好きになるという事
秋は凍えるような冬を迎え、二学期も季節の変化と共に終わった。
体育大会では教師参加型の競技種目があり、倉内先生も参加していた。
僕は彼女を見ないようにしていた。
体育大会も、テストも、文化祭も、僕には味気ないものに感じた。
僕にとっては倉内先生と過ごしたほんの僅かな時間の方が、濃密で価値のあるものだった。その価値にも目を向けなかった。
分かってはいたが、僕が素直になれないのは経験が足りない子供過ぎたのだ。
新しい年を迎え、あっという間に三学期を迎えた。
一月は居なくなる月、二月は逃げる月、三月は去る月と一月から三月は時間の経過が早く感じられると聞いたことがある。
三学期は三年生になる準備をする期間なので大事に過ごすようにと言われた。
東京では滅多に雪が積もらなくなった。
僕自身の雪の思い出は小学校一年生の時に、父親と兄と僕の三人で雪だるまを作ったのが雪の思い出だった。その頃と比べると、東京では雪が積もるということはなくなっていた。
それでも寒さは厳しかった。
二月の上旬であった。
この数ヶ月間、僕は一度も倉内先生と会話をしていなかった。顔も合わせたくないと思うようにしていた。
「おーい!」
和也と帰ろうとすると藤谷が駆け寄ってきた。
「一緒に帰ろうぜ」
僕と和也は顔を見合わせた。
何故、僕たちと?
「いいよ」
断る理由などないが、学校を出て十メートルほどで藤谷とは別れる。
とても一緒に帰るとは言えない距離にも関わらず、声を掛けることは何故なのかと不審に思いながら一緒に帰ろうとした。
その時、同じクラスの女子の柴田 麻美が藤谷の耳を引っ張り、藤谷を階段の踊場まで連れて行った。
その姿を僕たちは無言で見つめていた。
「付き合ってるんだよ。あの二人」
和也が言った。
「そうなの?」
藤谷に彼女がいることに驚いた。藤谷の耳を引っ張った柴田 麻美、彼女は小柄な大人しい女子だった。
柴田さんと帰りたくないから、僕たちと帰ろうとしたのか。どうでもいいが、うるさい奴がいなくなって良かった。
僕と和也は藤谷を無視して帰宅した。
寒さは日が経つほどに厳しくなり、クラスでは体調を崩すものが出てきた。今年は例年にない酷寒らしい。
僕は勉強をし、友達と遊び、張りのない同じ毎日を繰り返した。
大人になる準備をしているつもりだったんだと思う。
高校に入ることが大人になることではない。
大学に入ることが大人になることではない。
会社に入ることが大人になることではない。
僕は大人が分からないまま大人の女性に恋をした。
自分のこともよく分からない子供が背伸びをしていただけだったことに気付けなかった。
彼女を嫌うように意識していた、言いたいことも言えずに。
ある日、友達と帰ろうとすると藤谷が駆け寄ってきた。
「一緒に帰ろうぜ」
またか、僕と和也は顔を見合わせた。
「いいよ」
この間は何のことか分からないまま声を掛けられ、目の前で五秒でドタキャンされた。学校を出て十メートルほどで藤谷とは別れるのにと、また不審に思いながらも今度は一緒に帰った。
「俺、別れたんだよね」
帰り道に突然、藤谷が言った。強く吹く風が冷たく肌を突き刺す。
付き合っていた彼女は柴田 麻美。やはり、藤谷は好きになれなかった。ころころ変わる性格に振り回される相手は気の毒だ。
「そうなの? この間は一緒だったじゃん」
寒さで口が動かなかった。和也は口をマフラーで覆い、目を大きく見開き反応していた。
「うん……俺、好きな人出来たんだ」
藤谷が恥ずかしそうに言った。
「振ったんだ。バレンタイン間近で別れたのか」
藤谷は「うん」と呟いた。
「実は俺、倉内先生が好きなんだ」
僕は驚いて藤谷を見た。藤谷が恋人と別れたのは倉内先生が原因だった。僕はその時、藤谷が少し羨ましく思った。
友達の前で好きな人の名前を堂々と口にする。それはその人への思いが正直でないと自ら言うことは出来ない。
