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初恋  作者: 元馳 安
2/6

二人の時間



 梅雨が明ける頃には、あの時の花火も、あの時の事も薄れていた。間もなく期末試験が始まるので意識が向かないのかもしれない。

 五月の祭のことなど消え去り、いつの間にか七月になっていた。



 倉内先生と一緒に花火を見たあの夜、花火が打ち上がるのが終わっても、暫く二人で話をした。

他愛もない話も僕にとっては楽しかった。辛いことがこれから沢山ある、辛くても諦めないで続ければいいことがある。


『辛くても頑張ってね』と僕は励まされた。倉内先生は大学に入るまでに二浪し、そして教師になったらしい。教師になるまでも教師になってからも色々あったのかもしれない。


「先生も辛いことがあったら僕に言ってください」

 僕は先生に言った。

「辛いことは耐えられる」

 それまでの彼女の明るい表情とは一変して、口を横にキツく結ぶ彼女の毅然として態度に驚いた。


 馬鹿にするつもりも茶化すつもりもなく、僕はただ倉内先生が僕を頼ってくれたらと思い、口にした言葉であった。

 気を悪くさせたことを謝ることができない幼い自分。僕が何と言っていいか分からず黙っていると、先生は帰ろうかと笑顔で言い、その言葉に素直に従った。



 僕はその日から毎日彼女のことを想い続けたが、一月以上も経つ頃には思い出すことも少なくなっていた。


 顔を合わせても、あの時のことを話すことなど勿論なく、先生の大人な対応があの夜を夢のような非現実的なものへと変えていったのかもしれない。

 今考えると二人きりで女性と手を繋ぐのはあの時が生まれて初めてであった。


 一学期最後の行事である、期末試験が終わるとあっという間に時間が経った。元々、試験期間中も授業がないので試験前を含めて時間が経つのは早い。


 期末試験が一学期修業間近に行われたこともあり、一学期の残りの授業など無いような錯覚に陥った。

 七月で十四歳になり、将来がリアルじゃない僕はまだ先の事など頭に無かった。将来よりも目の前の事の方が大事な僕たちは、先を見据えた行動がとれない子供であった。



 夏休みが始まると僕は遊びに勉強に忙しかった。

 夏休み中に学校に行くこともないと思っていたが、僕の通う学校では学校に行く機会が何日かある。それは夏休み期間中に水泳をしなければならなかった。


 授業の一環ということもあり、出席しなければ体育の成績に影響するらしくみんなは渋々参加する。七月下旬から八月末日までの期間に五回水泳をしなければならない。


 水泳を見るのは体育の先生に限らず、先生全員が担当しているので、倉内先生に会えるかもしれないと淡い期待をしていたが五日とも彼女が担当することはなかった。

 会えない理由が分かったのは僕が四回目の水泳に参加した日であった。



 八月のある日、僕が早めに学校に行くと倉内先生が校舎の中央玄関脇にある職員室のドアから出てきた。

 夏の強い日差しに眩しそうに目を細め、手を(ひさし)代わりにして校庭を眺めていた。


「先生!」

 僕の声に振り向いた先生は髪を少し切り、印象が変わって見えた。


「おぉ! 坂本君もプール?」

 僕と分かり笑顔で駆け寄る倉内先生は、細やかなデザインが掘られた黒縁眼鏡がよく似合い、白の七分丈のパンツに紺色の半袖シャツはお洒落に見えた。


「プールです! 先生は目が悪かったんですね」

 倉内先生が赴任して四ヶ月、初めて知ることはまだまだあった。


「うん。眼鏡似合わないから、あんまり掛けないんだよ」

 倉内先生は普段コンタクトレンズを使っていたらしく、初めて眼鏡をかけた彼女の姿を見た。凄く良く似合っており、可愛らしかった。

 僕が先生の顔をじっと見ると恥ずかしそうにはにかみ笑う。

「先生は補修授業ですか?」

 僕は慌てて取り繕った。

「ううん、今日はないよ。女子のプール」

 僕はその時、女子生徒と男子生徒の水泳を分けていたことに初めて気付いた。普通に考えれば分かることも僕は気付かなかった。彼女が男子を担当することはない。考えれば当たり前である。


