だいにしょー。その2
「さて……朝メシだが」
トイレの後に手を洗うのすら一緒にやった二人は、居間のテーブルの前に立っていた。
「わたし、もうなんか食欲ない……」
恥ずかしさを通り越して落ち込んできたのか、ベコベコにへこんでいるメリメが死にそうな声を出した。真っ黒なオーラを出している。ついでに口から魂も。
「でも俺は腹減ったし。えーと、どうすっかな……とりあえず昨日の残り物で」
一輝は暗黒状態のメリメを尻目に台所に立つと、鍋に火をかけた。
鍋の中には、昨日一輝が作ったカレーが残っている。
「一晩おくと美味いんだよな、カレー」
白い皿を出して、そこにどんと白米を盛る。
一輝はパワーモーニング派である。片手なので、少々作業しにくいが。
「あ……。いいにおーい……」
「だろ? お前も食うか?」
カレーの香ばしい香りがただよう。ぐう、とメリメの腹が鳴った。
「あう。でも、お腹すいてきた。……やっぱりわたしも食べたいな」
「よし、食え」
一輝はもう一枚皿を出すと、少し控えめにご飯盛ってやる。鍋からはポコポコと心地よい音が聞えてきた。おたまですくって、ほかほかのご飯にカレーをかけて。
ついでに冷蔵庫から、らっきょと福神漬けを出してできあがり。
さっきまでの空気はどこへやら、メリメが嬉しそうな声を出した。
「わ、おいしそー」
「温めただけですけども。とりあえず食おうぜ」
一輝はスプーンを二つ出すと、それぞれの皿の前に置く。二人はとなり合わせに椅子に座った。
「わあ、いただきまーす」
「はいめしあがれ。んじゃ俺も、いただきまーす」
しかし。
そこで、またも二人がピタリ、と止まる。
「……」
「……」
お互いにスプーンを持とうとした手が、お互いの手に引っかかって宙に浮いている。
「……。俺、右利きなんだけど」
「……わたし、左利き……」
「「……」」
スプーンが。
持てない。
「食 え ね え」
一輝から間抜けな声が出た。
メリメがまたも、どーんと沈み込む。
「なんだよぅ、もー……」
確率的には四分の一で、不運にも二人とも利き腕が使えない。
「……ま、まあしょうがねえ。逆の手で食えばいいわけだし」
気を取り直して、一輝は左手でスプーンを取った。一応ながら食べられないというわけではない。
「食いにくいな……。カレーでまだ良かったよ。スプーンじゃなく箸だったら絶望だった」
「むー。不便だよぅ。おいしいけどさぁ」
ちょっと不器用に、二人はカレーを口に運ぶ。
「で、だ。メシはなんとか食えるからまだいいとして、風呂となるとどうにもなんねえだろうからな。やっぱこの手はどうにかしねえと」
「もぐもぐ。そーだねぇ。先に早いとこすぱっと外さなきゃ、いつまで経ってもイッキに彼女だって作ってあげらんないしね」
「いや、それは別にその願いは叶えんでもいいんだけどな……。とにかく今日中にどっかでイモリとコウモリ買って、お前の先生を召喚しないとな」
「いもりじゃなくて、とかげだよぅ。しっぽだけでもいいんだけど。魔法具店とか、ニンゲンの世界にはないの?」
「あるわけないだろそんなもん。少なくともそんな怪しい店、俺は知らねえし。ペットショップだろ、やっぱ」
一輝の記憶では、駅前にあるペットショップには爬虫類のコーナーがあったはずである。コウモリを見た覚えはないが。
「トカゲはなんとかなるな。コウモリもまあ、ないならないで扱ってる所を店員に聞けばいいかな? 隣の駅にも、たしかもう一件あったと思うし。だけど……」
一輝は咀嚼しならが、繋がった手をちらりと見た。
「これどうやってごまかすかな……。道ばた歩いてたら明らかに変だし」
どう見たってふつうに手をつないでいるようには思えない。知らない人に見られたら、かなり不審な目で見られることうけあいだろう。