どんな形であれ、名前を挙げられた女性は幸せだと思う。僕たちは何も言えなかった。
僕は藤谷をちょっと尊敬した。
バレンタインデーは寒かった。
僕を含め、男子はみんなそわそわしていた。漫画のように大量に貰う男子はいなかった。
その日の数学の授業が終わると、倉内先生が廊下から僕を呼んだ。
久々の会話である。
僕の席は後ろから二番目の真ん中の列だった。僕はドアまで移動した。
最初に声を掛けられても、曲解して恨みの念を捨てきれない僕はあからさまに冷たい態度を取った。倉内先生が大人な対応を取れば取るほど僕の態度は冷たくなる。
「坂本君、三年生の問題集いる?」
寒い日が続き、先生はジャージを羽織りロングスカートを履いていた。
「え……っと、欲しいです」
僕は単純に問題集が欲しかった。無料で貰えるのが嬉しかった。
そして、倉内先生と話せたことは正直、嬉しかった。
「良かった。じゃあ、放課後に取りに来て」
久しぶりに先生の笑顔を見た僕は嬉しかったが、それ以上に凄く緊張していた。僕は素っ気ない態度でお礼を言うと席に戻った。
最後の授業が終わるまで気が気でなかった。
僕の緊張はバレンタインデーを忘れさせ、女の子から義理の十円チョコを貰っても何のことか理解できないほどであった。
授業が終わり、帰りのHRが終わっても僕は一人で教室に残った。頭に入ってこない教科書を眺め、考えるのは倉内先生のことばかりだ。
時間のことなど頭になく彼女のことばかり考えていた。
何故、彼女は最近まであんなにも落ち込んでいたのか。
赴任して一年も経っていないし、生徒の僕には先生のプライベートなど分からない。その人の生活など分かるはずもなく、出会ったばかりの僕が彼女の何を知ることなどできないのだ。
だけれど、あの祭の夜の花火も、彼女のマンションに行ったことも、彼女と僕の二人きりの時間なのだ。
僕は倉内先生のことが知りたかった。
顔を上げると午後四時半を過ぎていた。
窓を見ると辺りは暗く、教室の明るさに驚く。
僕は慌てて教科書を鞄に仕舞い、暖房を切って教室の電気を消すと職員室に向かった。
職員室に向かったのは「取りに来て」としか言われていなかったため、当然のように職員室だと思ったからだ。
暗い廊下を照らす灯りが、二組からも一組からも漏れていた。
誰もいない二組を通り過ぎ、一組を通り過ぎようとした時、廊下を走る僕の足が止まった。
「先生!」
倉内先生が誰もいない一組の教卓に座っていた。
「あっ……来ないから坂本君もう帰っちゃったのかと思った」
倉内先生は泣いているのか笑っているのか分からない表情だった。
僕はそんな彼女を愛おしく感じた。
「すいません」
僕は一組に入り、教卓に近付いた。暖房がついていない部屋の寒さに驚く。
倉内先生は着込んでいるが、耐えられないほど寒いはずであった。
「まだ授業で教えてないとこもあるから、分からないところとか聞いてね」
倉内先生から問題集の束を受け取っても、僕は何も言えなかった。「ありがとうございます」よりも言いたいことがある。いや、聞きたいことがある。
「じゃあね」
何も言わない僕に、先生が立ち上がろうとするのを僕は先生を止めた。
「先生」
僕には聞きたいことがあった。
倉内先生が首を傾げる。
「……先生、ずっと聞きたかったんですけど……何かあったんですか?」
倉内先生は静かに首を横に振った。
僕が知りたいのは先生が暗い理由。先生がちょっかいを出されるのが辛いのではなく、それに耐えきれずにいる先生を見るのが辛かった。
「何もないよ」
何もないわけがなかった。
「……僕だと力になれませんか!?」
僕は自分が何をしているのか分からなかった。緊張して何を言えばいいのか分からない。整理がつかないうちに僕は喋り出していた。
「先生さえよければ、教えてください。
僕じゃ何も出来ないかもしれないけど、先生を元気付けることも出来ないかもしれないけど、僕は倉内先生が傍にいてほしいときにずっといます!
