第七十二話「もじ ほん」
紙には→って書いてある。右ってことか?
「もたもたしてんじゃねぇよ」
グリテがイラつきながら引き返してくる。
俺はそんなことも構わずに、その紙に書いてある通り、右を向いた。
「…………あ」
そこは、先程グリテが魔法陣を書いた壁だ。
いや、壁があったはずの場所だった。
「開いてる」
その、図書室にあったはずの壁が、綺麗サッパリなくなっていた。かわりに、明かりのない暗がりの通路がそこにあった。
「おい」
グリテがこっちにまで戻ってきて、俺の持っていた紙をひったくる。そのまま紙の文字見て、俺と同じ方向を向く。
ひゅぅ、っと肌寒くなるような風が、俺とグリテの間を通り過ぎた。
グリテは珍しくキョトンとしていたが、次第に表情が邪悪な笑みに変えていく。
「いくぞ」
「え、でもさ」
「じゃ置いてく、光の巣」
グリテは臆することなく前に出た。糸を先に向かわせて、内部構造を探ろうとしている。
が、ぷつんという音と共に、糸が切れて戻ってきた。
「面白しれぇ、クソが」
「マジで行くのか」
「ここから離れて、消えたらどうする」
「もっともな意見だけど……しゃあないか」
グリテの言うとおりだ。もし一度引き返して、同じ方法でこの入口が見つからなかったら後悔するだけだろう。
「風」
とりあえず風のハープだけ取り出しておく。
グリテの臆することのない足取りの後ろから、腰きんちゃくのように付いていく。
「キラン」
グリテが光の魔法を放つ、糸で構造がわかるとはいえ、やはり目はほしいんだな。
天井と床はそこまで古くない、あのダクトと一緒で埃もない綺麗な通路だ。
ちょっと進んだだけで、行き止まりになった。
「壁? 行き止まり?」
「ちっ」
グリテが舌打ちをして、引き返そうと振り返る。
俺もそれに習って、後ろを向くが……通路がなくなっていた。
「帰り道が」
「舐めやがって」
グリテがカードを取り出す。俺の見たことのないカードだがもしかして。
「えんじょ――」
「待ってって! もうちょっと調べてからにしよう」
ここであの荒蜘蛛を出す気だったようだ。慌てて止める。
「グリテ、たぶんあれだ、あの魔法陣が関係している通路なのは確かだよ」
「罠かも知れねぇぞ、オレは恨まれてるからな」
「そりゃ……困る」
ああ、その方向での考えを働かせていなかった。
もしかしたら、俺たちの好奇心の隙を突いて殺しにかかった学生って可能性もあるのか。
「ま、そんなんだったらオレを閉じ込められるはずないが……めんどくせぇ」
本当に炎で焼き払いそうな雰囲気だ。
こんな暗がりの狭い小部屋の中で、グリテと二人っきりなのは精神的にも悪い。何が起きるにしても早くしてくれ。
「あ、紙」
俺がそわそわして辺りをきょろついていたら、また紙を見つけた。不自然に、壁に張り付いている
『ちょっと待って』
「ちょっと待ってって」
「うぜぇ」
グリテも俺の横からぐいっと紙を睨み付ける。
にしてもどこにあったんだろこの紙。あらかじめ張ってあったにしては、なんか違和感バリバリだけど。
そう思っていたら、その紙が動いた。
「文字が……きえた」
ふっと、黒インクが蒸発するように消えて、白紙に変わったのだ。
そしてまた、滲むようにその紙に文字が書かれる。
『あと五秒くらい』
「カウントダウンかよ」
茶番みたいに文字がいくつも浮かび上がる。五、四、三、二。
「は、舐めてんのか」
「ああっ!」
グリテはそんなまどろっこしさに嫌気が差したのか、そこにあった紙を乱暴につかんで、びりびりに破いた。
「なにしてんだよ」
「ムカつくわ、こいつ」
「だからって、切ることないだろ」
これで機嫌悪くして、閉じ込められたらどうするんだ。
と、また壁から紙が浮かび上がった。というよりも、あの堅い壁から一枚はがれて、紙が産まれたみたいだった。
『二、一』
頑固にも続けたカウントダウンが終わったとたん。壁が開いた。
いや、開いたというよりも、めくれたというべきか。あれだけ冷たく堅かった壁が、いきなり紙に変質して、バラバラと本のページをめくるように開いていったのだ。
「な、なんだここ!」
その紙の壁の先に広がっていたのは、本の世界だった。
山吹色一色に染まった、コンサートドームよりも広い空間に、同じ色をした本と本棚がひしめいていた。本棚は天井が見えないほどに高く、横にも果てしなくて、どこまであるのかが把握できない。
「しかもこれ、紙だ」
床を歩くたび、その足元で紙が舞い散る。本棚に触れてみると、またその本棚もぱらぱらとA4くらいの紙になって落ちる。
