前編
湖のほとりを少年が数人のお供をつれて歩いていた。
それはこの近くに住む少年の日課だった。
その途中、少年は仔犬がぐったりしているのを見つけた。
水から這いあがって力尽きたようだ。
触れると仔犬はまだ柔らかい。
少年が腕に抱きあげるとゴホゴホと水を吐き出した。
どうやら生きているらしい。
弱っている仔犬を、少年は家へと連れ帰った。
少年は湖の近くの大きな屋敷に住んでいる。
その屋敷で少年は何不自由のない暮らしを送っていた。
屋敷にはたくさんの使用人が仕え、多くの人が少年と一緒に生活している。
だが、その中に少年の家族はいない。
少年を産んで間もなく少年の母は儚くなってしまっていたのだ。
母が亡くなった後、少年の父は新しい妻を迎え、少年にはこの大きな屋敷が与えられた。
それからずっと少年はここに暮らしているのだ。
屋敷で働く者や見張りの者に囲まれて。
しかし、少年はそれを寂しいと思ったことはなかった。
屋敷に人は多く、少年は一人ではなかったから。
少年は知らなかったのだ。
寂しいと思うことの意味を。
「ぎゃあっ」
仔犬を自分の部屋へと連れて戻った少年は、水を張ったたらいに仔犬を入れた。
土などで汚れていたので洗ってやろうと水を手ですくい仔犬にかけたところ。
奇妙な声が少年の耳に届いた。
驚いた少年はその手を止め、耳をすませる。
「また水飲んだじゃないのっ!」
また聞こえた声は高い女の子の声だった。
少年の目の前では、たらいの中で仔犬が少年を見上げている。
そして声と同時に口をパクパクと動かしていた。
どう見てもその姿は仔犬でしかない。
少年の耳がとらえたのは仔犬の鳴き声とはまるで違うはっきりとした人の言葉だ。
とても、仔犬が出せる声ではない。
誰かいるのかと少年はあたりを見回した。
しかし、部屋には少年一人だけ。
そんな少年へ再び声は話しかけてきた。
「聞いてるの? 洗うなら、もう少し丁寧にしなさいよ」
声はやはり仔犬の方から聞こえている。
少年は仔犬の前足の脇に手を入れて、仔犬を水から引き上げた。
目の前にぶら下がっているのは、どうみても水に濡れた薄茶の仔犬である。
仔犬の腹側を見て少年は、ぽつりと漏らした。
「女の子、なんだ」
するとその直後、少年の顔面に仔犬の後ろ足の蹴りが入った。
仔犬は身体を揺らし、何度も少年の顔へ足裏を打ちつけようとする。
「このスケベがっ。さっさと降ろしなさいよ!」
仔犬の蹴りは柔らかい足裏が軽く当たるだけなので、少年にはちっとも痛くない。
でも、仔犬の足の爪が目に入ると危ないため、仔犬の言うとおり、たらいへと降ろしてやった。
降ろされた仔犬は、たらいでじっと座った。
何をしているのかと少年がじっと仔犬をみていると、仔犬はまた少年にむかって喚きはじめた。
「私を洗うんじゃないの? さっさとしなさいよっ」
仔犬は口をパクパクさせ、話すのにあわせて右前足をひょこひょこと動かす。
仔犬は怒っているようだったが、とても不思議な光景に少年はあっけにとられていたのだ。
少年がぼーっと仔犬を眺めていると。
なかなか洗おうとしない少年に焦れた仔犬が、たらいの淵を叩こうと前足を振り下ろした。
バンッと勢いのよい音がして。
「うっ、痛いっ」
仔犬の自業自得だった。
たらいの淵を叩いて少年に訴えようとしたのだが、あまりに強く足を振りおろし過ぎたのだ。
うぅうぅと痛そうに唸る仔犬の背中を少年は撫でてやった。
「今、洗うから大人しく座っていろ」
そう少年がそう告げると、仔犬は弱々しく頷いた。
元気に動いていたかと思うとしょんぼりしている仔犬に、自然と少年の口に笑みが浮かぶ。
少年は仔犬に少しずつ水をかけてやりながら丁寧に泥やごみを洗い流していった。
「きれいになったな」
「すっきりしたわ。ありがと」
少年は洗い終わった仔犬をたらいから乾いた布の上へと移動させた。
仔犬は汚れが落ちて満足したのか、嬉しそうにぶるぶると身を震わせて水気を飛ばす。
それは少年の服を濡らしてしまったが、礼の言葉が嬉しくて少年は無言で手を動かした。
仔犬を布でくるみ水気を丁寧に拭き取っていく。
ついでに洗っていた時に指定された場所を軽く掻いてやると、気持ちいいのか仔犬は鼻をもぞっと動かし目をつぶった。
その布の中の仔犬を少年はとても可愛いと思った。
仔犬がクシュッとくしゃみをしたので、風邪をひいたのかも知れないと新しい布でくるみ直し腕に抱いてやった。
「寒いか?」
少年は仔犬に尋ね、その顔を覗きこんだ。
仔犬のあまり大きくもない黒い瞳は半分ほどになっている。
さっきから仔犬はあまり動かず、話もしなくなっていたので少年は心配になった。
持ち上げるようにしてよく見ると、仔犬の頭はこっくりこっくりと揺れており、どうやら眠いらしい。
