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第百四十二話「のもの はしっこ」

「いやまて、それはいけない」

「……いけずよの」


 ホムラはこの流れで顔まで近づけてくるので、流石に俺も正気に返った。


「なら、口をあけい」

「こ、こうか?」


 ホムラの機嫌を損ねたくなくて、俺は口をあんぐりと開けた。

 そこにホムラの指が突っ込まれる。

 俺は驚きに肩に力が入った。


「はへひぇ!」

「じっとせい」


 ホムラが指を動かして、俺の口の中をかき回す。何してるんだこれ、エンピツ触った手だよな。

 俺は動けず固まることしか出来なかった。周りの補修生も流石に俺を見ている。


 しばらくして、ホムラの手が止まる。ゆっくりと俺の口から指を離して、涎だらけになったその指を、なんと舐めた。


「えっと、何してるんですか」

「わからんのか、接吻かて」


 絶対に違う。


「ほれ、主も」


 ホムラは理解が追いつくよりも先に、口を開けて俺に示す。

 やれと。

 ……やらなきゃ怒るよな。うん。


「いくぞっ」

「ほぁっ!」


 ホムラが素っ頓狂な声をあげる。

 俺がハンカチで自分の指を拭きつつ、不意打ちで指を入れたからだ。そのまま指を思いっきりかき回す。


「っ……あっ!」


 ホムラは若干苦しそうな声をあげながらも、俺の指からは逃げない。素晴らしい。

 しつこく動かしてから、俺はようやっと指を離す。ホムラの唾液が、糸を引いていた。


「いけずだろ」

「くるしゅうない」


 バカップルだ。すごく、周りに迷惑だ。

 本当にごめんなさい。


「勉強楽しいです」


 本心とは違うことが口から出る辺り、自分が嫌われ物としての本質を見た気がする。



 補修にならない補修が終わって、ほとんどの生徒はさっさと帰ってしまった。

 俺も前の地球じゃ学校はすぐに帰ってたよ。早すぎて本当に学校終わったのか心配になるくらいだ。寄り道をしないって当たり前だよな。

 今になってわかる。学校に帰らない楽しみというのが。


「どこにいきたいかえ」

「体育倉庫か、保健室か屋上」

「わらわに、何をする気かえ?」

「何をすると思ったよ」

「怪談じゃろう、どれも孤独に死んだ娘の話がおるからの」

「ナーイス」


 記憶を共有していると、変なところで通じるな。誘導尋問もほとんど効かない。

 ホムラは背中に両手を組んで、俺の隣を歩いている。が、何かを思いついたのか、俺の左手を取って、先を進み始めた。


「なら、屋上かえ」

「野外なのか。俺と趣味は合わないな」


 さっきから人に見せ付けるし、そっちの人なのかもしれない。

 俺はぐいぐいと強い力で引っ張られる。ホムラは俺の学校の記憶もあるのだろう。会談の場所まで迷わず進み、屋上のドアまで到着する。


「とぅ」

「ワァオ……」


 ホムラは躊躇うことなく鍵を破壊。まあ普通は閉鎖されてるもんな。

 屋上は風が強く、柵も高い。学校に来たからには一度は占拠してみたい場所だ。大体は一度も行かずに終わるらしいけど。


「アオ、うえじゃうえ」


 ホムラはぴょんぴょんして、上を指差す。俺たちが入ってきた入口の建物の上を指差している。

 屋上入口の建物って、整備用の梯子があるよな、マンションとかだとそれだけじゃ登れないように結構上に配置してあるけれど。


