第九十一話「ふらん ぱぱ」
「っっ!」
「あとは、彼女次第。想いに潰されるか、もしくは」
何も見えない、動くことも出来ない自分がもどかしかった。
「ちっくしょぉ!」
「アオくん!」
がむしゃらだった。
唇を噛み切るように動かして、動かない体を無理にでも引きちぎって、前へ、手を伸ばした。
「やっぱり、君怖い」
「うるせぇ! 大切な人なんだ!」
「なら、信じるべき」
「信じてる! でもな、だからって、待ってるのだけは死んでも嫌なんだよ!」
フランに届くかもわからないその手を、俺はさらに前へ、
***
わたしは、パパの影に襲われていた。
どうしてかわからない。死んだはずのパパにそっくりな影が現れて、しかもわたしに攻撃してくる。頭の中が混乱して、どうすればいいのかもわからなかった。
「パパ!」
「……」
影は応えない。黙々と、ただ作業のようにわたしに攻撃を繰り返す。
まるでそれが、影の生きる理由だといわんばかりに。
雷撃は早い。範囲を極小に狭めた局地的な速攻攻撃。何度も見てきた。パパの得意技だった。
気配を感じた瞬間には命中してしまう技なのは知っている。わたしはパパそっくりの予備動作をする影のおかげで、辛うじて避け続けていた。
「きゃ!」
それでも、動き続ければ精彩を欠いてしまう。わたしの体に疲労を蓄積していく。
体が、いつもより重い。目が覚めてからずっと、風邪をひいたみたいに体がだるかった。ムッキーである程度解消したと考えていたけど、甘かった。
もしかしたら、筋力が落ちているかも。
「……あっ」
考えばかりに集中して、わたしはつまずいた。
はっとなって、わたしは前を見た。
影は何回魔法を打ったのだろう。数え忘れてしまった。パパの連射限界は四だから、もし一残っているのなら今は三回目――
「シャクトラっ、きゃぁあああああっ!」
体中に、焦げ付くような激痛が走った。
影の雷撃が、命中したのだ。
「あっあ……あっ」
身体中がびくびくと痙攣し、体を支えきれず膝を突く。
かろうじてシャクトラが間に合ったこともあり、電熱で焼け死ぬことはなかった。
追撃は来ない。ということは、今が連射限界。あと十数秒、猶予がある。
なら立ち上がって……立ち上がって。
「……」
立ち上がって、どうするというのだろう。
わたしはあの影と、パパと戦う?
無理だ。
わたしは、パパと戦えない。
どれだけパパと一緒にいたと思っているのだ。わたしの一生は、パパに作られたようなものだ。
わたしは自分の一生を、否定することはできない。
「……無理」
そんなパパが、わたしを殺そうとしている。なら仕方ないじゃない。
ここまで生きてきたのはパパのおかげだ。ならパパがわたしを殺そうとしたって、文句は言えない。
「無理よ」
むしろわたしがパパを殺してしまったんだ。
その報いがあってしかるべきなのだ。ならばこの仕打ちこそ、正しい道筋なのだ。
影が、指をこちらに向ける。雷撃の、予備動作。
そう、これに当たれば――
「死ぬなんて、無理に決まってるじゃない!」
わたしは、生まれたままの言葉を、吐き出していた。
這いずり回るように、地面を転がる。雷撃は、わたしのすぐ横の地面を抉った。
「たとえあなたが正しくても、理屈通りでも、わたしの感情が、死にたくないって言ってる」
右腕で地面を掴み、震える膝を引き摺って腰を上げる。
わたしは正面の、パパの影を見据えた。
「ごめんなさい。わたしは、まだ生きていたいから」
わたしの手は、まだ大砲を離していない。
「光の、鉄槌!」
呪文を唱える。わたしの魔法管を循環し、雷が口径から迸る。
影はそれを当然のように避けて見せた。あちらも、わたしの攻撃を把握しているみたいだ。
予想通りだ。
