神的に持ち直した私に手出しが出来ないのかもしれない。
よくよく考えればこいつは私が弱っているときしか手を出そうとしない、ということに気付く。
つまり私自身がしっかりと気を保っていればこいつは私に手出しすることが出来ないのではないのだろうか?
じー
「・・・」
ならばこれから私はどう動くべきなのだろう、ここでじっとしていたところで絶対にコイツはいなくなら
ないし治だって帰ってきはしないだろう。
やはり、ここは鈴木くん達の話から何か発見したという柊さんを頼るべきなのだろうが、コイツに取り憑かれている状態の私が柊さんに接近すれば、彼女にまでコイツの災禍が及んでしまうかもしれない。
彼女と協力してこの事態に取り組むことが最善の方法ではあるのだが、そう思うとついつい足踏みしてしまう。
いっそのこと柊さんに全てを話してしまうのが良いのかも知れない。
私が約束を破ってヤツに触れてしまったこと、その夜携帯に入ったアイ文を読んでしまったこと、それ以降ずっとヤツに取り憑かれていることを。
どうするべきか考えながら、何気なく携帯を見てみると柊さんからメールが入っていた。
「調子はどうだい?こっちの調査は順調だよ。もう少し情報が集まって、キミが快復したら直ぐにでも行動に移したいくらいだ。実を言うと、この資料を読み漁って選別する作業が少々楽しくなってきている。だからキミは焦らずゆっくりと療養したまえ。私が情報を集めて整理して、解決編になる頃にはキミが助手として復帰して私がこき使うという寸法だよ」
その文面には私への気遣いと、私を頼りにしてくれているという思いが込められていた。
柊さんが私を待っていてくれている・・・心配してくれている・・・
誰かに心配されることが、頼りにされることがこんなに嬉しいことだとは思わなかった・・・
そうだ・・・いつまでも隠している場合じゃない・・・直接会うことが危ないのなら、メールか電話で伝えればいいんだ・・・私はバカだ・・・柊さんに二度も嘘を付いて一体何がしたいんだ・・・
柊さんへ連絡を入れようとすると、何やら目の前に気配を感じて集中していた携帯から目を離しふと前を向く。
じー
案の定敷布団の上にあぐらをかいて座っている私の足元に、体操座りしたヤツがじっと私を見ている。
なんてことはない、ヤツに特に変化も無い。
コイツと一緒に居る状態に慣れてしまうのもどうかと思うが――なんだか今回はじーっと見ているヤツの視線が妙に気になって、私もヤツをじーっと見返した。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
やはりなんてことはない、ヤツは何時もの如くその白黒の左目でじーっと私を見つめているだけだ・・・
そんなことをしている時間があるなら、早く柊さんに返信と、こうなってしまった経緯を伝えなければ・・・
そう思って携帯に視線を戻した時、ふいにどろっとした感情が私の中に流れた。
ヤツから移された泥が今まで侵していた場所はもう侵せないと諦め、新たな侵食場所を求め他の感情の中へずるりと入り込んでくるように――
どろどろ ドロドロ 泥泥り
なんだか急に頭の中が柊さんでいつぱいになる。
柊さん・・・柊木葉さん・・・とても素敵な人だ・・・とても美人でお茶目で知的な人・・・
凛とした知的な大人びた美人といった風貌でありながら、時折見せるお茶目さと無邪気さ、それが彼女の魅力を際限無く際立たせている。
それでいて、人を気遣うことができて、人の感情の機微にも聡い。
だから彼女との会話はいつも楽しいし癒される。自分を飾らないで済む。他人と自分の為に作った、外向けの自分を出す必要が無い。むしろ彼女とは偽らない素の早雲として相対したい。彼女となら何時までも話していられる。
私は他人に見つめられのが嫌いだ。
そわそわして落ち着かなくなるし、なんだか粗探しされているような気になるから。
だが、彼女に見つめられるのはイヤじゃない。むしろ見つめられていたい。
私は他人に触れられるのが嫌いだ。
元々他人よりパーソナルスペースが広い私は、不必要にづかづかと近寄られるだけでも不快なのに、それに気付かないどころかさらにべたべたと触ってくるヤツらの神経が理解できない。
だが、彼女に近寄られるのも触れられるのはイヤじゃない。むしろもっとそばいて欲しい、触れて欲しい。
出会って一週間も経っていないのに彼女を考えるだけでこんなにも、思いが、気持ちが溢れてくる。
彼女を考えるだけで溢れ出して来るこの感情は一体なんなのだろう?