「トリック絵じゃあるめーし……。タオルでも巻くか?」
「それでいいんじゃないの? 他の人なんて、あんまり見てないよ。むぐむぐ」
「うーん。まあ、大丈夫か? しかしそれにしても、俺が大学生でまだ良かったよな……」
ふと、一輝は仮定の話を考えた。もし、自分がもっと年上だったら。
「これがスーツ着た社会人とか、下手すりゃオッサンだったらかなりヤバかったかもしれん。どう見てもお前はチューボー以下にしか見えないし」
そう言って、メリメの方を見た。
一輝もそれなりに大柄なほうだが、もしこれで自分が老けたツラしたオッサンだったらそれだけでもうかなり危険信号である。わりと幼い容姿のメリメとお手手つないで駅前を歩いている姿は、どう見ても援助と名のつく不純な目的そのものだ。街の平和を守る屈強なポリスメンに呼び止められ職務質問を受け、任意同行の末ブタ箱行きになるであろう。
「なあ。もし警官に呼び止められたりしたら、その時はフリしろよ? たぶん大丈夫だと思うけど」
「もぐもぐ。フリって、なにが?」
「だから、妹のフリでもしろってんだよ。腹違いのハーフとかなんとか言えば、通るかもしれん。ちょっと苦しいが。平日だし注意されるかもしれんから、一応な」
「むぐむぐ。だれが?」
「だからお前がだ」
「ハァ? わたしが? なんで?」
「なんでって。ちょっと詳しい話を、とか言われて交番連れて行かれたら面倒だろ。この手を見せたら大事になりかねんし」
一輝の言葉にメリメはちょっと考えるように目線を天井に向けると、ごっくん、と口の中のものを飲み込んでから言った。
「ふーん、なるほどねー。じゃあ、思いっきり大声上げてやろ。たすけてーろりこんだー、って」
そうしてニヤッ、っと口の端を歪める。
「はあ? な、なんでだよ。アホかお前」
「ヘッ、あほって言うやつがあほなんですぅー。わたしのトイレのぞいた罰だもん、叫びまくってはんざいしゃに仕立て上げてやる。ケケケ」
悪魔っぽい声で笑う。メリメはまだトイレの件を根に持っているらしい。別に覗いたわけでもなく、一輝のせいでもないのだが。
「しょーがねーじゃねーか。しかも俺、音しか聞いてないぞ? 恨まれる筋合いがないんですけど」
「音とか言うんじゃねー、ばか。ともかくひどい目にあわしてやるんだもん。いやだったらごめんなさいメリメ様ーって言って、今後わたしに敬語使って? ね?」
「はあ? 敬語って。なに調子くれてんだお前」
「降伏するなら今のうちだよー? ぬっふっふ。あとはそうだねぇ~、出かけるんだし、てはじめに服とかい~~っぱい買って欲しいかにゃー?」
「は、はあ?」
「おさいふにはいくら入ってるのかにゃ? ねえねえ、どーなのかにゃー」
意地悪そうににやにや笑いながら、メリメは一輝の肩を突いてくる。
「……。なにがにゃー、だよこのクソガキ。ははーん、さてはお前バカだな?」
「へー、いい度胸じゃーん。じゃ、悪魔の恐ろしさを教えてやるもーん。って、ひゃっ?」
「……」
ぐいっ、と繋がった手を一輝に引っぱられて、メリメが少しふらついた。
「な、なにするのよぅ。食べてるのに、急に引っぱったら危ないじゃん。……あ」
自分の境遇を少し忘れていたらしい。手を見て少しぽかんとする。
「俺とお前は繋がってるんだぞバカ。忘れるなよバカ。ブタ箱に送られる時は一蓮托生でお前も一緒だバカ。わかったかバカ」
「ば、ばかばかうるさいなぁ、もー! うー、しまった忘れてた……むぐぐ」
「今のところ文字通り一心同体なんだよ俺とお前は。くれぐれも相手をハメようとはするなよ……お互いにな」
念のため一輝は釘を刺しておく。人前で変なことを騒がれたら、そろってお巡りさんのお世話になる以外に結果はないのだ。片方だけ被害なしというわけにはいかない。