何枚も紙を重ねて作った空間だ。山吹色の哀愁も相まって、夢の世界にいるみたいに現実味がぼやけてしまう。
「けっ、くだらねぇ」
グリテは忌々しそうに地面を蹴ると、紙が何枚か宙を舞う。
「おい精霊! どこにいんだよ!」
グリテは声を荒げて、この部屋の主を待つ。
たぶんこれは当たりだ。精霊のもとにたどり着いたのだろう。ここまで常識はずれな空間を作れるのは、精霊くらいだ。
しばらくすると、俺とグリテの前で紙が綺麗に重なっていく。小さな机が一つ出来上がって、その上にまた別の紙が一枚置かれた。
『ここにいるよ』
「……やっぱり、この空間そのものがあんたなのか?」
『正解』
山だったり鎖だったりの、ちょっと前に会った精霊よりもあの二体寄りだな。完全に人の形をしていない。
『僕は証の精霊オボエ、君たちが探しているのは、どんなものの証かな?』
文面からも伝わってくる精霊の気配に、俺は苦笑いで応える。
*
「ふざけんな」
「あーあ」
グリテはその文章を机ごと蹴飛ばして、ばらばらにする。
でもすぐにもとの形に戻る。のれんに手押しとはよく言ったものだ。紙だけど。
『ふざけているのは君たちのほうさ(笑)』
「笑……って、すごいむかつく」
『ごめんよ、もう僕はボキャブラリーが乏しくてね(悲)』
「適当につければいいものじゃないよそれ」
『なんにしても、君たちはふざけているよ。少なくともあと百年はサボろうと思ってたんだ。隠れるための仕掛けも二十年前よりも複雑にしたんだけど……』
複雑? ちょっと発想を変えれば結構簡単に思いつきそうだが。
『まさか工程の八割を飛ばして、あのダクトに辿りつくなんて』
「そんなことやってたのか」
『大体あのダクトは偶然じゃ絶対に見つからないようにしていたんだよ、誰かが別の目的で封印を解いてしまったようだけど』
たぶんそいつは女子更衣室を覗くためだけに封印を解いたな。誰だかは知らないけど。
『まあ、不本意だが君たちはたどり着いた。僕ルールからすれば、君たちに何か特別なご褒美をあげないとね、といっても、僕には記憶しかないけど』
「おい」
そこでグリテが前に出てくる。功績にしても彼が最初なのはわかるから、反論はない。
「オレが聞くのは一つだ。ジャンヌ、マリア、この二人がこの学校を退学するまでの真相を教えろ」
「あ、え」
俺はついグリテを見てしまう。グリテがマリア関係の話に興味を持っていたのはわかるが、まさか目的まで一緒とは。
「ぐ、グリテ、ちょっといいか?」
「あぁ? なんだ」
「ジャンヌを知ってるのか?」
「ふざけてんのか。知ってるも何も、ジャンヌ、マリア、オレ、紅がイノレードの神童だろうが」
ああ、そういうことか。なんで今まで思い至らなかったのか。
ロボと関係する以上はジャンヌが関わってくるのは明白だった。
神童関連はあんまり調べなかったからなぁ。もしかしたらラミィは知っていたかもしれないが、ロボもちょくちょく会議に参加するから、そこまで突っ込んだ話はできなかったし。
「オレはあの三人と対等なんて納得してねぇ、だがな、胸糞わりぃんだよ」
グリテが歯を食いしばる。
「仮にも天才と呼ばれたやつらが、国なんてちっぽけなもんに殺されやがって」
グリテのいらつきが、この精霊の空間すら巻き込みそうなほど、強く出ていた。
たぶんグリテはマリアたちが何かの事件に巻き込まれたことよりも、その事件で行方不明になったという、敗北の方が気に入らないのだ。
「その、二人を殺した事件がどんなもんか教えろ。鼻で笑ってやる」
『すごい私的な願望だ、嫌いじゃないけど』
「許せねぇんだよ」
グリテはなんというか、こういうプライドの高さは武人みたいなところあるよな。
と、俺に視線が移る。どこにも目はないのに、証の精霊がこちらを見ているのがわかった。
「……同じく、あの事件の真相……マリアのことが知りたい」
『彼女の事はロボでもいいよ』
「知ってるのか」
『そりゃ、証の精霊ですから』
なんでこの精霊はたまにタメ口になるんだろう。いや、タメ文字か。
文字が浮かんでは消えて、また浮かび上がる。案外喋りたがりなのかな。まあ、生きた証っていうくらいだし、記憶したことを他人に披露するのは嫌いじゃなさそう。
『前置きを言わせてもらう。忠告といえばいいかな。この記憶は他人のものだ。それを見るという事は、心を抉ってその傷口に手を入れることと同じ。君たちはそれでも、僕の話を聞きたいと思う?』
「かまわねぇよ」
グリテは書かれた文字をすぐに読み取って、すぐにクシャクシャにした。俺が速読できなかったら読めなかったぞ。