「コンボ! 火、水!」
なら、相手にわからない攻撃をぶつけるまでだ。
影は予定通り雷撃を放つ。わたしはそれを熱量に変換して、右側の銃に吸収させる。
火水コンボによる二丁拳銃は避ける動作をなくし、攻撃への準備を整える。
「放射!」
すかさず放たれた熱線が、影に命中した。
攻撃を、当ててしまった。これは、偶然や暴走じゃない。わたしの意志だ。
「人間って、やっぱわからない」
いつからいたのか、淵の精霊ディープが隣で囁く。
「あれは、かつてのあなたの家族。そんな相手と、殺し合いしてる。人の心は移ろいやすいけれど、異常じゃない?」
「……」
「どちらも、見るからに殺すつもり」
「本気でやらないと、伝わらない」
ケースから飛び出したカードを口にくわえて、二丁拳銃に装填していく。
思えば、わたしとパパは、本気で喧嘩したことあっただろうか。
記憶にはない。いつだってパパは攻撃してこない。わたしの意見を通してくれた。
影は、ゆっくりと立ち上がる。耐久力は、人間とそう変らない。
「ごめんなさい。あなたが本物のパパかどうかも、わたしにはわからない。でも、いいたいことがあるなら、本気で来て」
二丁拳銃を十字に構えて、影の行動を待つ。
「あなた、この戦いに意味あるの? やっぱりアタシ理解不能。たとえどっちがどっちを殺しても、何も得ない」
「あるわ」
体はまだ動く。痺れも引いてきた。本気を出せる。
「たとえ殺し合いだとしても、目の前にいるの」
影も、攻撃の構えを外さない。おそらく、本気で来る。
「だったら、今は殺し合いでも、わたしはまだパパに言いたいことがいっぱいあるから」
影が魔法を放った。さっきから使っていた雷撃じゃない。
無数の雷球が、風船のように空中を漂っていた。ひとつひとつがバチバチと稲光を発し、暗闇の世界に、複数の太陽が生まれたかのような錯覚に陥る。
「光火、遊星」
光火遊星、パパのレアカードコンボ技だ。
わたしも、数えるほどしか見せてもらったことのない技だった。複数の雷球を意識が持てる限り自在に操ることができる。球体の一つ一つに必殺の威力があると聞いたことがある。
わたしの知っているパパは、昔のわたし以上にレアカードの負担が大きく、ほとんどはただ全部を単純にぶつけるだけの弾幕技だった。
実際、影の身体からも放電現象が起きている。
でも、雷球はわたしに迫ることなく、人魂みたいに空中を漂う。
本気だ。あちらも、体の負担をかまわず、全力できている。
「……」
たぶん、途中リロードする時間はない。今ある二丁拳銃と、残り四枚のカードがわたしの手札だ。もちろん、そのためのカードを選んでいた。
この場所は、光火遊星でそれなりに眩しい。使えるはずだ。
雷球が二つ、わたしに向かってきた。
「ポチャン!」
わたしは熱量のたまったポチャンで霧を作る。湿気の充満する空間で雷球は速度を落とし、視界を遮る。影は一瞬だがわたしを見失った。
「ポチャン!」
そして背後に回りこんで、冷気を溜め込んだ冷たい水を放つ。
影は奇襲を見越し、一個の雷球で応戦した。そう、攻撃一つなど雷球ひとつで相殺される。物量なら、圧倒的に影に分がある。
「ミズモグ!」
わたしはそこで、その放った水に向かって走り出す。液体は影本体にではなく、地面に放ったのだ。
雷球が当るよりも先にわたしは水の中へもぐりこむ。ここは地下の洞窟だ。湧き水のように小さな水溜りがいくつもある。その中の一つに意識を向けて、水溜りの中をワープした。
雷球は、わたしが入ったあとの水溜りに炸裂する。冷気を溜め込んだ水はわたしが入った後に氷となって雷撃とぶつかる。氷の霧が、辺りに散布された。
わたしの残りの手立ては、あと一枚。
これで、決める!