「とりあえずこれ食ったらさっさと出かけるぞ。下手な真似だけはすんなよ、頼むから」
「うう~、くっそ~。立場逆転でどれいゲットかと思ったのにー」
「……恐ろしいやつだなお前は……。あ、そういや悪魔か、一応」
思い出してみれば、メリメは悪魔である。大道芸しか使えないのではあるが。
(悪魔っつーかただのコアクマなガキだな。大人にたかる系の)
などと思いながら、一輝はカレーをほおばった。
玄関近くの洗面所の前で、一輝がうんざりとした声を出した。
「まだかよ。早くしろよ」
「え、ちょっと待ってよぅ。あとちょっと」
メリメが鏡を見ながら、なにやらごちゃごちゃと出かける準備をしていた。手には化粧品を持っている。
「なんで化粧品なんて持ち歩いてるんだよ?」
メリメの手にある化粧品は、腰につけていた小さめのポーチから出てきたものだ。それで、あるかないかの薄い化粧をしていた。
「え、だって召喚なんてされたら、何日もかかることもあるって学校で聞かされてたんだもん。持ってたらいざという時に便利でしょ?」
「……それだったらふつう、非常食とか入れとくべきじゃないか?」
「なんでよ。お腹は我慢できるけど、おけしょーは我慢できないでしょ? わかってないなぁ」
「俺にはお前の考えが分からん……」
そういうわけで、一輝はさっきからとなりで突っ立ってずっと待たされていた。
待っている間にゲームでもやっていられればいいのだが、残念ながらこの繋がった手ではそういうわけにもいかない。
「もう、いいだろ。あんま変わんねえよ」
「えー、でもー。なんか変じゃない?」
「どこの場所がだよ……」
一輝には一体どこが気に入らないのかすら分からない。
そもそも、例えば電車の中で化粧直しをしている女の人もそうだが、そんなに細かく顔を気にする感覚自体がいまいち理解できない。一輝の頭などぼさぼさである。
「つーかそれより、その頭の角とか羽はどうすんだよ? 仮装で通せるかもしれんけど、やたら目立つぞ?」
メリメの外見はつい振り返って見てしまうくらいに美少女というのもあるが、それより頭の脇にある大きな巻き角や背中の羽、お尻の尻尾がある。そのせいで、このままだとひどく人の目を引くのは間違いない。
「あ、これ? だいじょーぶだよ。せーの、よいしょ!」
メリメの掛け声で、ぽん、と魔法のように角が消えた。ついでに背中の羽と尻尾も見えなくなる。
「えへへ、便利でしょ? しまえるんだ、これ」
「ほー、すげー。消えた」
「へへん。もっとわたしを褒めたたえてもいいよ? すごいですメリメ様ーって」
「……そういうことはできるんだな。手は外せないのに」
「う、うるしゃいなぁ! なんだよもー」
メリメは調子に乗りやすく、しかもからかわれたらすぐ怒りだすタチであるらしい。コロコロとよく表情が変わる。
「うーん……なんか、よくないなぁ」
まだ気に入らないのか、ちょいちょいと顔をいじり続ける。
「もういいって……。さっき他の人なんてあんま見てない、って自分で言ったばっかじゃねーか。ほら、もう行くぞ」
「うー、でもぉ。だって片手だからやりにくいし。やっぱりうまくできないなぁ……」
「変わんねえ、って。それでも可愛いから気にすんな」
面倒くさそうに一輝が言うと、横目にメリメがこっちを見てきた。
「かわいい?」
「ん? ああ可愛い可愛い」
「んー。……そう。じゃ、いいや。行こ」
「うおっ? なんだよ、急に動くなよ」
「ほら早く。もたもたしないでよぅ」
打って変わって、メリメは納得してしまったらしい。
(適当じゃん……ずいぶんこだわってたくせに)
やはり一輝には、そのへんの感覚がよく分からない。
玄関まで来ると、一輝は靴を突っかけるようにしてはいた。