ワカラナイ・・・ワカラナイ・・・ワカラナイ・・・ワカラナイ・・・ワカラナイ・・・
ただ、一つ分かるのはこの感情はとてもドロドロとしていて、あまり良いもののようには感じない・・・
「柊さんにお話したいことがあります。お電話してもよろしいで」
柊さんへ送るメールの為の文章を打っていても、そのモヤモヤドロドロとしたヘドロのような黒い感情が私から離れない。
むしろ一文字一文字タップする度に柊さんをオモウその感情が高まっている。
ドロドロドロリ
そうだ・・・あんな素敵な女性なのだから、きっと周りの男共が彼女を放っておくわけが無いだろう。
もしかしたら柊さんには今既に付き合っている男がいるのかもしれない。良く考えたら柊さんに彼氏がいるかいないかなんて確認していない。柊さんと始めて会ったときに、彼女目当てでこのサークル入った男共は皆追い出したと言っていたが、よく考えればそれは今付き合ってる彼氏がいて、ソイツに悪いから追い出したのではないのだろうか?いや、普通に考えればお兄さんの為アイ文研究のため、真剣に研究をするつもりの無いヤツらを追い出しただけなんだろうが、本当にそうなのだろうか?そうではないと断言できる根拠が私には何も無いじゃないか。
イヤだな・・・柊さんに彼氏がいるなんて想像するだけでもイヤだ。別に俺の彼女でもなんでもないんだが、他の有象無象の男共に取られるのは何だかとても癪に障る。
思考がまた悪い方向へ向かっていくが、今の私にはソレの止め方がワカラナイ。
暗い想いが止められない。
会いたいな・・・柊さんに会いたい・・・アイタイ・・・アイタイ・・・アイタイ・・・
でも、今会ってしまってはコイツが柊さんにも移ってしまうかもしれない・・・
だけど今会いに行かねば他の男に柊さんを取られてしまうかもしれない・・・
待て待て、よくよく考えればコイツが柊さんに移ってしまうと私は思い込んでいるが、もしかしたらそんなこと無いのかもしれない。現に私は一度治の病室でコイツと会っているが、二回目に私がコイツに触ってアイ文を読むまでは現になんともなかったのだ。
ならば大丈夫なのではないだろうか?私が変に警戒しすぎているだけなのではないのだろうか?
昨日から一切何も食べていないこと、精神的にやられていること、頭を使いすぎていることで随分と意識と視界ががボヤボヤとぼやけている。
フラフラともするが、ある意味フワフワしているとも言える。
意識がボヤボヤしているのに対し、思考はむしろ異常なほど冴え渡っている。
ああ・・・会いたいなぁ・・・柊さん・・・
私はボヤけた意識のまま、幽鬼のようにゆらゆらと立ち上がると、シャワーを浴びて歯を磨き顔を洗う。
その作業が一通り終わると、濡れた髪がまだ乾かぬうちにポケットへサイフと携帯と鍵を入れて家を出た。
ぺたぺた ぺたぺた ぺたぺた
案の定私が家を出るとヤツがぺたぺたと裸足特有のぺたぺたとした足音を立てて後ろを着いてくる。
通勤ラッシュを過ぎた時間帯だからだろうか、私の家があるアパートが少し人通りの少ない場所にあるからだろうか、駅へと繋がる裏道に人影は無い。
だが今はヤツのことなんかどうでもいい。
私は今から柊さんに会わないといけない。柊さんが他の誰かに取られてしまう前に彼女に会わなければいけない。
生まれて初めて他人に執着というものを抱いた。何故かはワカラナイ。そもそもこのよく分からない泥泥とした焦燥感を抱く感情が何なのかすらワカラナイ。自分のものなのかも、誰かに刷り込まれているものなのかも。
なんだかコイツに関ってからというもの、生まれて初めての体験をしまくっている気がする・・・・・・
大学へ向かう電車に乗り込むと車内は人も疎らでいくらでも座れる席があるが、座らずにドアの脇に立って手摺の端を背もたれにする。
なんで座らないのか、理由は単純明快で、早く降りることができるからだ。
すぐに会いたい、一秒でも早く柊さんに会いたいからだ。
見慣れた景色がいつもより随分ゆっくりと流れている気がする。
大変にモドカシイ、もっと早く動かないのか、運良く特急に乗れたが、鈍行より遅いんじゃないのか?