少年は温かい仔犬を胸に抱きゆっくりと椅子へ腰かけた。
背中を撫でているうちに、すぴーっという鼻息が静かな部屋に響くようになり、仔犬は気持ちよさそうに少年の腕で眠っていた。
しばらくすると、仔犬の身体が動きはじめた。
目覚めたのだ。
ふああっと大きな欠伸をすると、少年の腕の中でもぞもぞと動き、仔犬は顔を少年の腕に擦りつけている。
「仔犬?」
少年は恐る恐る仔犬に呼びかけた。
仔犬の様子がごく普通の仔犬のように思えて不安になったのだ。
もう話ができないのではないかと。
少年は他の人と言葉を交わすことはあっても、食事の連絡であったり部屋を移動すると告げるなど一方的で会話と呼べるものではない。
だから、仔犬との会話に戸惑いながらも少年は一生懸命考えて話しかけていた。
話しかける度に、自分の言葉に仔犬が何を返してくれるだろうと期待して。
仔犬と話すのがとても楽しかった。
少年は仔犬と何度でも話したいと思った。
しかし、仔犬はやっぱり仔犬の姿だから、その口から人の言葉が出てくるようには見えない。
仔犬が眠る前までのことが、夢だったらどうしよう。
もし仔犬がもう人の言葉を喋らなくなってしまったら。
もしも、仔犬が返事をしてくれなくなったら。
少年はひどく恐れながら、仔犬を呼んだ。
「仔犬?」
「それ、私のこと? 可愛くない呼び方ね」
ゆっくりと頭を動かし、少年を見上げながら面倒くさそうに仔犬が答えた。
それは眠る前と同じ態度の大きい仔犬のままだったので、少年はほっと胸をなでおろした。
気の緩んだ少年の腕の中で、仔犬はのんきに前足で顔を掻いている。
「ちょっと、友達、背中を掻いてちょうだいよ」
つぶらな瞳で仔犬はそう言った。
「友達?」
「名前があるなら、名前で呼んであげるわよ?」
仔犬の言い方はとても尊大で、あまり褒められる態度ではない。
しかし、少年はそんなことに気付くどころではなかった。
友達、という呼びかけに驚いたからだ。
少年はその言葉を知っていた。
仔犬がさほど深い意味も考えず使用した言葉なのだろうと思った。
少年と仔犬は友という関係ではないと思っていたから。
それでも少年はとても嬉しかった。
そして、友達が名前を呼ぶということに照れくさいような喜びを感じた。
「我が名を教えれば、お前も教えるか?」
高揚した気分のまま少年が口にした言葉は、仔犬への交換条件のようになってしまった。
うっかり出てしまった言葉は、消すことができない。
仔犬が教えたくないから少年の名を知らなくていいと思ったらどうしよう。
少年がそう悩んでいる間に、仔犬はさっさと答えてしまった。
「私は、ララ・イン・リ・ア・モア、よ」
「ララ?」
「あんたは可愛くないから、モアって呼びなさい」
仔犬は偉そうにそう言った。
言ったというよりも、命令しているようだ。
仔犬はあまり細かくない性格をしている。
今までの仔犬の態度をみればわかりそうなものだが、人づきあいを知らない少年にはわからない。
仔犬の名を教えてもらったことに少年は素直に喜びを感じていた。
ぼんやりしている少年の腕の中でまた仔犬が暴れはじめた。
「モア?」
どうしたのだろうと思い、少年は仔犬へ呼びかけた。
仔犬の名を呼ぶことが少年はとても恥ずかしかったが、嬉しくもあった。
友達の名を呼ぶことに満足している少年へ、再び仔犬が訴えた。
「友達! 名前を教えたんだから、あんたも名乗りなさいよ」
喚きながら仔犬は前足をバンバンと少年の腕に繰り返し打ちつける。
たらいの淵で打った後だというのにと少年は仔犬の足が心配で、打ちつける仔犬の前足を手でつかんだ。
「足が傷つく」
心配でそう告げたが、仔犬はなおもじたばたしながら少年にむけて噛みつくように歯をむいて訴えた。
「だ、か、らっ。人の話をきけっ! 名乗りなさいよっ」
仔犬は前足を少年に掴まれているので、後足で少年の膝を踏み踏みしている。
それはとても楽しそうに踊っているように見えた。
「我の名は、ユェイルン、だ」
「ユェ・イ・ルン、ね。わかればいいのよ、わかれば」
偉そうにそういうと仔犬は踏み踏みするのを止めた。
少年は仔犬の足を離したが、仔犬の踊りが終わってしまったことを残念に思った。
もう一度踊っている姿を見たいと思うのだが、少年はどうすればいいのかわからない。
仔犬が膝でじっとしているので、少年もそのまま椅子に座ったまま仔犬を見守ることにした。
そのうち踊ってくれるといいなと思いながら、ふわふわとした仔犬の背中を撫でる。
すると、仔犬は気持ちよさそうに目を細めた。
仔犬が喋らなくても踊らなくても、膝の上にその温かな重みを感じるだけで湧いてくる感情を少年は不思議に思った。
それははじめて感じたもので、とても言葉に現せないものだったが、少年にはきもちのよいものだった。
少年は柔らかな笑みを浮かべた。