みつめる、あか
どんより雨雲がたちこめているような暗さです。ご注意を。
指先の紅が薄桃色の肌を染める。
真紅を佩いた女の口は弧を描き、白黒の世界にはその赤色だけが浮いていた。
口を開く。
その先に広がるのは底の見えない空洞で、そこを通る風はびょうびょうと唸り私に薄暗い肌寒さを感じさせた。
女が何を言ったのか、私はさっぱり覚えていない。けれど、一種の快感にも似た悪寒を覚えたのは確かだった。
女は、一夜を共にしただけの女ではなかった。
会えば惰性でベッドになだれ込むような、そんな付き合い方をしていた。
そこには一片の愛情もなかったが、身体的な温もりと束の間の忘我の時は得られた。それで十分だった。
頭蓋にこびりついた記憶がいつのものだったか、私は把握していない。けれどもそれほど昔のことでもないように思う。
女とどうやって知り合ったのかはもう既に脳内からこぼれ落ちてしまっているが、関係が切れたのはつい先日だ。
そしてその際に女が持ち出したのが、記憶の彼方に鮮烈に残っているあの日、自身が女に言ったらしい言葉だった。
何を言ったのだったか。
少し考えて、先日の記憶が掘り起こされる。
──嘘は嫌いだ。
そう、冷たい目で吐き捨てたらしい。
嘘は嫌いだ。これは本当のことである。嘘は明らかになった時に大きな爪痕を残す。最後まで貫き通した嘘はもはや嘘ではなく、新たな真実のひとつに仲間入りする。
だから、嘘は嫌いなのだ。
「スギさん」
甘さの薄れた声で私の名を呼ぶのは、先日までならこのまま夜の町に消える予定だった女だ。嘘吐き子と呼んでもいい。
「何」
ぶっきらぼうに尋ねれば、嘘吐き子は笑った。
彼女の手が髪にかかる。それは嘘吐き子が困った時にする癖だった。
彼女は、無意識に私を翻弄する。
私はそういう時、なんだか負けているような気分がしてよく目を逸らした。今もまた、自身を突き放したその手が髪に触れた瞬間に胸の奥がざわりと揺れた。
欲望に負けるほど、若くはない。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「怒ってない」
「怒ってる」
怒っているのはお前の方じゃないか、その言葉をなぜか私は飲み込んだ。肯定されるのが怖かったのかもしれない。
愛情なんかこれっぽっちもなかった。
それでも彼女に嫌われたくはなかった。嫌われるはずはないと過信していた時期もあった。
「スギさんは子どもだねぇ」
何をわかった風に言っているのだろう。
嘘吐き子は眉根を寄せていた。泣きそうだ。
泣かせたいと思った。
泣かせたくないと思った。
白壁に映る夕日が目に痛い。
「嘘吐きは、嫌いだ」
彼女は嘘吐きだ。だから嫌いだ。
嫌われるくらいなら嫌おうと。傷付けられるくらいなら傷付けようと。
そうして結局満身創痍になったのは、自分の方だった。
そうなるのが嫌で、二人の間に生温い言葉を介入させなかったのに。
愛情なんて、なかったはずなのに。
「好きだって、言ったくせに」
「愛してるって言ったはずだけど」
「どっちでもいい。手を振りほどいたのは」
「信じなかったのはスギさんよ。それに、どっちでもよくないわ」
思いの外強い口調で返された。
ああ、そうだ。彼女はそんな人だった。たった数日で、ずいぶん脳内の彼女像と実物との差ができていた。
嘘吐き子は、芯のしっかりとした女で、不満を覚えてしまうほどこちらに執着しない女だった。
もし彼女がもっと私を欲したならば、私は彼女を突き放す側だっただろう。ちょうど今とは逆な風に。
せっかく繋がったあの日の記憶はやはり不鮮明で、けれど当時の気持ちが熱を帯びて蘇る。白黒の世界には色が溢れ、それでもやはり女の佩いた赤は異色を放っていた。
「スギさんはわがままで欲張りな子どもだわ」
低いトーンで彼女が言う。
窓の外を木枯らしがびゅうと吹き、窓ガラスがかたかた鳴った。
風はカーテンを捲り上げ、白で統一された無機質な部屋に入り込む。
寒さに身を竦めた嘘吐き子の唇は、あの日の赤が嘘のように青紫色をしていた。