わたしは走り出した。二度相手の索敵を外し、臆することなく近づく。
だが、影はわたしの姿に気づいたようだ。
もう残りの攻撃は一度、それを見越して、雷球は複数放たれる。たとえひとつ相殺できても、残りの雷球がわたしに炸裂するだろう。
わたしの、幻に。
雷球は、まるで幽霊に向かったように、わたしの姿をした幻をすり抜けていった。
これは、魔法じゃない。
「蜃気楼」
ディープが、感心したような呟きを放った。
そう、蜃気楼だ。二度のポチャンは、それぞれ冷気と熱気を含み、密度の違う大気の中で光を屈折させた。
わたしがいるのは、その雷球の放ったちょうど反対側。すでに、わたしの射程範囲内だ。
影は気づくが、もう遅い。
わたしはそのまま走り、右側の拳銃を構えて、
「ガブリ!」
高熱の牙を放った。影は防御するだろうが、もう遅い。
「わたしのっ……なっ!」
影は防御がもう遅いことをわかっていた。その牙を避けることなく、あえて右肩から突進するように向かい。右半身を犠牲にして、反撃に出た。
こちらを見据える影の意識が、雷球のひとつを、わたしに向けてはなつ。
わたしはとっさの判断だった。二丁拳銃を盾にして、
「銃が!」
雷球と共に、二丁拳銃を破裂させてしまう。部品を撒き散らして、粉々になった。
攻撃手段が、なくなってしまったと思った。
影はもう一度、意識を集中させて、わたしへ雷球を向かわせる。
「こんな、こんなので!」
自分の死ぬイメージが、頭から離れない。走馬灯のように敵の攻撃がスローになり、時間がゆっくり流れているようにも感じた。
どうすればいい。反撃するにも二丁拳銃は壊れた。今は大砲に戻った破片が地面にぱらぱらと落ちている。
どうしたらいいのか、わからない。わからない。わ――
「そんなんじゃ……ない!」
考えるんだ。カード連射限界を迎えたわたしに、できること。
たとえば、こんな時アオならどうする。アオなら。
撒き散らした大砲の破片の中、シリンダーから抜け出した、一枚のカードが目の前を舞っていた。
わたしはそのカード、光のレアカードを掴んだ。
そのまま、影の身体に、カードを押し付ける。
手が震える。わたしは大砲なしにカードなんて使わない。下手をすれば、自分まで攻撃を喰らうからだ。魔法管のコントロールも出来ないわたしは、大砲がなければ、攻撃できないはずだ。
それでも、やるべきなのか。
「うっ……さぁああああい! 光の、鉄槌!」
悩んでいる場合じゃない。やるしかないのだ。
アオだって、理屈など関係なしに魔法を使っていた。連射限界がなんだ。コントロールできないがなんだ。
カードがバチリと音を鳴らし、雷撃が放たれた。
魔法はわたしの魔法管を通り抜けて、コントロールを見失わず、影だけに炸裂させた。
「やっ、た!」
初めてかもしれない。大砲を使うことなく、魔法を成功させた。
これで流石の影も倒れたはずだ。右腕を牙で抉り、全身に雷撃を浴びせた。これだけの攻撃を受けて、立っていられるわけが……
「……そんな」
影は、体中から焦げ臭い煙を出しながらも、まだ倒れなかった。
そうだ、何を勘違いしていたんだろう。影は人間じゃないのだ。パパだと錯覚していたから、人間と同じ体力だと思いこんでいた。
影はまだ動く。雷球は、まだ残っている。
体中に、激痛が迸った。連射限界を超えた体が、副作用を起こしている。
痛い。あまりの痛みに気絶しそうだった。
「駄目! ……駄目」
力が入らない。倒れそうだ。
影は容赦なく、残った手を上にかざして、振り下ろした。
わたしは思わず目を瞑る。
「……」
しかし、わたしが危惧していた雷撃は、一度も炸裂しなかった。
ぽん、と。その変わりに、わたしの頭に影の手が乗った。
「……え?」
わたしは一瞬、何が起こったのかよくわからなかった。
どうして影は攻撃をやめたのか、そして何故、わたしの頭に手を乗せたのか。
「合格だって」
ディープが、溜息をつきながら呟いた。合格?
