第七十四話「じゃんぬ どろ」
俺は、その始まった光景だけを見て、開いた口が塞がらなかった。
グリテも、ただ出てきたその場所に驚愕し、動かした手を止める。
「ここ、どこだ」
「おい、クソ精霊! どこに連れ出しやがった!」
その世界は、紫の泥まみれだった。
建物のような輪郭をした泥や、人の形をして歩いているベトベトンみたいな泥、地面もなんだか、スライムのようにぬめっている。辛うじて、周りにある木々が普通の色をしていた。
原色だらけの、地獄みたいな世界だった。
「ジャンヌ、どうしたの?」
隣から、声を掛けられる。その子だけはその空間の中でしっかりと人の形を保っていた。見た目も普通なそのポニーテールの女の子を見て、一安心する。
「大丈夫よ、マリア」
マリア、これがマリアの姿か。案外可愛い。
ということはつまり、
「ジャンヌの、記憶……なのか?」
だとしたら、この空間は何だ。先程見たマリアの記憶に、こんな場所はない。というよりも、マリアもこの場所をまるで気にしていない。
『これは正真正銘、ジャンヌの記憶さ。彼女の見たままを、僕は映している』
「見たままって」
『彼女には、こう見えるんだよ』
どういうことだ。
「魔法を可視化できるんだろうよ」
理解力のあるグリテが、俺に解説してくれる。
「可視化?」
「精霊に聞いたことがある。精霊は世界が魔力の塊として視点を変えることが出来て、それに変えると、人工物は紫色に移るらしい」
人工物、建物や人そのものか。
そういえば、加工された道は泥だけど、向こうに見える土や木はそのままだ。つまりは、ジャンヌは生まれつきそういう風に世界が見える子なのか。
地球で言うクオリアってやつだな。同じものでも違うように見えるのはわかるけど、こうまで違うとなると。
「ホラ、ハナレナイヨウニ」
びくっとなる。マリアのさらに隣にいた紫の泥が、話し掛けて来たのだ。
ちょっとわかりにくいけどもしかして、テレサかこれ。おばけテレサって感じだ。
「なんでマリアだけ普通に見えるんだこれ」
「天才は生まれつき、持った魔力の制御力があるんだろうよ」
そういえば、通りすがる人間の中にも、普通に見える奴がいる。なんといえばいいか、つわものっぽいおっさんとかだ。
魔力そのものを制御できる力が備わってないと、魔力駄々漏れになるのか。この世界ってMPの概念ないからよくわからないけど。
「魔力を身体に収める。それが普段出来ないやつはまず一般人の領域を超えられねぇんだよ」
「へ、へぇ」
俺ってどうなんだろ。
ジャンヌはこの光景に慣れているのだろう。すごく落ち着いている。
「こんなのずっと見てたら発狂しそうだな。なんというか、今も寒気がする」
「精霊は、この目だけを閉じられるとか言ってたな」
「精霊は使い分けられるのか」
幼いジャンヌは、それの使い分けすら出来ない。訓練をしようにも、誰にも理解してもらえなさそうだし。
証の精霊オボエは、このためにマリアの記憶を見せたのか。
「にしても、外の光景って珍しいな」
いままでジャンヌが引きこもっていたこともあって、外の記憶はほとんどない。それに、関心がないにせよ、テレサとも会話が出来ている。
なんでああなったのだろう。
「……ジャンヌ、ドウシタノ?」
「……あれ」
ジャンヌが、知らない泥人間を一人、指差した。
そいつは男だろうか、道の隅っこでぼおっと立っている。はたから見ればそこらの泥人間と変わらないが、足元が変だった。
「何だあの、黒いの」
「……」
「テレサ、あれ、なに」
男の足元に集まっていたのは、赤ん坊みたいな頭でっかちの人型に見える、黒い塊たちだった。路地の隅や物陰にも同じようなのがいるが、その男の足元に何故かいっぱい集まっている。
テレサもマリアも、ジャンヌが指差す何かを理解していない。
「あの男の人ですか?」
「違う、足にいる黒いの」
「黒いの?」
「ジャンヌ、何を言っているの? 黒いのなんていないよ」
不思議と、悪い意味でその男から目が離せない。なんといえばいいか、寒気がするのだ。
ガタガタと、地面を転がる鉄の音がする。馬車だ。道路の真ん中をそれなりの速度で移動している。
そのときだった、その黒い塊たちが、動いた。
「おい、おいあれ」
俺が指差す先の黒い塊は、まるでタイミングを見計らうように一歩引いて、男を馬車の前に押し出したのだ。
「キャァアアアアアッ!」