「よし、じゃあさっさと買いに出かけて……お前、靴どうすんの?」
「だいじょーぶだってば。ちゃーんと準備してるもん。はーっ!」
メリメが叫ぶと、どろん、と足元にブーツが現れる。
「……なんか、さっきから呪文とか全然ないな。気合いで出てくるって……」
「え? だってこれ、魔法とはちょっと違うし。あらかじめ、向こうにあるマジックアイテムの物入れに、こっちに移動させたい物を入れておくの。そうすれば、好きなときに出したりしまえたりするんだよ。角も体の一部だけど、応用でできるし」
「向こう? ああ、魔界とかそのへんか。便利なもんだなぁ」
まんま四次元ポケットみたいでうらやましいな、と一輝は思う。
「えへへ、便利なもんでしょー。よいしょっ、と」
「まあいいや。靴があるんなら……ん? なにしてんだ?」
「よいしょ、うんしょ……」
ふとメリメと見ると、ブーツに足を差し込んで、なにやら四苦八苦している。
そのうちバランスを崩したブーツが、横に倒れてしまった。
「……むり。これ、はけないよ」
早くも諦めて、てん、とブーツを蹴る。
メリメのブーツはちょっと長いハーフブーツである。しかもけっこう細くできていて、片手では簡単にはくことはできない。
「ああ、そりゃあな。立ちながらじゃちょっと厳しいか。じゃあ座って……なんで俺に向かって足を上げる?」
玄関に腰を下ろしたメリメが高々と足を持ち上げている。
「はかせてよ?」
変なことを言い出した。
ちょっと偉そうに、軽くふんぞり返っている。一輝の額にピシッと血管が浮いた。
「お前なめてんのか? なにがはかせてよ、だよ。何様のつもりだこんガキャ」
「だってこれ、片手じゃはけないんだもん。だからはかせてよ。どれいのごとくー」
「ムカつくなこいつ……。やだよ、自分でなんとかしろよ」
さすがにはかせるというのはなんだか屈辱的なので、一輝は拒否する。しかし、メリメがぎゃあぎゃあと文句を言いはじめた。
「なんでよ、はかせてよぉ! でないと出かけられないじゃん! じゃあ、手伝ってよ!」
「やだって。はけないなら、他の靴出せよ。あるだろ? だいたいこの季節にブーツは暑いだろうし」
一輝の提案に、しかしメリメは首を振る。
「だ、だって、サンダルはかかと折れちゃってるんだもん! だから、ブーツだし」
「タイミング悪りいな。でもローファーかなんかあるだろ? 簡単にはける奴」
「う……あるけど、でもマジックアイテムの中に入れてない……。入れ忘れちゃった」
「なんだよそれ。ったく、しょーがねーな」
一輝は靴入れを開けると、サンダルを出してメリメの前に置いた。
「ほら、じゃあこれはけよ。これでもいいだろ」
「えーーーーっ!? これ、サンダルはサンダルでもビーサンじゃーーんっ!?」
目の前に置かれた青いビーチサンダルを見て、メリメが嫌そうな声を出した。ばたばたと足を暴れさせて抗議する。
「なんだよ、ビーサンを悪いみたいに言うなよ。ビーサンはいいものだぞ」
「やだよぅっ! だって、わたしのカッコと全然合わないじゃーんっ!」
メリメの服装はゴシックパンク、いわゆるゴスパンと呼ばれるものだ。上は黒のキャミソールに、チェックと黒の二段になったティアードスカートと黒いベルトをしている。これで安物の真っ青なビーサンはちょっとバランスが悪いかもしれない。
「ちょっと出かけてくるだけだからいいだろ。すぐ帰ってくるし」
「やだやだやだ! やだもん! ブーツ、ブーツがいい! はかせて!」
「ワガママ言うなよ……。今ぐらいしょうがねーじゃねーか。ある意味非常時なんだぞ?」
「やだったらやだ! でないと出かけないもん! おそと行かないもん!」
「行かなかったらいつまで経っても、この手を外せねえよ。永遠にこのままだ」