「あそこが、学校で一番高かろう」


 ホムラは手を繋いだまま梯子に手を掛ける。流石に登る時は手を離したが。

 俺は後から続く。パンツ見える。


「そこも昇るのかよ……」

「あたりまえかて」


 上にあった給水塔の上にまで乗り始める。蓋が開いてたら水の中に……ホムラならこっから落ちても死なないよな。


「この世界も、わらわのものじゃ!」


 学校の一番上で、両手を広げてホムラは叫ぶ。


「もって、あの世界は取り損ねたんだろ」

「細かいの」


 俺もよじ登るようにホムラの隣に立った。

 給水塔って足場が狭い。ホムラと俺がピッタリくっ付いても、後一歩前に出たら落ちてしまいそうだ。


 ホムラが、俺の左腕に手を回す。なんか狭いところって、いいよな。


「ゆくぞ」

「えお……ぉおおおおおおおおおおおっ!」


 そのまま、ホムラは一歩大きく前に進んだ。

 俺も引っ張られて、給水塔から滑り落ちる。

 飛膜の弦が、波紋を広げた。


「ハハッ……アハハハハハハハハ!」


 ホムラは馬鹿笑いをして、地面にまで高速で向かう。俺の顔は風に当たって、口の中にぶわっと空気が入る。

 そして地面スレスレのところで急上昇して、屋上など豆粒になるくらい、大空へと舞い上がった。


「ち、ちびる」

「小肝じゃのう」

「いや、衝突しなくても慣性で死ぬからな」


 ホムラは俺を抱えてどんどんと空へ昇っていく。空気まで薄くなっている気がする。


「俺さ、落ちる途中。窓の向こうにいた生徒と目が合ったぞ、あんなの絶対トラウマになるって。飛び降りの最期と目が合っちゃうとか」

「人は不便じゃの、好きな時に舞い上がれん」

「減圧症があるからな」


 まだ頭がぐらぐらする。急上昇にシェイクされた体はほぼ酔っていた。

 俺は血の気の失せた顔で、ホムラを恨みがましく見る。


「……? わらわが美しいかえ?」

「この美技にすごい酔いそう……」

「それも構わぬが、どうせなら下を見てはどうかえ」

「……した」


 俺はホムラに言われるまま、下を見た。


「……」

「どうじゃ」

「地平線が。楕円になってる」


 目の前に広がるのは、雑多した世界の景色だ。そこに統一感はなくて、日本の街らしいごちゃまぜの世界。

 たぶん、俺の知らない人間がほとんどだろう。

 俺がこれから殺す。世界なのだ。


「こんなもん見せて、なんになるんだよ」

「不服かえ?」


 俺はホムラの質問に答えられなかった。

 この地球も、昔いた地球も俺にいいことをしてきたわけじゃない。もちろん、感謝していることも沢山ある。だが俺の記憶にあるもう半分は嫌な思い出だ。

 いいも悪いもあって当たり前なんだろう。そして偽者でも、俺の人生のほとんどを過ごしてきた世界に未練が無いわけじゃない。


「こんなもん、見たってな」

「だから、主は器量が狭いのじゃよ」


 ホムラは仕方ないと溜息を吐く。まるで、俺を面倒くさい餓鬼のように笑う。


「アオ。この世界はもう、主のものじゃ」

「なんでそうなる」

「わからぬのか? 殺すというのは、手に入れるということ、そのものに絶対なる刻印を刻むことにほかならぬ。手に入らぬのなら、殺せばいい。愛は何度でもかなえよう。しかし、何者も殺すことができるのは一度だけ」

