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扉を開けるとそこは不思議の国だった――。そんなどこかで読んだような小説の一節が頭の中をよぎった。
開けた。確かに開けましたけども。ただし、トイレのドアを。
「頭の整理のためにもう一度状況を確認しようじゃないの」
ぼそりと独り言を呟いて目を瞑った。
三月吉日、まだ風は肌寒く桜の蕾もまだ固く閉ざしている今日のこの日はめでたくも高校の卒業式だ。
晴れやかな気分で迎えたかったという皆の期待を嘲笑うかのように季節外れの寒波で雪などちらつく始末。
こんなに祝福されない卒業式ってあるものかしら? 手を擦り合わせながら私、葛城 悠は自分の吐く息が白くなるのを恨めし気に眺めた。
クラスごとに並んで体育館の外で待機。この後式の開始と共に卒業生達が厳かに入場して行くのだけれど。
「やっぱ駄目だわ。トイレ行ってくる」
「はぁ? このタイミングで!? 我慢しなよ……」
「いやいやいや無理っす。だってこれから数時間クソ寒い体育館でジッとしとかなきゃいけないんでしょ? 途中で限界迎えるくらいなら今行く!」
拳を作って力説すれば、友人は半目で悠を睨みながら「好きにすれば?」と追い出すように手を振った。
先に行っとけよ等々、周囲から罵声を浴びせられながらもトイレに一目散に駆けこんだ。
そしてトイレの個室のドアを勢いよく開けるとそこは、私の知っているトイレという固定概念を一切無視した不思議空間が広がっていたのだった。
ドアの奥には何故かお花畑。ピンクやら黄色やら色とりどりの美しい花々が咲き乱れている。
体育館のトイレってどちらかというと汚いというイメージがあるし、実際この学校はそんなにきれいに掃除が出来ている方ではなかった。
だから父兄も集まるこの卒業式に合わせ、負のイメージを一掃しようとしたのか? フローラルな香りと開放感あふれる……いやいやいや、完全に方向性を間違っている! 一人ずつの個室にきちんと区切ってください! でなく
「どこまで続いてるの……?」
見渡す限り花畑。向こうのほうに洋風の建物が見える。まさかこれは最新のCG? 公費で余計なもん作ってんじゃないよ。
それにしても、そろそろ卒業式が始まっている頃だろうに、全く何も聞こえてこない。マイク越しに校長が無駄に長い祝辞を読んだりだとか、普通外まで結構音がもれてくると思うんだけど。
不安になって後ろを振り返った。……あれ? ドアが見当たらないんですけど。私の真後ろにあったはずの、ドアが。
「どーなってんのよーっ!!」
とりあえず叫んでみる。しかし返ってくるのは鳥の囀りのみ。と思いきや
「やっと来たな。ユリスの花嫁」
………。何だこのコメントしづらい男の人は。
突然目の前に現れた男は、ハッキリ言って不審者にしか見えなかった。折角のプラチナブロンドはボサボサ。顔は整っているのかもしれないが長い前髪で半分は隠れてしまっていてよく分からない。ゲームのキャラとかがよく着てそうな黒の長いローブを羽織っている。
ふむ、よし、一つ一つ片付けていこう。
1.ここは女子トイレだよ、お兄さん。
2.学校のセキュリティどーなんてんのよ。不審者入ってきてるぞ! セ●ムしてますか?
3.コスプレ好きなんですか?
4.嫁?
さて、どれからぶつける? とりあえずこれかな。
「キャー変態! エッチ! 誰かぁここに変質者がぁっ」
「…………」
選択間違えたっぽい。お兄さんがすっごい露骨に嫌悪感を顕わにした目で見てくる。いやだってここ女子トイレ(のはず)
くそう。セ●ムの方が良かったかな。それともこんないかにも中二病丸出しのキャラ成りきり屋さんにはツッコミを期待しちゃいけないのか?
初っ端でスベって出鼻を挫かれた私は心が深く傷ついて、これ以上何か話す気になれなかった。
「言いたいはそれだけか? まあいい。来い」
男は私の前に手を差し伸べた。その手ちゃんと洗いましたか? って聞いたら今度こそ怒られるんだろうな。
「どこへよ。私早く式に戻らなきゃいけないんだけど。お兄さんは先生たちに見つかる前にさっさと帰ったほうがいいんじゃない?」
「まだ事情が飲み込めてないらしいな。ここはもうお前が居た場所ではない。見て分からんか? 俺がこちらの世界にお前を呼び寄せたんだ。望みを叶えるためにな」
「はあ?」
「俺に力を貸せ。そうすれば元の世界に返してやる」
えーとえーと、集中しろ私の脳! フル回転させろ私の脳細胞!! ファイトーッ!
つまりこのお兄さんの中二発言を、もし仮に実際に現象として起こっている事と過程するならば。
「ここは学校のトイレではない。どころか世界そのものが私がいた所とは違っていて、あなたの望みを叶えなきゃ元の場所には帰れないってこと?」
「そうだ」
なんかそんな設定のマンガ読んだ事あるぅぅ! なんだっけ、こういうの何ていうんだっけ? あ、そうだ。
「異世界トリップ!!」
思わず頭を掻き毟った。超オタクで腐女子な友達がいて、その子経由で色々知識を身に着けてしまった私は知っている。知識はあってもあくまで二次元の話であって現実でそんな、異世界だなんて馬鹿らしい。しかもこれ見よがしにファンタジーな格好した人に言われたら余計に信じられないわ。
けれど実際にここはお花畑なわけで。土を踏んでる足の裏の感触も、鼻をくすぐるような花の香りも作り物とは思えない。
ほんとに? もしかして私、アリスインワンダーランド的なファンタジー体験中? さしずめこの人はチェシャ猫か、ウサギか。
「ふっ、ふざけないで!! 勝手につれてきといて望みを叶えろだぁ? 人に頼みことをするときにはそれなりの態度をとるべきじゃないの!? お菓子の入った箱の底に帯つきのものが入っていたり、渡された封筒がやけに分厚かったり。せめて敬語を使いなさいよ敬語!」
間に入れた例えに偏りがあったことを深くお詫びいたします。私はテレビの見すぎです。
陳謝しつつ、しかし声を大にして言いたい。
「そんな事よりねぇっ、私はトイレに行きたいのよっ!」
「……ギャアギャアとうるさい奴だな。用を足したいならそのへんですりゃいいだろ」
くいっと、見事なお花畑を指差す。出来るか! そこまで女捨ててないわ!!
