中編
「ルンルン、お腹すいたよ」
「……ルンルンとは我のことか?」
「そうよ。で、ルンルン、お腹すいたってば」
「我はユェイルンだが」
「だからルンルンなんでしょうが。友達ってのは、愛称で呼ぶもんなのよ。ユェイルンよりルンルンの方が絶対かわいいって」
「我は、かわいくなくてよい」
「いいからっ! ルンルン、お腹すいた。お腹すいた。お腹すいた!」
仔犬は少年の膝の上で踏み踏みと踊り出した。
時折、少年の足の間にずりっと後足がはまり、腰が砕ける格好になるのがおかしいやら可愛いやら。
それでも体勢を戻して、すぐに仔犬は踊りはじめる。
「ルンルン、お腹すいた!」
と歌うように言いながら。
その様子に、少年は名前の呼び方を変えさせるよりも、先に食べ物をあたえてやらなければと思う。
ずっと見ていたいくらい仔犬の踊る様子は楽しかったが、お腹をすかせたままでいさせるのはかわいそうだったのだ。
少年の家は大きいだけに食べ物にも苦労することはない。
ふと目をやれば、テーブルの上に少年の手ほどの大きさの甘いパンが幾つも皿にのせられている。
少年は仔犬を膝から降ろし、テーブルのパンを一つ手に取った。
少年の足下にいる仔犬は期待を込めた瞳で少年を見上げている。
半分ほど口を開き、今にもよだれが垂れそうだ。
そんな仔犬の口にパンは少し大きすぎるので、少年は小さくちぎった。
そして少年は膝をつき、ちぎったパンを仔犬の口元へと近付けた。
仔犬は少年に向け、かぱりと大きな口を開けて待っている。
少年はその開いた口の大きさに入りそうだと思ったので、その口の中へそっとちぎったパンを落とした。
すると仔犬はガブッと勢いよく口を閉じ、むしゃむしゃと数回噛み、あっという間に飲み込んだ。
そしてすぐに少年へ向け大きな口を開けた。
仔犬の視線は少年のもう片方の手にある残りのパンに向けられ動かない。
またパンを口に入れてくれるのを待っているのだ。
その仔犬の期待の込められた瞳に、少年は嬉しくなりながら、再びパンをちぎり仔犬の口の中へと入れてやる。
それを何度も繰り返し、仔犬はパンを四つも食べてしまった。
「ふうっ。満足、満足」
そう言って仔犬はその場で尻尾を丸くしてしゃがみ込んだ。
そして、満腹になった仔犬はゆっくり眠るために心地よい姿勢をとろうとした。
ところが、なかなかよい姿勢が見つからない。
前足の上に顔をのせたり、横向きになったり、仰向けになったり。
いろいろ変えてみるのだが、どれも寝心地が悪くてうまく眠りにつけない。
ぐずぐずと少年の足下で動いていると、ふと仔犬の目にとまるものがあった。
それは、仔犬を見下ろしながら、さっきまで仔犬が食べていたものと同じパンを頬張っている少年の膝だった。
お腹がすいて目覚める前はあの膝でとても気持ち良かったことを思い出したのだ。
あの膝ならよく眠れるに違いない。
そう思った仔犬は、椅子に座っている少年の足の甲を踏み、脛をよじ登ろうと格闘しはじめた。
仔犬は小さすぎて、少年の膝に前足は届くのだが登ることができない。
ぴょんぴょん跳ねてみるのだが、膝に届くどころか、着地の時に少年の足の甲を踏み外し転んでしまう。
しかし、仔犬はめげずに何度も何度もチャレンジした。
跳んでは転び、少年の足にがしっとしがみ付いてはずり下がり。
少年は懸命に自分の足で遊ぶ仔犬の様子を楽しそうに見守っていた。
そして、何度目かのジャンプで仔犬はとうとう少年の膝へと登ることができた。
「ふうっ、やっと着いた」
「モアは我の膝に乗りたかったのか? そう言えば抱きあげてやったのだが」
「自分でできることは自分でやるわ。まぁ、そうね。ちょっとしんどかったから、次からは頼むことにするわ」
はふっと息を吐くと、仔犬は少年の膝の上でうずくまった。
そうしていると少年の手が仔犬の背中をゆっくり撫ではじめた。
これを待っていた仔犬は撫でられるまま大人しく眠りにつくことにした。
やっと気持ち良い眠りに入ろうというところで、仔犬の意識は眠りから遠ざかってしまった。
少年の手が止まってしまったからだった。
催促しようと仔犬が顔を上げると、少年が苦しそうに顔を歪めて胸を押さえていた。