「どういうこと?」
「アタシ言わない。その権利NO。だから、その代わり」
ディープの掌が、影に触れる。するとそこから光が溢れて、視界を真っ白に埋め尽くした。
*
ここは、どこだろう。
真っ白で、夢の中みたいな空間だった。ぼんやりとしていて、ここが現実なのかもわからない。
「フラン」
そんな白い世界に、声が聞こえた。
わたしの、知っている声だった。
「パパ……?」
わたしは辺りを見渡す。だが、白以外に何も見えなかった。
「ねぇパパ! どこ!」
でも確かに、あれはパパの声だ。わたしを呼んでいた。
わたしは、必死になってパパを探した。
まだ心のどこかで、わたしはパパが生きているんじゃないかと、そんな、現実的じゃない絵空事まで思い浮かべてしまう。
「パパ!」
「無理よ」
わたしの叫びに重なるように、なんとわたしの声が聞こえてきた。
頭が混乱した。どうして、わたしの発していない声が、
「それでもやらないといかんの」
もう一度パパの声が届いた。その声の元を逃さないよう、目を凝らす。
すると、その白い世界に小さな窓が現れた。
「……あれは、わたし?」
その窓の向こうには、わたしがいた。パパもいた。
そして、燃えてしまったはずのわたしの部屋が、そこにあった。
「もしかして、昔のわたし?」
消えたはずの家と、今のわたしよりも小さいわたしを見て、そう思った。
この窓の向こうは、もしかしたら過去の出来事を映しているのかもしれない。淵の精霊は、心の底にある想いを浮かび上がらせると言っていた。
「できない」
「そういわずにのう、もう一度でいいんじゃぞ」
「痛い」
このやり取りに、覚えがあった。記憶のどこか片隅にしまってしまった、過去の思い出だ。
「カードなんて、使えなくてもいい」
そうだ、思いだした。
わたしがまだ大砲を作れなかった時の話だ。
パパの真似をしてカードを唱えたら、上手く使えなくて、魔法が自身に降りかかってショックを受けたのだった。
そのせいで、わたしはカードを触ることをとても怖がっていた。
「う~む」
パパは悩んでいた。まさか、自分の娘がカードもろくに使えないなんて、思ってもみなかったのだろう。
あの時の気持ちが、頭の中から浮かび上がってくる。怖さと情けなさが一緒にのしかかってきて、わたしは押しつぶされそうなくらいに辛かった。
場面が変わる。たぶんその次の日だ。
何故わかるのか、それはパパが、あの大砲の設計図を持ってわたしの部屋に入ってきたからだ。
「フラン!」
「……なに、パパ」
過去のわたしは、まだカードのことを引きずっていた。
「ほら、これを一緒に作ろう!」
「なに、これ」
「大砲じゃあ! ロマン砲! どうじゃ、どうじゃ」
パパが必死になって説明を続けるうちに、わたしも興味を持っていく、単純なものだ。新しいものに眼がくらみ、一日落ち込んだ機嫌を治してしまった。
そうして出来上がったのは、わたしの大砲だ。
「できた! やった!」
わたしは柄にもなくはしゃいで、部屋の中を飛び回る。この頃から、わたしは何かを作ることが好きだった。
パパはうんうんと頷きながら、口を挟む機会をうかがっている。
「での、フラン、さっそく、使ってみんか……の?」
「使うって、どうするの?」
「そのシリンダーにカードを填めて、唱えるんじゃ」
わたしの表情は固まっていた。せっかく忘れたばかりのカードのことを思い出したのだろう。
「いや」
「そういわずにの」
「いや!」
わたしは作ったばかりの大砲を投げ捨てて、部屋を出て行ってしまった。
その部屋に残された博士は一人、困ったように、寂しそうに微笑んでいた。
時間が少し経って、わたしは家に帰ってくる。ちょっと拗ねて、外にでていたのだろう。
外では、パパが待っていた。
「フラン! 大変じゃ」
「……」
わたしは無視していた。まだ、機嫌が悪い。
「なんとの、家に張っておいた結界が誤作動を起こしての。家に入れないんじゃ」
「嘘」
「うっ……だからの、フランが魔法を使って破って欲しいんじゃが」
「やだ」
「でも、それせんと家に入れないのう」
わたしはかたくなに断った。
パパはこれ見よがしに大砲を見せ付けて、使え使えと煽っていた。