女っぽい泥人間から悲鳴が上がる。甲高すぎて、耳が痛くなるような声だ。
男は馬車に轢かれて、路地から弾き飛ばされた。
「ひ、轢かれたぞ!」
「おい! 大丈夫か!」
馬車から騎手のおっさんが出てきた。突然飛び出してきた男に対して駆け寄っていく。
轢かれた男の体は、見たところ傷一つなかった。でも、生気をまるで感じない。
「おい、動いてないぞ!」
集まった男たちの一人が、騒ぎ出す。打ち所か何かが悪かったのか、心臓が動いていないようだ。
「さあ、二人ともこっちへ」
テレサは気を利かせて、二人をその事故から離れさせる。
そうやって離れていく中、ジャンヌは気づいた。
その倒れた男の、紫色のドロドロが黒ずんでいく。
「死んだな」
「グリテ?」
「見りゃわかるだろ、あれはそういうことなんじゃねぇの」
そういうこと、確かに、あの場面からイメージされるのは死だ。ジャンヌの思考も、死そのものを確信している。
ジャンヌは人が死ぬことを初めて知ったのだろう。あれくらいの餓鬼のころって、人がいなくなるってテレビとか絵本で知るんだよな。
そしてあの黒いものが、その象徴だと頭の中で思いこんだようだ。
『飛ぶね』
次の場面は、マリアの時もよく見ていたあの孤児院の一室だ。
ジャンヌは窓の外を怖がるようになった。
その理由は誰にもわかってくれない泥世界のせいだろう。才能に気づいたテレサは、その原因の理屈を知っても理解は出来ない。周りの子供なんてなおさらだ。
ただ一人、マリアだけは友達でいてくれる。いい意味で、マリアは単純なのだ。彼女の見えるものがどうであれ、仲良くなれた。そう、ジャンヌは思っている。
「ジャンヌ、あそぼう」
「うん」
俺たちは知っている。マリアも孤独だった、誰かといたい思いが、ジャンヌと重なったのだ。唯一支え会える友達が、出来上がった。
「餓鬼のころなら、いいんだがな」
でも、マリアの悩みは一時的なものだ。
本人が変わらなくとも、周りは変わっていく。俺もそうだった。小学校の時はからかわれもするが、中学になるとそういうことをするのは頭の悪そうな不良ばかりだ。知識を身に付ければ、理性が出来上がり、考えのすれ違いなど気にしなくなる。
ジャンヌのそれは、考えというレベルじゃない。だから、子供の時から一緒にいてくれたマリアしか、友達ができなかった。
「理解できねぇな、なんで他人が必要なんだ?」
「グリテだって、夜に必要な時があるだろ。人は一人だったら猿と何も変わらないんだよ」
悲しいことに、人が人として生きていくのに必要なのは、他人なのだ。
しばらくすると、ある学校の授業風景に映る。入学初日だろう。
でもすぐに、ジャンヌは不登校になる。自分の見ているものを否定されたからだ。
我を通せば通すほど、他人とは離れていく。強い個性は、得てして社会性を欠く。集団で真っ直ぐに歩いている中で、横を向けば規律が乱れる。
社会ために、学校は個性の尊重を許せない。そういう意味では、ジャンヌにとって最悪の場所だった。
ジャンヌの個性は精神性でどうにかなるものではない。逆に矯正できない形に変えようとして、さらに曲がっていく。
「ジャンヌ、一緒に外に出よう、みんなと一緒の方が、たのしいよ」
「いや」
出来上がったのは、引きこもりのジャンヌだった。
それでも話しかけてくれるマリアは、ジャンヌにとっての全てになっていく。ジャンヌにとって皆など、同じ泥人間にしか映らなかった。
『もう少し、もう少しだから』
「俺は待ってるし、せかせかすんなや」
もう、グリテもうるさく言わないし。
グリテは黙ってこの光景を見つめている。もう言うのを諦めたのか、別の理由かは知らない。
次の光景は、あのマリアが怪我をしたところだった。
「マリア! マリア!」
思考を読まずとも、ジャンヌが狼狽するのが見て取れる。まだマリアは搬送されたばかりで、意識を取り戻してはいないらしい。マリアに会うため、病室に向かっていた。
「ジャンヌ、チョットキナサイ」
「離してよ! マリアが!」
「キナサイ」
テレサは半ば強引に、ジャンヌを連れて行く。病人のいない個室で二人、話を始めた。
「コンナトキニスイマセン、デモ、イマイワナイト」
「何よ!」
「マリアヲタスケタイデスカ?」
「当たり前でしょ!」
「ナラ、ツギハアナタガセンジョウニデナサイ」
