本編 其ノ十 -家族-
テーテーテーテーテーテー テーテテテーテテテーテーテー
携帯電話の着信音で私はなんとかあの恐ろしい○れ渦巻く救いの無い世界から目覚めることができた。
全身が冷や汗でびっしょりとして、身体が冷たく、薬の影響か昨日から何も食べてないせいか精神的な消耗のせいかあの世界で浴びた○れのせいか、頭が朦朧として手が震え、得体の知れない、自分でも良く分からない謎の強迫間に苛まれている。
魘されていたのだろうか普段ならあまりシワになっていない敷布団のシーツもグシャグシャだった。
テーテーテーテテテー テーテーテーテーテーテーテー
異様な寂しさと不安と恐怖と危機感が綯い交ぜになったような精神状態の私は、とにかく誰かと話したかった。誰かと話してこの不安を少しでも拭いたかった。
枕元で鳴り響く携帯電話を手に取ると、あの世界から救ってくれたのは誰かと発信者を確認する。
「・・・え?」
発信者の名前を見た私は驚きで応答とスライドさせようとしていた手が止まった。
発信者
父
信じられない・・・父がこの短期間でまた私に連絡を入れてくるなんて・・・
用も無く連絡を入れてくるような人じゃない・・・まさか・・・治になにかあったんじゃないか・・・?
治に何かあったらどうしよう・・・そうなったらもう私は生きていても・・・・・・
乱れた精神が垂れ流す嫌な予想を振り払うように、呆けている自分へ渇を入れて、間違えて拒否をしてしまわないよう慎重にタッチパネルをスライドさせ無事応答すると携帯を恐る恐る耳に当てた。
きっと何か悪い知らせだと勝手に思い込み、動悸が激しい。
ドキッドキッと悪い意味で鼓動する心臓が煩い、なんと煩わしい心臓なのだろう。
血液を身体に送る役割を果たしている程度で図に乗るなよ心臓。ただのポンプが人体の根幹たる脳髄を悩ますな。
「早雲か?」
「・・・はい?」
父の第一声になんだか違和感を感じる。
おかしいな・・・その声がいつもの無機質な機械音のように感じない。
間違いなく父の声ではあるのだが、なんというか・・・戸惑いのようなものが混じっているような・・・父にしては珍しく人間味のある声だと思った。
「実はな・・・私も電話すべきか迷ったのだが・・・」
「は・・・・はい?」
あの父が、常時機械のように冷静に思考し合理的に行動する父が、電話越しに歯切れが悪い。恐らく何にかは分からないが、戸惑っているのだ。
珍しく、というよりも初めて耳にする父の調子に私も戸惑いが隠せない。
父に一体何があったのだろう?声の調子からして何か不幸なこと、治に何かあったという訳ではなさそうなことに一安心するが、私も何がなにやら良く分からない。
お互いそんな感じでもどもどしていると、父は気を取り直したのか、少し感情のこもった声で言葉を続けた。
「早雲、元気か?身体は大丈夫か?」
「・・・え?」
心臓がどきんと飛び跳ねた、本当にワケが分からなかい。
あの父が何の確証も無いのに、私の調子が悪いのでは無いかと心配をしているのだ。
気遣われて嬉しい、という気持ちよりも、在りえない・・・という思いのほうが大きかった。
父は機械のように合理的な人だ、実際に私を見て調子が悪そうだと判断するならまだしも、意味も無く人の体調を心配するような人ではない。
これは妙だ、オカシイ――
私はそのことに疑問を抱かずに入られなかった。
「・・・どうして急にそんなことを?」
「うん・・・実はな・・・今朝、夢枕に可椰が立ってな、私を睨みながら「早雲、早雲」って言っていたんだ・・・私も寝ぼけていただけじゃないのかと半信半疑なんだが、ヤケに鮮明でな・・・お前に何かがあって可椰が俺にそれを伝えようとしたんじゃないかと思ったんだ」
「・・・・・」
父からその言葉を聞いた瞬間、記憶の蓋が開いたように、あの人が最後に私へと残した言葉と場景がフラッシュバックする。
狭い個室のベッドにチューブに繋がれ横たわりながら、私だけに看取られたあの人のことを。