もちろん、わたしは使わなかった。そのせいで、夜まで外にいることになった。
パパも、根負けせず、夜になっても結界を解かなかった。
その日は雲行きが悪く、ぽつぽつとだが雨が降り始めた。
「……冷たい」
「そうかの、じゃあ、こっち来るといい」
パパはそう言って、わたしを雨から守るように抱きついた。
雨が少しずつ、本降りになっていく。
「パパ、家に帰ろう」
「わしは今日、魔法が使えないんじゃよ」
「嘘よ」
「使えないんじゃ」
頑なに、パパは魔法を使わない。
雨が強くなっていく。小さいわたしはパパの体が傘になっていたけれど、パパはずぶ濡れになっていく。
小さいわたしはその姿を見て不安が募っていった。ちょっとだけ、拗ねていることを忘れて心配する。
「パパ、風邪引いちゃうよ」
「かまわんよ」
「どうしてよ」
「風邪なら寝て安静にすれば、いつかは治る。だがの、いつ治るかわからない病気を、放ってはおけんじゃろ」
この根競べは、結局わたしが折れた。
パパが震え始めてから、やっとわたしは立ち上がって、渋々魔法を唱えたのだ。
大砲のおかげで当然のように成功して、掌を返したみたいに喜んでしまった。本当に、現金でいやな思い出だ。
「やった、やった、やったよパパ!」
「そうさの」
家の中に入っても、パパの体からはぽたぽたと水が滴る。
こんな、寒そうな思いを、わたしはさせたことがあったのだ。
それなのにパパは、わたしが喜ぶと、同じくらいにはしゃいで、笑ってくれた。
小さいわたしは、それを見てちょっと疑問に思っていた。
「なんで、パパはこんなことするの?」
「なんでか……なんのためになら、いろいろあるんじゃが」
「理由?」
「フランが生きていく間、おそらくいろんなことが起きるじゃろう。それこそ、今日よりもっと辛いことがいっぱい起こる。嫌なことにもたくさん出会うかもしれん。そんな時に、もう一度頑張れる人間になってほしいだけじゃよ」
辛いこと。そんなの、このころのわたしには無縁のものだった。
パパはいつだって強制しなかった。わたしから前に出てくるのを、ずっと待っていてくれた。
「まあ、時間はまだあるからの、ゆっくりやればええ」
でも、今はパパとの時間がなくなってしまった。パパは、死んでしまった。
「いつまで?」
「そんなのわからんよ」
「じゃあ、間に合わなくなったら?」
「そのときは、わしも死ぬ気で頑張るからの、フランも、それくらいの覚悟で頑張るんじゃよ」
死ぬ気で。
そうだ、あの影との戦いは命を賭けたものだった。もしわたしが、カードの制御を克服できなければ、死ぬかもしれない戦いだった。
「もしかして、もしかしてパパは……」
言葉の漏れた口が、震えた。
「ずっと……この約束を」
視界か霞む。届かないのはわかっていても、その思い出に手を伸ばしてしまう。
「わたしの、ために」
「パパ、どうして、わたしのためにそこまでするの?」
「……わからんの。意味とか、成果とか、やり方なんかは何でも話せるんじゃが」
思い出の中にいたパパは、困ったように笑って、小さなわたしのあたまにぽんと、手を乗せた。
「これで、堪忍してくれい」
パパの思い出は、今のわたしに語りかけてくれない。
それでも、十分に、伝わるものがあった。
「そんなの、許すしか、ないじゃない」
わたしは思い出に伸ばした手を下ろして、胸元で握り締める。
ふわりと、見えない何かが吹きぬけた。景色が飛んでいき、知らない光景が目に映っては消えていく。
そうして最後に映ったのは、わたしの覚えていないほど、昔の記憶だった。
「ほら、生きとるかの」
試験管の中からでてきた、赤子がいた。パパはその子をベビーベッドに寝かせて、ぶっきらぼうに、実験動物でも扱うように、話しかけている。
「こりゃ……なんとも……」
時が経つ。はいはいが出来るようになった赤子は、他の赤ん坊と同じように、知らないものに触れては、怪我をしそうになる。それに翻弄され、パパは疲れた顔で溜息を吐いていた。
「ほら、あれが空じゃ、あとあれが地面じゃ」
パパは赤子を連れて、外を散歩していた。積極的に話しかけて、何かを身に付けさせようとしている。未だに物覚えがつかない赤子に対して、心配していたのかもしれない。