「そういえば、坂本君って頭良いんだね」

 自分のアホさ加減に呆けていると先生が突然言い出した。先日行われた期末試験の数学のテストで僕は満点を取っていた。他の四教科も点数が良かった。

「あぁ……たまたまです」

「たまたまで満点は取れないよ。中間も良かったじゃん」

「たまたまですよ……先生、分からない問題があるんですけど、教えてもらえませんか?」

 夏休み中の数学の課題で出された問題集は終わったが、友人からもらった問題集でいくつか解けない問題があった。その友人の問題集は友人が通う学習塾のものだった。


「いいよ。今からプールでしょ? 終わったら職員室においでよ。他の問題集もあげようか? 二年生、三年生の高校入試の過去問とかあげるよ」

 自分で探さずにしかも、無料で貰える問題集を貰わない手はない。


「有り難うございます!」

 僕はお礼を言うと水泳の準備のために着替えに行った。




 水泳が終わり、着替えを済ませた僕は職員室へと向かった。


 静かな廊下に普段の様子はない。

 廊下を進み、倉内先生の待つ職員室のドアを開けると、部屋には倉内先生だけしかいなかった。

 先ほどと変わらない服装で事務作業らしきものをしている。空調の効いていない部屋は蒸し暑かった。一人でいる先生は扇風機をつけて涼んでいるが暑いはずだ。

「失礼します。すいません、お待たせしました」

 先生が顔を上げる。その顔はどこか嬉しそうに見えた。

「お疲れ。じゃあ、行こうか」

 笑顔でそう言うと、先生はバッグを持って立ち上がり、扇風機を消した。


「あ、はい」

 黒板のある部屋なら何処でも教えられるが、自分のクラスが一番良いのだろう。倉内先生は二年一組の副担任で三階が二年生のフロアーであった。


 職員室を出た彼女は二年一組とは反対側の中央玄関に向かった。

「先生、階段反対ですよ」

 僕がそう言うと、先生は立ち止まった。

「教室には行かないよ。今から私の家に行くんだよ」

「えっ?」

 僕は心臓が止まりそうになった。


「問題集が私の家にあるから取りに行くついでに分からない問題教えてあげる。

 問題集も夏休み中に解きたいだろうし、また学校に来させるのも可哀想だから、取りに行こう。クーラーも効いて涼しいよ」


 そう言い、倉内先生が歩き出す。

 玄関に向かう様子に、靴を履き替えて正面から出て行くことがすぐに分かった。


 僕の通う中学校は三年間同じ下駄箱を使う。僕は中央玄関を通り過ぎると、自分の下駄箱まで急いだ。

「遅いよ!」

 笑顔で彼女が待っていた。




 倉内先生が一人で暮らすマンションは学校から歩いて二十五分掛かるところにあった。

 マンションから駅まで徒歩三十分以上は掛かる。閑静な住宅街ではあるが、立地がいいとは言えなかった。

 しかし、緊張しっぱなしの今の僕にはそんなことを考えるほどの余裕はない。



「あのマンションの二階が(うち)だよ」

 薄い桃色をした四階建てのマンションを指差し倉内先生が言った。彼女の明るい口調が僕を安心させる。

「綺麗なマンションですね」

 心からそう思った。

「部屋の中は汚いよ」

 彼女が笑う。