「すげぇ理屈だな。そいつにとって最初で最期の人間になれるってわけか」

「然り」


 殺してしまえば俺のもの。突飛な理論だが、間違いじゃない。そいつにとっては妻以上に離れられない関係になれる。


「ゆえに、誇るがよい。主はこの世界の最初で最期の想い人よ」

「……」

「そしてその世界が求める純愛を、わらわは一心に受けよう」


 たぶんホムラは、ホムラなりの励ましをしてくれているのだ。

 こいつは元気出せとか、悪くないとかそんなことを言わない。現状を否定したりしない。

 あえて全部をひけらかして、その行動を全肯定する。


 俺は、ちょっとだけ頬が緩んだ気がした。


「ホムラってさ」

「はて」

「もしかして、そのために人類全滅させようとしたのか?」


 俺の返しに、初めてホムラはキョトンとした。意外な質問だったのだろう。

 ホムラは次第に何かを思い出したのか、俺の知らない要素で笑った。言葉の通り思い出し笑いというやつだ。


「ぷっ……くく」

「一人で笑うなよ」

「あーっはははは!」


 ホムラは楽しそうに両手を広げた。

 もちろん、俺はその手からこぼれ落ちる。全身に来る浮遊感を受けながら、後何秒で地面に衝突するか考えてしまった。


「うぉおっ!」

「やはり、主を選んだかいがあったの」


 ホムラも落ちる。たぶんこの状況を楽しんでいるのだ。

 俺は気が気じゃない。ホムラはこの高さからでも死にはしないだろうが、俺は死ぬ。


「は、はひゃく!」

「だがやはり! 想うより想われる。この半身、ままならないものよのぉ!」


 俺が人間だというのを忘れたんじゃなかろうか。

 ホムラは俺のことなどお構い無しに、楽しそうにパラシュート無しのダイビングを続ける。


 ホムラらしい、自分のことしか考えていない、自分だけを最高に楽しませる時間だったのだろう。



 死ななかった。ちゃんと救出された。

 あの、アパートの一室にそのまま直で帰ってくる。空を飛んでいたので他の住人に気づかれかもしれない。フライングヒューマンは日本にいた。

 構わない、どうせ今日までのUMAだ。


「……」

「主、怒るでないわな~」


 俺はふてくされて、部屋で大の字になって寝ていた。目は開いている。

 ホムラはその俺の横で一応、ほんとうに体裁上は謝っている。ごろんと添い寝をしているから、もちろん誠意は伝わらない。


「ほれ」

「くっ!」


 ホムラは俺の頬を突きながら、すねている顔を見て楽しんでいた。機嫌を悪くしないだけマシだろうけど。

 むしろ何が楽しいのか、さらに俺に引っ付いてくる。俺の足をホムラの両足が挟んで――


「うがああっ!」

「喚くでないわ」


 くんずほぐれずでもみくしゃになりながら、ホムラと部屋の中を転がっていく。

 ホムラが本気を出せば、俺なんか完全にサブミッションで固められるだろう。やっぱり楽しんでる。


 この、最初で最期の恋人の一日は、ホムラにとってかけがえの無いものなのだろう。

 そう考えたとたんに、なんだか頭が冷えてきて、動くのをやめてしまう。


「……あと、どれくらいだろう」

「わからぬ。そのようなことを考えていればとうに終わろうて」


 俺が横を向くだけで、ホムラの顔がすごく近くにまで来ていた。

 その微笑みはとても退廃的で、俺くらいなら意識を引き込んでしまいそうなくらいだ。


 ホムラは女の子だ。両性とか言っていたが、俺からしてみたら女以外の何者でもない。ふいに、そんな当たり前の色っぽさに気がついて、そっぽ向く。


「どうしたのかえ?」

「大丈夫だよ。ホムラ、あとやりたいことはあるか?」


 残り時間はわからない。それでも、その時間にすることはホムラのためであるべきだ。

 でもホムラは、そんな俺の期待を裏切るように、意地悪そうにそっぽを向いた。


「主のしとうことが、したい」

「俺の……したいことって。俺のしたい」


 なんだろう。そう考えて、パッと思い浮かぶもの。

 ホムラと一緒に出来るもの。


「俺って、やっぱり屑だと思う」

「知っておる。主は上手なろうて」


 ほんとうに、千年も生きた龍がこんなちょろくていいのだろうか。

 ホムラが、そっと俺の手をふとももに持っていく。



 あれからどれくらいたっただろうか。

 俺もホムラも、少し疲れたのかずっと寝たまま天井をぼおっと見ていた。

 窓の外はもう真っ暗で、電気もつけていない。


 そのせいか、淡い光が窓から照らされてくる。

 月の光だ。


「外に、出てもいいか?」


 その見納めになる月をもっと間近で見ようと思って、声を出した。


「足りぬな」

「足りないって?」

「いや、わらわのわがままじゃ。よかろう、外に出ようではないか」


 ホムラは何気なしに俺の手を取って窓を開けた。飛ぶつもりだ。

 俺はもう今更驚きも反対もしない。誰が見たって関係ないのだ。


 ホムラの蒼い髪が、羽衣のように浮き上がり透明に輝く。俺とホムラの間に重力が無くなったみたいに、空間そのものを浮かせていた。


「あと、どれくらいなんだろうな。時計も見てなかった」

「そう長くも無かろうて」


 ホムラは本当にあっさりと、一生来ないであろうこの時間を少ないと言ってのける。

 俺のそんな考えを見抜いたのか、ホムラは眉をひそめる。


「なにを懸念しておる。どうせあの心の部屋とやらでまた出会えるのじゃぞ。別々の体は無くとも、主とはずっと一緒であろう」

「でもさ」

「龍の時間の概念は人と違う。より長くあることよりも、より大切であることに意義を感じる。たとえ数秒であろうと、わらわにとって嬉しいものであれば、百年の歳月はその瞬きにも満たぬ」

「そっか」


 建前なのか、本音なのか。

 ホムラがどちらの意図でこの台詞を言っているのかはわからない。

 俺は茶化すことも出来ずに、ただ相槌を打つだけだった。


 地上はまだ眠らない。星の光など打ち消してしまうほどの家々の明かりが、空にいる俺たちには星空に見えた。


「……あ」


 俺は地上の光から目をそらして前を向いた。

 そこで、気づいた。


「端っこが……消えてる」


 昼に飛んでいたときにはあったはずの地平線が、無くなっていた。

 ぼんやりと、霞みがかって何も見えないのだ。


「もう、終わりなのか」


 俺はその音も無い侵食に、この地球の終わりを知った。

 遠くからはゆっくりと、実際はそれなりの速さでこの地球を削除する何かが、俺のもとに迫ってきていた。

 たぶん、あれは俺を中心に崩壊しているのだろう。


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