アイタイ アイタイ アイタイ アイタイ アイタイ アイタイ
ハヤクアイタイ ハヤクヒイラギサンニアイタイ
そういえば柊さんのメールに返信するのを忘れていた・・・
まぁいいか・・・どうせ今そちらに向かっているのだから・・・
目的の駅を降りて大学に到着すると、小走りでサークル棟へと向かう。
よくよく考えれば彼女が部室にいるかどうか確認していないし、彼女が大学に来ているのかすら私は分かっていない。いないのかもしれないという可能性を逸る気持ちが無視して、絶対に居ると根拠の無いイカれた確信を抱きながら真っ直ぐに部室へと向かう。
[ミステリーオカルト研究サークル]
部室の前に到着する。
アア・・・ヒイラギサン・・・ヒイラギサン・・・ヒイラギサン・・・・・・
私はノックもせずにそのドアを開ける。
ガチャッ
部屋の中はコーヒーとタバコの匂いが混ざって、ハードボイルドな探偵がいる事務所のような匂いをしていた。
「んっ?東雲くん???」
居た・・・柊さんだ・・・二日前に会っているのに随分と久しぶりに会ったような気持ちだ・・・
私を見て驚いた顔をしている・・・それはそうだ私はインフルエンザで寝込んでいるという嘘を付いていたのだから・・・・・・
白衣を羽織った彼女は二人掛けソファーの真ん中にどかっと座って、机の上に置いてある資料の山と格闘していた。
机の上には資料らしきものが無造作に散らばって、もう隠すつもりも無いのか、ガラス製の大きな灰皿の中は吸殻で山盛りになり、その脇に中身の入った湯気の出ていないコーヒーが入ったカップが置かれている。
「東雲くん?どうした?何かあったのか?インフルエンザじゃなかったのか??」
柊さんは私の異変を感じ取ったのか、入り口の前で無言のまま立ち止まっている私の元へソファーから立ち上がって近づいてくると、心配そうに下から私の顔を無防備に覗き込んでくる。
「何があった東雲くん?」
彼女の声が真剣なものになる。おふざけなしの本気のトーン、だが、今の私はそれどころではなかった。
柊さんの顔が目の前にある。ああ・・・なんてキレイな顔なんだろう・・・まつ毛が長い・・・切れ長のぱっちりとした目が私を覗き込んでいる・・・スーッと整った鼻に・・・シュッとした顎のライン・・・ピョコピョコと揺れるポニーテールもまた愛らしい・・・色白の首筋がなんと色香溢れてることか・・・
そして何よりも、その唇が私の目を離さない。
なんて可愛い唇をしてるんだ、奪ってしまいたい。
リップクリームを塗っているのだろうか桃色の唇がツヤツヤと妖しい輝きを放っている。
「東雲くん???」
「柊さん・・・」
「ん?どうした?」
私は半ば無意識に彼女の華奢な肩を掴むと、唇を奪った。
「んっ?!」
柔らかい、柊さんの唇はとても柔らかい。
コーヒーとタバコのほろ苦い味がする。
口付けとはこういうものだったのか、なんて甘美なんだ。
私はその痺れるような誘惑に抗えず夢中で彼女の柔らかい唇を貪った。
「んっ・・・んんっ・・・っ」
「東雲くんっ・・・!」
弱弱しく両手でトンと胸を押される、その彼女の抵抗に私はふと我に帰った。
二人の唇と距離がほんの少し離れる。
「あ・・・ああ・・・」
今までの熱病に冒されていたようなおかしな精神状態から急に思考がクリアになると、私から顔を横に背け、はぁはぁと息を切らしている柊さんを見て、私は自分の犯してしまった過ちに気付き、声にならない掠れ声を発しながら二、三歩後ろに後ずさる。
私は何てことをしてしまったんだ・・・柊さんに無理矢理口付けをしてしまった・・・
何て事をしてしまったんだ・・・なんでこんなことをしてしまったんだ・・・こんなのただの犯罪じゃないか・・・
私のことを心配してくれていた彼女の優しさを仇で返してしまった・・・・・・
罪悪感で脆弱な精神が千切れそうになり 景色が眩む
目がグルグルと回る
ぐるぐると回る私の全て
脳内の何処かで
ヤツが笑っている
五感が麻痺している中で
私に流れ込んだヤツの泥が媒介になって
ヤツの気配が鮮明に分かる
私の真後ろにいる 私を連れて行こうとしている
もう何も分からない 意識が遠のいていく気がする 目の前にいるはずの柊さんさえ分からない
ガバっと後ろからヤツが私に抱き付いてくる 案外力が強い
足元に黒い沼のような穴が空く ここに落ちたら戻ってくることはできないだろう
最後に
もう何処にいるのかも確認できない
私なんかが汚してしまった彼女へと謝罪する
「申し訳ありませんでした・・・柊さん・・・」