その時の心境が段々と蘇ってくる。
その時私はあの人の手を握っていた。
私から握ったワケじゃない。あの人が自ら私に手を差し出してきたのだ。私はその手を振り払うこともできたが、それを受け入れると優しく握り返した。
生まれて初めて握った母の手はカサカサと乾燥し筋張っていて、そして冷たかった。
その手を握り返した時に私は
「結局自分の人生で母というものの温かさ、柔らかさというものを感じることができなかった・・・」
と寂しく思ったのだ。それと同時に、嫌っていた私に看取られようとしているこの人のことを哀れに思った。
この人はただ寂しかったのだろう・・・家族の為に仕事を優先した父を、この人はどんどん受け入れられなくなっていった。だから父に似た私を嫌い、自分に似た治を愛した。
それを見かねた父がなんとか母の心を私にも向けようと苦心するが、奮闘虚しく母の心は私には向かなかった。私が幼い頃卵が嫌いだった理由も、母の作った卵料理に何故か必ず殻が入っていたからだ。
だが私はこの人のことを恨んではいない。どれ程酷い仕打ちを受けても私には実の親を心底嫌うことなんてできなかった。だから私は二人が離婚したときも、私達兄弟の親権を得られた父と違い、最愛の治を父に取られて気が狂いそうになっているこの人が見捨てられずに、私は申し訳なさそうにしている父と、泣き縋る治を置いてこの人についていった。
いや、もしかしたら見捨てられなかったのではなく・・・私は心の何処かで、どれ程酷い仕打ちを受けても最後まで付いていけば、いつかは私のことを愛してくれるのではないか・・・と心の何処かで思っていたのかもしれない。
そして今、最後の最後になって、私は生まれて初めて母に必要とされた。
最後まで温かさ、柔らかさ、母性というものを感じることはできなかったが、それだけで私にとっては十分だ。
「「早雲・・・今までごめんなさい。赦して、なんて言える立場じゃないし・・・信じてくれないかもしれないけど・・・今はアナタも好きよ早雲・・・愛しているわ」」
それが最後の言葉だった。
記憶の再生が終わると、私は暫く言葉が出なかった、言葉よりも先に出てくるものがあった、涙、それが音も無くボロボロと私の頬を伝う。あの時に流れなかった涙が今になって溢れてくる。
ああ・・・なんで俺は・・・今まで・・・忘れてしまっていたんだろう・・・・・
母さん・・・母さんは・・・最後に俺を・・・ちゃんと愛してくれていたじゃないか・・・
そして・・・今も私のことを見守ってくれているのか・・・
「・・・どうした早雲?本当にどこか悪いのか?」
父の声に多分に感情が混じっている・・・本当に私を心配している――
「お父さん」
「なんだ?」
「もし私が倒れたら、昔の時のように看病してくれますか?」
「・・・ああ、勿論だ。卵は・・・もう食べられるか?」
一点の曇りもない優しくそれでいて強い言葉だった。
「お父さんに伝え忘れていました・・・ボクはもう、卵が大好きなんですよ」
ヤツに触れてから移った呪いは今だに身体を蝕んでいる。
それでも、今の私の身体は軽く、心は晴れやかだ。
「そうか・・・早雲、困ったことがあれば言え」
「はい」
父はきっと私の異変を感じ取っただろう、涙声だし声が震えているし何よりも正常な状態ではない。
だが、それ以上に私の大丈夫という言葉を、私を信じてくれているからこそ父はそれ以上何も言わない。
それがこの人が持つ最大の優しさだった。
「では、またな。たまには電話してこい」
「はい。お父さんもお元気で」
通話を切って暫く何処を見るでもなくぼうっとする。
私はちゃんと最後には母に愛された・・・愛されていたのだ・・・・
「母さん・・・」
その言葉を発すると涙が溢れる。
私は幸せ者だ・・・父にも母にも弟にも愛されている・・・なんて幸せモノなのだろう・・・
そうだ・・・だからこんなヤツに負けてはいられない・・・必ず治を取り戻してやる・・・・