「面倒臭いな」
男は溜め息とともに私に近づいてきた。警戒して身構えた私の片腕をいとも簡単に掴むと、空いた方の手を横に弧を描くように振った。
パリン――
ガラスが割れるような音がした。耳が音を拾ったと同時に、何かの破片がパラパラと頭上を降り注ぐ。
透き通るような蒼、突き抜ける白。輝くそれらが綺麗だと思ったのは一瞬の事。
空を見上げて唖然とした。降ってくるガラスの欠片のようなそれは、剥がれ落ちた空の破片だった。欠損した空の向こうに広がるのは闇。ただただ何もない空間だった。
「きゃっ!」
足元がぐらついたかと思うと、今度は同じように地面も崩れ始めていた。
逃げようともがいても男に腕を拘束されたままでは動けない。もうお伽噺の中のような美しい光景は見る影もない。
どんどんと真っ暗闇が広がっていく。逃げる場所なんてなかった。
男を振り仰いだ。すると彼は私と視線が重なるのを待っていたかのようにジッとこちらを見ていた。
にやりと口元を歪めて、笑ったのだと思う。可笑しかったわけではないんだろうけど。
彼は掴んでいた私の腕を力いっぱい引いて、身体ごと引き寄せてきた。
「ちょ、なにす――」
抗議は途中で途切れた。ついに私達の立っていた所も崩壊し暗闇の中に落下したのだ。
ふわりと身体が宙に浮いたかと思ったら重力に引っ張られるように猛スピードで落ちていく。
「ぎゃああああっ」
「うるさい」
「だ、だって、だって!」
この状況ってロープなしのバンジージャンプ、パラシュートなしのスカイダイビングじゃない!
さっきまで必死で離れようとしていたのに、今度は私から首に抱き着いて男に縋りついた。
怖いんだもの! ジェットコースターでは絶対に手すりから手を放せない派なんだよ私は。手を万歳させてる奴等の気がしれない。
さり気無く男が私の腰に腕を回してるのにちょっぴり安堵したのはこの際気付かなかったふりをする。
ていうかこれどこまで落下するの?
「ユリスの花嫁」
「な、なによ!?」
私はそんな名前じゃないわよって訂正する余裕もない。
「時間をやる」
耳元で囁くように喋る男の声に肩が跳ねた。
「理解しろ、お前が成すべき事。それまではあいつにでも庇護してもらえ」
「えっ!?」
くっつきそうな程近くで見た男の瞳は美しいガーネット。
そして突然。男は私を突き飛ばした。
完全に油断していたせいもあって首に回していた腕をあっさり解いてしまった私。もう一度彼にしがみつこうと伸ばした手は空振って。
どういう原理か落下スピードが遅くなった男を置いて一人でどんどん急降下していった。
「ふっざけんなコスプレ野郎ー!」
精一杯の罵声はちゃんと彼に届いただろうか。
どこまでも続くと思われていた暗闇は、何の前触れもなく途切れた。
さっきのお花畑の時同様、パッと瞬く間に景色が一変。暖かな日差しに包まれ雲一つない空模様が視界いっぱいに広がる。
空? 何気なく手を翳す。すると目には何も見えないのに手の平が何かに触れた。堅い透明な壁が私の周りを囲っていた。
何だろうと色んな方向をペタペタ触っていて、自然と視野に入ったもの。レンガや石でできたような建物が並ぶ街が眼下に広がっていた。
わぁヨーロッパの古い町並みって感じ。なんて悠長な感想が浮かんだのは、コンマ一秒程度だ。
見る間に距離を縮めるオレンジや緑の屋根に恐怖が先行する。
「ぎゃあああっ! 死にたくないーっ!!」
そんな願いも虚しく、街の一角にある大きな建物に突っ込んだ。
咄嗟に身体を丸め両手で顔を覆う。綺麗なステンドグラスに体当たりして派手な音が鳴り響いた。
それでも勢いを失わず建物の下に落っこちて行った私。このまま床にも激突するんだろうな、でもこの壁があれば大丈夫かな、とか呑気に思った。
色々ありすぎて精神的にも体力的にも限界を超えていて朦朧としていたんだろう。
だけど実際にはそうならなかった。
この建物には人がいた。その人は大きく目を見開いて私を見上げ、受け止めるつもりなのか両手を差し出してきた。
その瞬間。
私を覆っていた透明な壁は泡のように掻き消え、身体がふわりと風に乗るように宙に浮いた。それもまた一瞬の事で、私はすとんと足から地面に着地した。
急に肩に荷物を追っているようなずっしり感に耐えられずによろめく。ああ、お帰り重力、ただいま二足歩行。
長時間落下し続けていたから分らなかったが、私の足は震えて産まれたての小鹿のようにガクブルしていて、腰も抜けてしまっているのか力が入らない。
前のめりになった身体を正面から受け止めてくれたのは、さっきも手を差し出してくれた人だった。
見上げた先には、綺麗な綺麗な朱金色の瞳。
それだけを確認して私は意識を手放した。