「オレが傷つかない心配をしてなんになる」
『グリテらしいね。たぶんアオ、君もそうだね。まあ、通過儀礼だから一応言ってみただけだ。ただ心してほしい。君たちにも、必ずどこかで自らの生き方に影響を及ぼす』
「……」
俺とグリテは黙って、オボエの次の文字を待つ。もちろん、引き返すつもりはない。
『じゃあ、見せよう、紛れもない真実だ』
ぶわっと、精霊の本棚が風にまみれる。目をしかめるほどの紙の群れに囲まれて、視界がゼロになる。
俺は意味もなく両手を振り回し、グリテはまるで意に介さず仁王立ちしている。
しばらくすると、そこは別の空間に変わっていた。
「こ、ここは」
『記憶の世界だよ、僕は記憶を書きとめ、それを誰かに見せる能力がある』
黒い宇宙のような空間に、白い文字が浮かび上がる。なんといえばいいのか、立体映像だ。
三百六十度全面がモニターになった、立体映画を見ているといえばいいだろうか。
「へっ、しゃれてんじゃんよ。はやくしろよ」
グリテは冷めた声で皮肉を言う。
『慌てないで、もう始まるよ』
オボエがその文字を消すと同時に、カウントダウンが始まった。
またか。しかも今回は映写機でやったような、映画館で見たことのあるあの白黒カウントダウンを始めやがった。
「この世界って、映像器具ないだろ……」
なぜ地球のような編集をするのか。
三、二、一……光が、黒い空間に広がった。
「とうとう成果が現れたか」
「思っていたよりも遅かったというべきか、テレサもしっかりやってほしいものだ」
知らない大人の声が聞こえる。
眩しさに閉じていた目を開けると、知らない部屋にいた。
「ここは、どこだ?」
「イノレード政府の会議室だな、見たことある」
グリテはこの場所を知っていたようで、教えてくれる。
イノレード政府の会議室って、なんでこんなところに。
周りにいる大人たちは、なんといえばいいか、初老で裕福そうなおっさんばかりだ。何故か知らないが、こちらを品定めするような眼で睨んでいる。
「おい、あんたら……あれ?」
「映像だろ、アホか」
ああ、そうだった、証の精霊が見せてくれた映像か。
「さて、この二人の処遇だが、やはりまだテレサに任せるべきか?」
「いや、あの女狐に任せるべきではなかろう。せっかく政界から追い出したというのに、力を持たせるわけにも」
「しかし、我々では彼等を飼い殺してしまいます。才能を引き出したのは彼女ですから」
おっさんたちがなにやら議論をしている。
「なにしてんだろ、このおっさん」
「品定めだろ。おい精霊、これは誰の記憶だ?」
『マリア』
すぐに文字が返って来る。ロボの記憶か。
「でも、ロボみたいな女の子なんてどこにも……あの子?」
すぐ横で、おびえて縮こまっている女の子がいた。歳は五歳にも満たないだろう、顔立ちが整っていて、将来美人になりそうだが。
『それは、ジャンヌ』
「え」
『これはマリアの記憶、マリアの自身の姿は映らない、映るのは彼女が見えたものと、聞いたもの』
「つまり、マリアの視界を俺たちは見ているってことか?」
『鏡があれば彼女の姿は映るかもね』
何にしてもこれがロボの記憶か、大人たちに品定めをされている記憶なんて、いいものじゃないだろうに。
隣にいるジャンヌも、イメージとはだいぶ違うな。いつでもニコニコみんなの楽園なのに、歳相応の、すごく怯えた表情をしている。まあ幼女だしそんなものか。
「ふざけんなよクソ精霊、オレは事件の真相を知りたいんだよ」
『あわてないで、教えてあげるから。人の記憶を遡るのは、ただそのシーンを見れば終わりなんて上手い話じゃない』
オボエがそう記すとすぐに、頭の中に別の感情が入ってきた。
怖い、なんで彼等はワタシを見ているのか。
「これは、ロボ……マリアの思っていることか」
マリアの考えが、俺とグリテの頭の中をよぎる。今なにを考えているのか手に取るようにわかる。
なるほど、今までしたことのない遊びをテレサと一緒にしていたら、何故かジャンヌとマリアの二人だけがここに呼ばれたらしい。
たぶん、テレサの実験か何かで、二人が成果を上げたのだろう。
「マリア……」
ジャンヌが体を縮ませて、涙目でこっち、マリアを見ている。
「大丈夫」
マリアはその手を取って、握り返した。右手だけが、マリアの視界に移って現れた。ちょっと怖い。
そのマリアの小さな手も、小刻みに動いている。
「震えてるな」
「知るか」
グリテは興味なさそうにしても、横目でチラチラと二人を見ている。
『この記憶から、彼女たちの生活は変わっていったんだ』