「ビーサンはくぐらいならそれでもいいもん! やだったらやだもん! やだやだやーだぁ!」
メリメが子供のように駄々をこねはじめる。
一輝ははあ、とため息をついた。
「あーもううるせえな。分かった、分かった。はかせりゃいいんだろ。ほら、足を出せ」
しかたなく、一輝はしぶしぶメリメのブーツを手に取る。
「ほら、俺だって片手なんだからそっち持って引っぱれ」
「うん。よいしょ、うんしょ」
「足首ぐらぐらさせんな。ふんっ。……で、もう片方も……」
一輝はブーツをぐっと押し込む。メリメがぐいぐいとブーツを引っぱる。
少々時間はかかったが、二人はなんとかメリメの両足にブーツをはかすことに成功する。
「んで、最後にここの靴ヒモを結べば……っておい」
そしてまたもや、一輝の手が止まった。
「? どしたの? 結んでよ」
「いや……だって。このヒモ、どうやって結ぶんだよ?」
蝶結びが。
できない。
「片手で蝶結びって……無理じゃねーか。そんなA級難度できるわけねー」
「え!? あ、そか、片手だもんね。ど、どうしよ?」
身の回りのものというのは、どんなものも基本的には両手を使えるはずの人間を想定して設計されているのである。
衣服も靴も、紐の結び方さえも例外ではない。
「本当にことごとくめんどくせーな……。とりあえずこうして、そっち持ってろ。それで……うん? なんだこれ」
メリメに手伝わせて結びはじめてみたが、普段ごく自然にやっているのとはまったく勝手が違う。一輝の頭がこんがらがりはじめる。
「……分からん。ちょっと待て、これがこうなって……あ、ちげえ。ええと」
「あ、あれ? これじゃ固結びになっちゃうよぅ」
「分かってる、分かってるって。あー……よし、これをこうすればそれっぽく」
少し変な蝶結びもどきができた。メリメが不満げにする。
「なにこれ? ちょっと変だよぅ」
「大丈夫だって、そこまで誰も見てねえよ」
逆側も似たような結び方でなんとかごまかして、やっと靴をはかせる作業が終わる。
「ほれ、終わり。立ってくれ。で、最後に」
一輝はポケットに入れておいたスカーフを出すと、メリメとの間にある繋がった手にかぶせてギュッと縛り、見えないように隠した。
これでようやく外出の準備が整った。
「少し出かけるだけなのにめんどくさすぎる……。何もしてねえのに疲れたよ」
うんざりしながら一輝はつぶやく。
「よし、もう行くぞ。はあ」
「あっ、ちょっと待って。変じゃないよね?」
手を引く一輝を止めて、メリメは玄関の姿見で自分の格好をチェックしはじめる。
「もういい加減にしてくれ……! 一日が終わっちまうよ。行くったら行くんだ」
「わっもう、引っぱらないでよぅ。ちょっとは人のことも考えてよ」
「俺のセリフだよ。どんだけ待たせんだ」
二人は連れ立って、玄関を開けて外に出た。
まだ朝だというのに、早くも夏の強い日差しが目に刺さる。蝉の声が喧しい。
「今日も暑くなりそうだなあ」
歩いて、一輝の家がある三階から一階に下りるためにエレベーターホールへと向かう。このマンションから駅まで歩いて、だいたい十五分程度といったところだ。
と、その時。
『お母さん、なんで起こしてくれなかったの!?』
後ろから、誰かの声が聞こえてきた。
「ち、遅刻、遅刻しちゃう!」
一輝の家の隣から、ドアが開いて女の子が飛び出してくる。
髪をお下げにして三つ編みにした、メガネをかけた少女だった。どたどた騒がしく、通路を走ってくる。
「いけない、もうこんな時間だわ! ……あ、いっくん?」
少女が一輝に気づいて、立ち止まった。
「お、雪子じゃん」
少女の名は、華院雪子という。
年は一輝より二つ下の17、お隣さん兼幼馴染みであり、一輝は小さい頃から知っている女の子だ。