 オートロックなどのセキュリティーはなく、誰でも入れることに不安を感じたが、本人が選んだ場所なのだからしようがない。

 入り口を抜けて階段に繋がる通りに雨除けが設置され自転車が数台置いてあり、その先に階段があった。


「先生は自転車を使わないんですか?」

 階段下に自転車置き場があるのは便利だと思った。 学校まで徒歩二十五分は自転車で十五分と掛からないだろう。

「登校で使わないけど、自転車はたまに使うよ」

 生徒の自転車通学は認められてないので先生もそれに倣っているのだと思う。

「毎日歩くのはキツいですね。自転車通勤も許可していいと思いますけどね」

「していいんだよ」

「大丈夫なんですか? でも倉内先生は自転車は使わないんですよね」

「うん。ダイエット」


 階段を上がり、突き当たりの角部屋が彼女の住む部屋だった。ドアノブの鍵穴に鍵を差し込み、錠を外す。

「結構痩せるよ。どうぞ、入って」

 体型は全く崩れていないが、そこは何も言わなかった。


「お邪魔します」

 逞しい彼女に促されて入った部屋は良い香りがした。

 部屋は綺麗に整頓されており、二LDKの部屋は広々としていた。

 入り口を入るとすぐ右に寝室があり、寝室の勉強机には様々な参考書と問題集が綺麗に置かれている。倉内先生は寝室に荷物を放るとそのままリビングに向かった。

 促された僕は、適当に座ってと言われテーブルの椅子に腰を掛けた。窓際にはテレビに向く二人掛けのソファが置かれている。


「分からない問題はどれ? 問題とか持ってきた?」

 彼女が冷蔵庫を開け、一リットルのオレンジジュースの紙パックとグラスを二つ取りながら訊ねる。


 水泳の後でやろうとたまたま持ってきていた僕はバッグを開けて問題集を取り出した。

「えっ……これです」


 倉内先生が冷房の電源を入れると僕の隣に座り、問題を確認した。

 空調の音だけが聞こえる静かな部屋に二人。僕は緊張で問題が頭に入らなかった。



 『トランプのハートのカード十三枚からa、bの二人がこの順に一枚ずつカードを引くとき、a、bも絵札のカードを引く確率を求めよ。また二人とも絵札のカードを引かない確率も求めよ』


「確率問題か」

 そう言うとノートとペンを取り出して問題を解き始めた。先生は筆圧が低く字が薄いがとても綺麗で見やすかった。字は心を顕すと言われている。

 彼女は繊細で綺麗な心を持つのか。僕は数式を眺め、字を追い、花火を思い出していた。


 暫くすると、倉内先生が顔を上げた。


「これ確率分布じゃない、条件付き確率なんて高校の最後に習うやつだよ」

 僕は先生が出した答えを見て気付いた。


「あっ、それは解きました。そのトランプ問題じゃなくてその隣の問題です。」

 僕は無意識のうちに何も見なくなる癖があるらしい。

「えっ? これ解けたの?」

「なんとか」

 頷く僕を見ながら、僕の言う問題に目を遣る倉内先生。



 『赤玉と白球が入っている大小二つの箱から一球ずつ取り出したとき、両方とも赤玉である確率が1/6、少なくとも一個が赤玉である確率が2/3であった。大小二つの箱から一球ずつ取り出したとき、それが赤玉である確率をそれぞれ求めよ』