テレサは、このときにマリアの慈愛と、この孤児院の事情を全て話した。戦場で戦果を上げることしか、存続の道がないと。
もちろん、ジャンヌはそれどころじゃない。
「だからって、なんでワタシが戦場に出る必要があるのよ! 関係ないでしょ!」
「アリマス、ヒトツハ、アナタガ、テンサイダトイウコト、モウヒトツハ、ソウシナイト、マリアガシヌトイウコトデス」
「マリアが、死ぬって……」
テレサはたぶん、賭けに出ていた。
孤児院を救うためには、あの場所から天才を生み出す必要がある。だがその第一候補が、あちら側の勝手で壊れてしまった。もし存続するのならば、ジャンヌを使うしかない。
最初の記憶で、知らないおっさんたちがやっと出た成果と言っていた。たぶん、あまり猶予がないのだろう。
あれ、でも、二人とも行方不明になったんだよな、どうしてまだ孤児院は残ってるんだろ。
「……」
ジャンヌは悩んだが、やる事はもう決まっていた。
マリアのために、戦うしかないのだ。
『天才は、大変だね』
そこからの記憶は、ジャンヌにとって苦痛でしかなかった。
話したく無いものと会話をし、出たくもない外に出て、どうでもいい泥を殺していく。
「僕の名前はジル。孤児院で会ったことはないかな? テレサに、君を頼まれたんだ」
ここでジルも登場する。他の奴らと違って、まだ泥が制御できている方だ。声も透き通っている。
「あークソ、この辺りか」
グリテが、何かを思い出して悪態をつく。そういえばロボはグリテのことを知っていたんだよな、この頃から活躍してたわけか。
「君の噂はかねがね聞いているよ、現存する英雄の二人目だってね。あの英雄の卵、グリテの戦力にも匹敵するとか」
「オイ、ソコノフタリ」
「ああ、もう少し待ってください」
ジャンヌの耳には、ジルの話など入ってこなかった。
ただ、俺らが見る分だと、ジルの配慮は素晴らしい。たぶん、この戦場でジャンヌを一番フォローしていたのは、ジルだろう。マリアを怪我させた負い目も強い。
場面が移り、戦場での出来事が続く。
ジャンヌの能力は、あの黒い赤ん坊の幽霊たちを操る能力だった。
彼女の視界には、黒い塊がどこにでもいた。そいつらを操るだけで、簡単に人を殺せるのだ。なにせ、ジャンヌ以外はそいつが見えていない。
適当に殺せと命令すれば、相手は避けもせず死んでいく。どうして首が割れたのかとか、何故動けないのか、そんなこともわからずに。
「ジャンヌ、すごい、君はすごいよ!」
ジルは感嘆の声をあげて、ジャンヌに近づいてくれる。
ジャンヌは、それが煩わしかった。
「初陣でまだ子供なのに、躊躇いもしないとは」
「バケモノダ」
もちろん、得体の知れない強い力は、好奇の視線ばかりではない。ジャンヌはその全てを受け止めていたが、どうでもよかった。
ジャンヌにとって、モンスターと人間は全く同義なのだ。むしろ、泥の集約が出来ているモンスターの方に好感が持てるくらいだった。
「予想してたけど、全然改善してないな。人間関係」
むしろ、ジャンヌは外に出ることで、より一層他人との違いを浮き彫りにしている。
外に出るのは、彼女にとってストレス以外の何者でもない。
でも、ジャンヌはマリアを守るために、いくらでも無理をしてみせた。マリア以外に、ジャンヌには何もなかったからだ。
『もう少しで、事件になるよ』
場面が移る。病院を出た辺りだろうか。
「丁度今辺りのマリアの顔が拝めないな」
「どうでもいいだろ」
マリアの体調は回復に向かっていた。ただ、もう二度と戦闘は出来ない。
ジャンヌはそれでいいと思っていた。自分が無理をすればいい。いつか二人だけでどこかに逃げて、自分たちに害を成す奴らのいない世界に逃げようと、思っていた。
「ジャンヌ、どうしたんだい?」
ジルが心配そうにこちらを見ていた。
ジャンヌはちょっとだけ、ジルのことを認めていた。泥の制御もよく出来ていて、理性もある。こういう人間がいっぱいいる世界なら、周りにいていいくらいには思っていた。
「……もう、長くない」
「なにが?」
ただ、ジャンヌは焦っていた。
「マリアに、闇が」
どうやら、マリアの周りに、あの闇の幽霊が集まっていたらしいのだ。
死期が近い。操れるようになってから、ジャンヌはこの幽霊がどんな存在なのか理解し始めていた。
いつかじゃなく、すぐにでも逃げなければいけない。ジャンヌはその想いで固まっていた。
『次で最後』
記憶の世界に、またノイズが走った。