「どうしたの、ルンルン?」
そう仔犬が尋ねると、少年は少しだけ目を開き仔犬のほうへと視線を向けた。
しかし、少年の口は満足に言葉を発することはできそうにない。
口を動かすけれど音にはならず、荒い息を吐くだけだった。
「モアは?」
そう尋ねているようだったので、仔犬は答えた。
「私は何ともない。ルンルン、このままだと死んでしまうよ?」
仔犬には少年に何が起こっているかわかっていた。
パンには毒が入っていたのだ。
ただ毒を自分で分解できる仔犬は、少年にはそれができないことを知らなかったのだ。
とうとう少年は仔犬を見降ろしたまま動かなくなってしまった。
仔犬は困った。
何度か首を捻った後、ポンポンと少年の胸を前足で押し始めた。
何度も何度も押している内に、少年の白かった頬に赤みが戻っていった。
「あ、れ? 我は、死んだのではなかったのか?」
「ルンルンの毒を取ってあげたのよ。毒が除去できないなら、そう言ってよね」
そう答えた仔犬は、少年の膝の上でぐったりとしており、声は弱々しいものだった。
「ごめん。モアは除去できるのか?」
「できるけど、うーっ、この身体にはちょっと無理させすぎたみたい」
仔犬は少年の身体に入り込んでいた毒を除き、きれいにしたのだ。
そのため少年は助かったのだが、その作業が仔犬の身体に大きな負担となってしまったらしい。
「大丈夫なのか?」
苦しそうにぐったりしていく仔犬に、少年は気が気ではない。
少し前まで自分が苦しかった思いを今の仔犬が感じているのかと思うといてもたってもいられなかった。
モアが自分の代わりに死んでしまう。
そんな恐ろしい考えが頭に浮かぶ。
「どうすればよい? 我が何をすればモアは楽になる?」
仔犬の背中を撫でてやりながら、少年は仔犬に問いかけた。
人の言葉を話し、毒を取り除くことができるくらいなのだから、モアなら大丈夫、死んだりしない。
そう思い、少年は仔犬に縋るように見つめた。
しかし仔犬の返事は少年にとって悲しいものだった。
「この身体はもう駄目。死んでしまうわ」
仔犬がいなくなる、それは少年に大きな衝撃を与えた。
死んでは駄目だと、どうにかできないのかと、少年は駄々をこねるように仔犬へと訴えた。
どうすることもできないなんて。
仔犬は眠るまで背中を撫でてほしいというだけだった。
少年は仔犬の背中を撫でてやった。
しかし、その少年のあまりに悲愴な様子に、仔犬は一つの提案をした。
「私の身体が死んでしまうだけで、私がいなくなるわけじゃないの。身体がないと、ルンルンは私の言葉が聞こえないだけ。そのうち、また新しい身体が出来たら会いにきてあげるわ」
「新しい、身体?」
「少し時間がかかるけど、それまでのんびり待っていなさいよ」
だからそんなに悲しまなくてもいいでしょ、そう仔犬は少年に伝えたのだ。
もう一度会えるという仔犬の言葉に、少年は本当なのだろうかと素直に信じることが出来なかった。
遠い未来の約束など子供の気をそらすための嘘だと思っていたから。
それでも仔犬の言葉を少年は信じたいと思った。
少年はもう一度仔犬に会いたかった。
仔犬は特別だったから。
「仔犬の姿で、我に会いに来るのか?」
「この姿、可愛いでしょ?」
「我は、かわいい女の子の姿がよい」
「あん? スケベだよね」
「モアにはかわいい女の子の姿も似合う」
「そうかなぁ。じゃ、今度ルンルンに会う時は可愛い女の子の姿で会いにきてあげるよ」
仔犬は少年の腕の中で静かに息を引き取った。
それから食事もせず仔犬を腕に抱いたまま、数日が過ぎた頃。
屋敷へ城から迎えがやってきた。
流行病のため、父王と弟王子が亡くなったとの知らせを持って。
少年はこの国の王子だった。
だからずっと生かされているのだと、少年は知っていた。
本当は城になど行きたくない。
たとえ毒が盛られた場所であっても、ここはモアと過ごした場所だった。
ここを離れたら、モアは自分に会いに来られないのではないかとも思った。
しかし、少年に選択権はない。
すっかり醜い亡骸となった仔犬を胸に抱いて、少年は城へ移り住むことになった。