誘惑
9月の末、ユアンは離宮に帰ってきた
「ナリではただ国境をガイナの旗を掲げた軍隊と歩いた」
「ただそれだけだ」
三ヶ月近く城を開けたユアンのリュウジュへの報告はそんな短いものだった
ユアンが戻ると同時にカイトもロウドに帰って行った
帰還したユアンの姿を初めての見た時、リュウジュは旅の辛さを知った
大国の王子にとって日程的にも精神的にも厳しい道行だったに違いない
大広間で出迎える家臣たちの前でリュウジュは口上を述べなければならない
けれど言葉が出てこなかった
こんなに心から愛しく、ありがたくユアンを感じたことはなかった
リュウジュはただうつむいてユアンの手を取った
リュウジュが挨拶の口上を述べるまで回りの者たちは温かく見守った
ユアンは離宮に帰ってから3日ほどは私室にこもった
正直体中が痛かった
とにかく急いで行き急いで帰ってきた
走れる道は馬を走らせて
日々鍛錬を重ねている兵士たちと同じ行動をとった
スオミに戻って三日目の夜、ユアンはリュウジュの寝台で一緒に休んだ
多分この城にも諜報を行う者が入りこんでいる
ナリの今の状況を思えばリュウジュとは愛し合っているように見せなければならない
噂とは違う姫だったが、それでもガイナの王子に愛されているようだと
王子はリュウジュ姫のために本気でナリを守るだろうと思わせるために
そんな考えからだったがリュウジュはただ単純にユアンの訪問を喜んだ
リュウジュが整えた寝台の中息をしていないのではないかと思うほど静かに横たわっている
疲れが抜け切らないのだ
痩せたせいか今まで浮き出ていなかった頬骨が目立つ
日に焼けて額と鼻の皮が少しむけている
そのせいで中性的だった顔が男らしくなったような気がする
そっとその頬骨に触れてみた
微動だにしない
今なら唇を合わせても気づかれないかもしれない
そんな誘惑を感じたけれど、リュウジュはその誘惑を退けた
諦めない
この人には迷惑な話かもしれないけれど、私はこの人を諦めない
いままでこの人には随分酷いことを言われてきた
深く傷ついたりもした
けれどどうでもいい
そんなこと
結果としてこの人は私を助け続けてきた
私は…
いつかこの人の意志で口づけをしてもらう
そんなリュウジュの決意を知らずユアンはこんこんと眠り続けた
翌日目覚めてからもユアンはリュウジュの部屋に留まった
初めて私的な朝食を共にした
リュウジュの部屋の片隅に二人用のダイニングテーブルと椅子がある
その日はそこで朝食を取った
「カイト王子が城にいる間中、ここで私と一緒に朝食をとって下さいました」
「そして色々なお話を聞かせて下さいました」
「ガイナの歴史やご家族のことなど」
「…」
「カイトは気持ちの良い男だ」
「リュウジュも和んだだであろう」
「はい」とリュウジュは答えた
そしてユアン様もカイト王子がお好きなのだと思った
「リュウジュ、リリイが羨ましいか」
との言葉にパンをちぎるリュウジュの手が止まる
目に浮かぶのはロウドを出発する際見送ってくれた、ササラを抱く満ち足りたリリイ妃の姿
「はい、とても羨ましゅうございます」
とユアンに向かってリュウジュは微笑む
それを見てユアンも軽く笑った…ような気がした
フォンには
それにしても今まではこんなに問いかけをされていたら顔色を変えていたのに
姫…
お強くなられた
そしてナリにいた頃よりずっと柔らかくなられた
真面目で融通のきかないところも多々お有りだったのだが…
確実に大人になられたとフォンは思った
リュウジュと二人で過ごしたあの離れでの日々がどんどん遠くなっていく…
ほんの少し、寂しいような気持ちがフォンの胸に湧いた
「カイト王子は母上様の思い出話もして下さいました」
と語るリュウジュにユアンは
「…カイトやリクトは母上が好きだった」と言った
カイトやリクトは…
リュウジュはその言葉に疑問を感じた
ユアン様は?
母の過剰な愛情は…
檻った
他者を私に必要以上に寄せ付けないための
弟たちでさえ私に近づけようとしなかった
私の秘密を守るために
もちろん作為的な気持ちはなかったのだろう
けれど、結果としてそうなった
母の死により私は檻から開放されたのだ