「おはよー。遅刻か?」
「お、おはよういっくん。い、いっくんも遅刻しちゃったの? って、なんでのんびりしてるの? あれ、カバンは? 大学、休みなの?」
「ああ、俺今日サボるからいらねー」
「えっ!? だ、だめよ。単位だってあるし、ちゃんと学校行かなきゃ不良になっちゃうわ。……え、だ、誰?」
「え?」
「その、後ろの女の子は……?」
雪子が一輝の後ろを指差した。メリメに気づいたらしい。
「え……。あ、ああ。こ、こいつは、その、なんだ。えっと」
正直に悪魔と答えるわけにもいかず、思わず一輝は言いよどんだ。
「外国の、女の子? 中学生? ど、どうしてこんなところで一緒に……?」
「いや、その。ちょっとな、親戚の子を預かって」
「し、親戚? いっくんの親戚って、おじさん一人しか……? それに、その子、外人じゃ……?」
「う……いやその」
しまった、と一輝は思った。雪子は幼馴染みだけあって、一輝の家族や親類関係をよく知っている。
メリメがこっちを見上げて聞いてくる。
「ねえ、ねえ。そのメガネの人、だれ?」
「ん、ああ、俺の幼馴染みでな、雪子って言うんだ。幼稚園から高校まで一緒でな。年は二つ下なんだけど……」
「ふーん」
「いっくん、その子誰なの? 親戚って?」
雪子がいぶかしげな目を向けてくる。
「あ、いや、違うんだ。ホームステイ、ホームステイってやつだ。おじさんの所にホームステイしてる子が、少しの間だけウチにな。ほら、俺のおじさん写真家だから、世界中色んな所に出かけて留守にするだろ?」
「ホームステイ……? ふつう、大学生とかじゃないのかしら? それに、いっくんのおじさん独身だったし、女の子がそういう家にホームステイって……?」
キラリ、と雪子のメガネとおでこが光る。
「こ、この前、おじさん結婚したんだ。結婚……そう、外人と。外人の人と……南米系の。だから、そういうツテというかアレで、この子がホームステイに来てだな」
「え、で、でも、いっくん……? ……あっ。その、手」
「え? あっ!」
スカーフで巻いて隠していた、繋がった手に気づかれた。急いで後ろに回して隠すが、もう遅い。
「ち、違う。違うって、これは、その」
「……」
雪子がうつむいた。かばんを抱えて目を伏せる。
誤解されている。嘘をついてごまかして、学校をサボって仲睦まじくお手手繋いでどこかにお出かけ、と思われているらしい。
「いや、違うぞ雪子。誤解だ、なんというかそういう、雪子が思っているような関係じゃないんだ俺たちは。これは止むに止まれぬというかだな」
「……あの、ね……?」
ぽつり、と雪子がつぶやいた。手がかすかに震えている。
「……そ、そんな、と、年下の……!? ううん、ご、ごめんなさい。で、でも、いっくんが、ね? その、どの女の子と、どういう関係になっても、わ、私は……、私は、何も、言う権利なんて、ないけど。そ、それは、いっくんの、じ、自由だもの。でも……」
「いやあのその」
「で、でも、学校をさぼって、女の子と遊びに行くっていうのは、私、ダメだと……思うの。だから、あの、せめて学校はちゃんと、行かなきゃ……」
「雪子違うって違います違うんです」
なんだか気まずい空気が広がる。
なぜだかものすごく気まずい。悪いことしてないのに気まずい。
一輝はロリコンではないのだが。むしろ、ムチムチボインな大人の女性の方が好みなのであるが……。
そんな一輝の隣で、メリメが首を傾げた。不思議そうな顔をして言う。
「ねえ、ねえイッキ。この人、ひょっとして勘違いしてるの? それになんで、わたしの正体隠すのよ? 言っちゃえばいいじゃん?」
「ちょ、ちょっと黙ってろ。余計話がこんがらがりそうな気がするから。つーか、お前それは隠さなきゃダメだろ」