「さて、この家の中には一匹のクマさんがいたとな」
家の中で、パパは赤子に絵本を読んであげた。
「クマさんのパパは、そんなクマさんが……」
「……パパ?」
ふと、赤子が何かを喋った。
パパは瞬きも忘れるほどに驚いて、赤子と目を合わせる。
「パパ、とな?」
「……パパ」
その赤子がしゃべるのは初めてだったのかもしれない。偶然にも、そのパパという単語が、初めての言葉になった。
「パパ、パパ」
赤子は意味もわからないまま、ただパパにそう囁き続ける。
「いや、わしはな、フランク――」
「パパ」
「まあ、いいかの」
それから、パパと呟くたびに、パパは赤子のもとにやってくる。自然と、赤子はその人をパパと呼ぶようになった。
「フランク」
「ふ、ら、ん?」
「いや、そうじゃなくての」
「フラ、ン」
赤子は、フランクと発音することがまだ出来なかった。言葉足らずで、フランと言ってしまう。
「パパ……フラン」
「フランク……いや、フランでいいかの。フランにしよう」
「フラン?」
「そう、お前の名前はフランじゃ。栄光たるわしの名前を借りたんじゃ。いい子になると確信しとるぞ」
いつだってパパは、効率主義だった。
今回だって、赤子がせっかく覚えた言葉をなにかに使いたかったのだろう。そう考えて、今までつけていなかった名前を、そのときに決めたのだ。
「適当ね……ほんと。そんな名前の決めかたして」
フラン。その赤子の名前は、わたしの誰よりも尊敬していた、パパの名前からつけられたのだ。
「文句なんて、あるわけないじゃない」
フランとパパが、手を繋いでいた。
パパは怖がるわたしの前を歩いて、引っ張ってくれる。
しばらくすると、フランはその場所に慣れたのか、隣を歩くようになる。
そうして、それよりずっと未来の、今よりほんのちょっと前の話。
わたしはパパの手を引いて前を、早足に歩き出す。わたしは向こうにいる誰かに向かって歩き続けていた。
その誰かは、ずっと手を差し伸べてくれていた。
いつ来るかもわからないわたしが、手を繋ぐと信じて。
フランの歩く先に何があるのか、わたしには見えなかった。でもどうして、そんな気持ちになるのか、今のわたしには、わかったような気がした。
パパは笑いながら、フランと繋いだ手を離し、立ち止まってしまう。
フランの姿をした思い出は、歩みを止めず、わたしの横を通り過ぎていく。
そこに残ったのはわたしと、思い出の中のパパだった。
「……パパ、ありがとう。大好きだったよ」
「……」
あのパパは、わたしの中にある思い出だ。話しかけても、答えるわけはなかった。
でも、言いたかった。パパに、この姿を見せてあげたかった。
「思い出だけど、ほんの一瞬だけパパに会えたみたいで、嬉しかったよ。でも……もう、行かなくちゃ」
わたしはフランの向かっていった先に、歩き始める。
どうして? そう、誰かに聞かれた気がした。
わたしは立ち止まって、振り返る。まだそこにいたパパに、一言だけ伝えた。
「好きな人が、できたんだ」
潤んだ目から涙が溢れそうだった。でも、それじゃあだめだ。
パパが、笑って見送ってくれる。
だから、わたしも微笑み返そう。今できる精一杯の笑顔を、パパにあげよう。
***
暗闇が、晴れていった。強風が霧を吹き飛ばすように、視界がクリアになる。
「フラン!」
「フランちゃん!」
俺は体の自由が戻ったと同時に、フランを探し出す。
時々つぶやくディープの台詞から、生きている事は察せたが、この目で見ない限りは安心できない。
いた。
フランは、いつの間にか俺の手を掴み返していた。すぐそばに、フランがいたのだ。
「なっ!」
安心したのもつかの間、俺は目の前の光景に掴む手が強くなる。
なぜならまだ、フランの目の前には、影のようなものがいたからだ。
「……」
だが、俺たちが気づくと同時に、そいつも砂のように崩れて、洞窟の暗がりに溶け込んでいく。
どんな姿だったのか、よく見えなかった。
「フラン、無事か?」
とりあえず、フランに声掛けをする。
フランが俺の声に気づいて、顔を上げた。
「……アオ」
フランの顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
*