「これは確率の事象の独立と従属だね。今はやらなくていいよ」

 彼女は笑顔で言うが、僕は解けないままにすることが嫌だった。

「あっ……そうなんですか……」


 僕の納得いかない様子に倉内先生はまたシャーペンを動かしてくれた。

 『すいません』と僕は聞こえないくらいの小さい声で呟き頭を下げた。倉内先生は真剣に問題を解いていた。

 暫くして先生が解くと僕に解説しながら自分で解けるように問題を進めてくれた。

 僕に教える先生は嬉しそうだった。

 オレンジジュースではなく、彼女は途中でコーヒーを淹れてくれた。小休止を取りながら、問題を何問か解くと外は夕暮れ時だった。


「坂本君は好きな人とかいないの?」


 突然の質問にまた心臓が止まりそうになる。

「えっ!? い、いないです!」

「ふぅーん。気になる人とかは?」

 本当のことなど言えるはずがなかった。


「……小学六年生の時に初めて女の子からチョコレートをもらったんです」


 僕はなんでこんな話をしてしまったのか自分でも分からなかった。


「バレンタインデーの?」

「はい」

「へぇー」

 彼女が近付くことに緊張した。先生からはいい匂いがした。


 僕にバレンタインデーのチョコレートをくれた女の子、名前はアヤ。


アヤちゃんは小学五年生の時に転入してきた。運動が好きで活発なアヤちゃんはクラスにもすぐに慣れ、いつも彼女の周りは明るかった。

 彼女が転入して翌年に六年生になり、隣同士の席になった時だ。

 書道の授業で彼女の墨汁から異臭がしていた。僕は彼女の墨汁を僕のと交換しその日の授業を終えた。その日を境に彼女は僕を好きになったらしい。

 卒業式の前月のバレンタインデーに僕に手作りのチョコレートケーキをくれた。

 翌日、友達にバレンタインデーのチョコをもらったことがバレると、食べたいから放課後に学校まで持ってくると頼まれた。

 バカな僕は友達の頼みに二つ返事をして学校までケーキを持って行った。みんなで食べたアヤちゃんのケーキ、僕のためだけにくれたケーキの筈が僕の扱いは酷かった。

 更に友達は「美味しくない」と不評を漏らし、翌日にそのことを彼女は知って酷く落ち込んだ。

 大変なことをしたと後悔したが 遅かった。彼女に謝ることもなく卒業式を迎えて中学生になっていた。


 僕の話を彼女は静かに聞いてくれていた。

「今でも気になるんだ」

 先生の言葉に僕は頷くしかできなかった。


 バレンタインデーのチョコレートをもらった翌日から、友達は僕とアヤちゃんを(はや)し立てた。


 僕には好きという感情は無かったが、友達の情話に合わせ好きな人をアヤちゃんと口にしていた。好きと言えば、アヤちゃんが喜ぶと、せめてもの罪滅ぼしになればとの思いもあったかもしれない。

 それは僕の初恋だと嘘をついていたのだ。そして今も。


「女の子は敏感ですぐ傷つくから優しくしなきゃ駄目だよ。自分を傷つけないで守ってくれる人を好きになるの」

 口を開いた先生はどこか寂しそうだった。


「馬鹿なことしました」

「それもそう、悪口もそうだし、暴力なんて犯罪だからね。坂本君はアヤちゃんを見てあげられなかったんだね。自分のこと見てくれないのも傷つくよ。ちょっとした微妙な変化にも気付いてほしいの」

 先生と目が合った。


「先生髪切りましたね」

「馬鹿にしてるでしょ」

 先生の笑顔につられて僕も笑った。


 時計を見て、午後六時を少し過ぎているのを確認した僕は先生にお礼を言って片付けを済ませた。


「今日は有り難うございました」

 玄関で頭を下げた。

「はいこれ、分からない問題があったらいつでも来て」

 先生は過去問を二冊とプリントを束でくれた。

「有り難うございます」

 僕はもう一度頭を下げた。

「またね」

 彼女が笑顔で手を振る。

「お邪魔しました」


 外に出ると雨が降っていた。僕は雨除けにバッグを頭の上に持ち上げ駅まで走った。


 倉内先生は僕に色々と優しくしてくれた。

 今日だけではない。祭の日がきっかけで倉内先生は僕にとって忘れられない人になった。

 今思えばそれも違うかもしれない、僕は出会ったときから彼女が忘れられずにいる。

 他の誰にもこんな感情を抱いたことはない。


 ずっと一緒にいたかった。別れたばかりだが、今も会いたかった。


 雨に濡れる嫌悪感などなく、僕はずぶ濡れになりながら駅を目指した。


 不甲斐ない僕は彼女をしっかり見ているのだろうか?

 いや、見ていない。

 僕は彼女に嘘をついている。彼女に好きだと伝えることは教師と生徒という立場上、迷惑なことであるのは分かる。それ以前に好きでも何でもない子供なんか相手にしないのは分かる。

 十四歳という異性の刺激に敏感な思春期だから、不安定な年齢だからこその今の僕の感情なのかもしれない、僕が思いを告げたせいで彼女がこれから悩むことになる方が僕には辛い。

 でも、僕は倉内 佳恵という女性が好きだ。心から込み上げる気持ちを今なら声に出して言えるから、伝えることができるから、だから、僕は走った。


 雨の中、来た道を戻った。


 もう中に着ているTシャツもズボンも靴も靴下もグチャグチャに濡れていた。それでも走った。


 目の前には先ほどまでいた彼女のマンションがらあった。二階に駆け上がり、角部屋のチャイムを鳴らした。

 僕は緊張して下を向いていた。

 少し間があってからドアが開いた。


「はい……坂本君!! びしょ濡れじゃない! どうしたの!?」

 目の前に先生がいる。

「僕は先生に嘘ついてました。僕が好きな人は倉内先生です! それが言いたくて来ました……さよなら」


 僕は再び走った。背中から彼女の声がするが僕は止まらなかった。


 僕の十四歳の夏は終わった。





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