「別にいいんじゃん? わたしは構わないし、先生にも隠さなきゃだめ、なんて言われてないよ?」
「いや、そういう問題でなくて。俺の脳が疑われるだろうが」
「だって本当なんだからしょーがないじゃん。ねえ、ユキコ? っていうの?」
メリメが声をかけると、雪子が少しだけ顔を上げた。
「え……? な、なにかしら」
「だからー、たぶんユキコは勘違いしてるよ? わたし、こいつとそんなんじゃないし。てゆーかそういうふうに思われるの、さいこーにくつじょくだし?」
「え、え?」
「……それはそれでムカつくが……」
一輝がつぶやく。たとえ対象外の子供でも最高に屈辱とまで言われるとちょっと傷つく。
「え……。違う……の? いっくんの、その……ガ、ガールフレンド、じゃないの?」
「うん。だからね? わたしはこんなのとそんなんじゃなくて、えーと、どこから言えばいいかな……うーん」
メリメは少し考えるように、宙を見上げる。
そのうちいい説明の仕方が浮かんだのか、ぴっと指を立てて得意げに言った。
「あ、そうそう。昨日の夜、こいつと繋がっちゃったんだ」
……。
「つな……が……?」
「うん。昨日繋がっちゃったの。困ったよぅ、もー」
「な……? え……? あ……?」
「んもー、がっちりしっかり? 完全に? 来たばっかりなのに、ビックリだね」
「つな……? 繋がって……? ま、まま、まさか、それって……!?」
繋がる、というフレーズに雪子の顔が一気に真っ赤になり、それからあっという間に真っ青になった。わなわなと震えはじめる。
「繋がるって……あ、ああ、繋がるって、そういう……!? そ、ん、な……!?」
「ん? あれ。どしたの?」
メリメがぽかんとした顔をする。一輝がツッコんだ。
「バ……!? バ、バカ野郎!? いきなり何言ってんだお前!?」
「え、なんで!? なんでイッキが怒るの? 本当じゃん」
「本当じゃねーよ! いや本当だけども!? 本当だけども、どんだけ話すっ飛ばしてんだよ!? ちょっと待てや!」
「だ、だって。わかりやすいよーに、だいじぇすとから説明したほうがいいかなって……?」
「何がダイジェストだよ、意味が変わってんだろーが! ちょ、ちょっと待ってくれ雪子!? 違う、違うんだ!」
一輝は弁解しようとするが、雪子は下を向いてぶつぶつと何かをつぶやいている。目には涙がにじんでいた。
「そう……そうなのね。ガールフレンドなんて、ものじゃないのね。……こ、恋人、って言いたいの……」
「うおおい!? 違う、聞けって!? 聞いてくれ!? 雪子!?」
「っ……! わ、私、出すぎたこと言って、ごめんなさいっ!」
「お、おい!? ゆ、雪子ーー!?」
一輝をよけて、雪子は階段の方に走り去って行ってしまった。
その場には一輝とメリメが残される。
「……なにあれ? どうしたんだろ?」
「お前なあ……! なんかすごく誤解されたろうが……! わざとか? わざとなのか!?」
「?? え、なにが? わけわかんないんだけど」
「分かってねえのかよ! 天然でかよ!?」
メリメはどういう誤解をされたのか気づいていない。
ベッドがどうだとかわめくくせに、昨日の夜に繋がった、から第三者が思い浮かべるものがぱっと分からないらしい。
一輝はがっくりと肩を落とした。
「お前が来てからろくなことがねーよ……。俺の日常生活どころか人間関係まで破壊する気か、悪魔かお前は……。あ、悪魔だったなクソォ……!」
「な、なんだよぅ。さっきから変なの?」
「も、もういい……。さっさと行くぞ。とにかく、ペットショップだ。これ以上被害が拡大する前に早く外さなければ……!」
絶望的にうめきつつ、一輝はよろよろと歩き出した。