先生が暗い顔してるのは嫌です!」
自分でも何を言ってるのか理解できていない。もう後には戻れなかった。
「……ありがとう」
倉内先生は涙目で俯いた。
「何があったんですか?」
倉内先生が顔を上げ、静かに話し始めた。
「……去年の夏休みにね、松本君が暴力事件に巻き込まれたの」
僕は彼女の話に聞き入った。
「他校の生徒と喧嘩になったらしいんだけど、松本君が相手に大怪我させて……」
先生の声が小さくなる。
「何したんですか?」
僕の声も小さかった。
「相手の目を失明させたの」
倉内先生の言葉を聞いた僕は声が出なかった。
「相手の顔を執拗に暴行して相手の目は網膜剥離になって、その上、目の奥の骨が折れたんだって。
救急車で搬送された子は命に別状はなかったんだけど、松本君は警察に事情聴取されて傷害事件で起訴されそうになったの。
だけど、相手の子が松本君を庇ってくれたお陰で、それは免れて……」
嶋本先生の声はさらに小さくなっていた。
「それで先生も呼ばれたんですね」
先生は頷いた。
「松本君は母子家庭でお母さんしかいないんだけど、母親と連絡がつかなかったの。
学年主任で担任の林先生は連絡が取れなくて、取れてたとしても佐倉市から瑞江には来れないから、警察には私が行ったの……」
松本が母子家庭であることは知っていた。母子家庭の意味も僕が小さい時に松本から教わった。
「相手は重傷だけど事件にもなってないし、保護者とも連絡が取れなくていつ来るか分からないし、一応、私が教師だということで私が松本君の家まで送ることになって……」
倉内先生の顔がみるみる青くなっていった。声が震えている。
「警察署を出てタクシーを拾える所まで行こうとしたら……」
僕は先生を見るのも辛くなった。
「いきなり抱きつかれて……」
教卓に涙が落ちる。
「嫌がったら……」
「もう大丈夫です!!」
僕は彼女を抱き締めた。
嗚咽混じりの彼女の最後の言葉は聞けなかった。冷たい小さな彼女の肩は小刻みに震え、冷たい小さな手が僕の手に重なった。
「……辛いよぉ……」
僕は彼女を強く抱き締めた。
僕が学校を出たのは午後七時過ぎだった。彼女が泣き止むまで隣にいた僕はずっと彼女の冷たい手を握っていた。
落ち着くと彼女から笑顔が零れ、職員室まで一緒に行った。
教員が使う玄関と、生徒の下駄箱は別々の場所にあるので、僕は帰り支度をする倉内先生に一言告げて職員室を後にした。
僕は先に校門を出て彼女を待った。
「送っていきます」という申し出に「ありがとう」と笑顔で答えてくれたことが嬉しかった。
彼女のすっきりした笑顔が見れたことは嬉しかったが、その反面、僕は自分のしたことを悔やんだ。
彼女が悩んでいたことに気付きながら、何もしない自分を棚に上げ、彼女を責めていたのだ。
思い出すと馬鹿なことをしたと恥じ、申し訳ない気持ちが湧いた。
暗くて寒く、静かで何もない校庭を眺めていると、中央玄関の戸が開かれる音が辺りにやけに響いた。
僕は振り返った。
「お待たせ! はい、これ」
街頭の下で待っていた僕は暗闇から明るみに出る彼女を確認した時に彼女の髪が少し長くなっていたことに気付いた。先生は笑顔で他の問題集もくれた。
「えっ、あ、ありがとうございます」
彼女が明るくなっていることが嬉しい。
暗い道を二人並んで歩いた。それだけで楽しかった。外の寒さは気にならない。
歩く歩幅を彼女に合わせ、他愛もない話をした。あの時の夏が懐かしかった。
「今度、大きな花火を見に行きませんか?」
僕は彼女に言った。
「うん……いいよ」
彼女は笑顔で答えてくれた。嬉しそうな彼女も楽しそうな彼女も悲しそうな彼女であっても隣にいるだけで良いのかもしれない。
僕が明るくさせられたら、どんなに幸せなことか。
「あっ、待って」
彼女の一言で僕は断られたと思った。
言い終わる前に倉内先生が目の前のコンビニに走る、僕はその姿を見つめた。
暫く待っていると袋を下げて戻ってきた。
僕に近付くと彼女は照れ臭そうに袋からチョコレートを取り出した。
「はい、あげる」
綺麗に包装されたバレンタインデーのチョコレートをもらった。
「……ありがとうございます」
不意に倉内先生が近付くと視界が遮られた。
唇に当たる感触、その感触を僕は一生忘れないと思う。
僕は驚きと恥ずかしさで何も言えないまま立ち竦んでいた。
これが僕の初めてのキスだった。
「二人だけの秘密ね」
街灯の光を受けて光る彼女の瞳は潤んでいた。自然と顔が綻ぶ。
「あ……はい」
「坂本君は下の名前は義之君だよね」
「そうです」
彼女を見ると彼女は上目遣いで僕を見つめた。緊張はあまりない、ただ嬉しかった。
「じゃあ、よし君」
佳恵の声が大きくなっていた。僕は喜んで頷いた。
「よし君になら佳恵って呼ばれても、平気なのに」
「……?」
倉内先生は松本から佳恵と呼ばれることで嫌な記憶が蘇り、穢されるような感覚に襲われたのかもしれない。
誰にも分からないその日の出来事は、誰にも知られたくない心の傷として残っている。
その傷を抉るように松本はみんなの前で平気で彼女の心を弄んでいたのだ。
「佳恵……」
僕は呟いた。
佳恵は首を傾げ、笑顔になった。呟いたのは好きな人の名前、その名前を口にするだけで幸せだった。ずっと一緒にいれたら……。




