だいにしょー。その1
ジリリリ、と目覚ましの音が室内に響いた。
毛布の中から飛び出した手が、ばしり、とひっぱたいて時計を黙らせる。
「……うるせー。……もう朝か」
一輝は目をこすりながら、むくりと起き上がった。夏の朝を告げる、気の早い蝉の声が聞えてくる。
「ふあーあ」
大きくあくびをして、一輝は半分寝ぼけたままベッドから降りようとした。
ふと、何か甘ったるいような匂いが鼻をついた。
そして、右手が重い。どこかに引っかかっているような、妙な感覚。
「なんだ? ……って、うおおっ!?」
横を見てみると、金髪の美しい少女が目をつぶって、すやすやと眠っていた。どきり、と一輝の心臓が高鳴る。
「な、な、な!? ……あ。ああ、そうだ」
思わず叫びそうになったところで、昨日の出来事が一輝の脳裏に思い起こされる。
「そうだったな。はあ……」
大きくため息をついて、右手を眺めてみた。
「はあーあ……。やっぱ外れてねえか……」
寝ればなんとかなってないかな、などと考えてみたりもしたが、やはりそんなに都合のいいことは起きていなかった。
昨日と何も変わることなく、一輝の右手はやはり、隣で眠る悪魔少女の手にしっかりと接続されたままだ。位置が重なって、お互いの手のひらからお互いの指が飛び出している。
「なんなんだよホントに……ちくしょう」
朝っぱらからどんよりとした気分になりながら、一輝は手の先にいる少女を見た。
目覚ましの音にも一輝の声にもまったく気づく様子はなく、メリメはぐっすりとよく眠っていた。半開きの口の端からはだらーん、とよだれを垂らし、なんとも幸せそうな暢気な寝顔である。
「ピクリともしねえなこいつ。つーかなんで寝てんだよ、起きてるんじゃなかったのかよ。しかもひでえ寝顔だし」
油断しまくった寝顔を見つつ、一輝はメリメの肩を揺すった。
放置して自分だけベッドから起きてもいいのだが、手が繋がってる以上それはどうしても不可能である。起きるとなると、メリメも起こさなければならない。
「起きろ、ほら起きろー。メリメさーん、朝ですよー」
「んにゃ……ふにゅ……? うるしゃいなぁ……う~」
「いいから早く起きろっての。俺が起きられねえだろうが。ほら、おーい」
ちょっと強めに揺すると、頭をふらふらさせながらメリメが体を起こした。寝ぼけた目できょろきょろする。
「んん~……? あれ、朝だ……、なんで?」
「なんでって言われても。昨日、いつの間にか寝たからだろ」
「え、あ、そか、わたしあのまま……。……ってえええ!? だ、だだだだれ!? だれ!? なんでわたしのベッドに!? きゃあーーーーっ!?」
「は!? いや、お前何言って……」
「へんたーーーーーーーーいっ! いやーーーーーーーーっ!!」
一輝の言葉が終わる前に、びゅっとメリメのパンチが飛んだ。
油断していた一輝の鼻っ柱にスパァン! と命中する。クリーンヒット。
「ぐほあっ!?」
かなりいいのをもらってしまった。鼻の奥がツーンとする。
「い、痛ってぇー!? ね、ねぼけんなこのバカ!? 昨日ウチに来ただろお前!!」
「ハァ!? このヘンタイ、なに言って! ……あ、そだ。そうだった」
メリメはようやく思い出したらしい。
一輝と同じように繋がった手を眺めて、がっくりと肩を落とした。
「そうじゃん。うう……なんだよぅ、やっぱり繋がってるし。外れてない」
「それよりまず謝れよお前! 朝っぱらからいきなりなにしてくれんだ……!」
一輝は鼻を押さえながらベッドから下りた。メリメを促す。
「あー痛えな……! ほら、立ってくれ。でなきゃ起きれないだろ」
「わ、ちょっと引っぱらないでよぉ」
「いいから早くしろ。俺はトイレに行きたいんだよ」
「あ、そういえばわたしも……」
さっきから朝の尿意を感じていた。ともかく、トイレに行って用を足したい。
二人は一輝の部屋を出てトイレに向かう。
「う~~、まだねむい……やだなぁ、トイレもいっしょに行かなきゃいけないなんて」
「一メートルも離れられないからな……。んじゃ悪いけど、俺先ー……って」
トイレのドアノブを掴んだところで、一輝の手が止まった。
「……」
「……」
振り返って、右手を見る。
メリメがいる。
手が、繋がっている。
ドアは閉められない。
手が……邪魔に、なる。
「……。さて……俺はこれからどうしたものかな……」
「どうしたものかじゃないでしょ……? どうすんの……?」
別々にトイレに入ることが。
できない。
「ふざけないでよ……!?」
メリメがつぶやいた。ぷるぷると震えている。
「どうすんの? わたし、入るのも入られるのもムリなんだけど……!?」
「俺だって勘弁してほしいけど……」
そうは言っても、尿意は待たない。待ってはくれない。
「……片方は手を伸ばして、外で待ってるしか……ないな……」
「ハアアアァァァーーーーーーっ!?」
メリメはさすがに目を剥いて叫んだ。当然の反応である。
「やーーーーーーだーーーーーーっ!! やだやだやだやだぁーーーーーー!?」
「だ、だって……トイレ行かなきゃ俺のおしっこもれちゃう……」
「勝手にもらせばいいじゃんそんなのっ!? わたしやだ、やだよ!!」
「お前のおしっこももれちゃう……」
「も、もれないっ!! もれるわけないでしょーーがーーっ!!」
しかし、いくら否定しても厳然たる事実は覆らない。人は運命からは決して逃れることはできない。
トイレに行かねば、いずれもらす。もらすのだ。
「そうか。繋がってるって、そういうことか。着替えられないとか、そんなのは序の口だったんだ。俺は『覚悟』が足りなかったらしい……。分かったよ、そういうことなんだな……『覚悟』『した』」
「え!? な、なに、なにを言ってるの? ま、まさ、まさか……?」
「もう諦めろ……諦めるしかない。俺はもうこれから訪れる羞恥プレイを諦めた……でないと膀胱が破裂してしまう。もしくは人として尊厳を失う」
全てを悟った目で、一輝はゆっくりとトイレのドアを開いた。囚人のような足取りで中に入る。
「向こうを向いていて下さい……こんな俺を見ないで……」
悲しげなつぶやきと共に、ジィー、とチャックの開く音。
メリメが必死に止める声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってよぉっ!? なにしてんの、なにしてんの!? 待って、待っ……!?」
――ジョボジョボジョボジョボ――。
「いーーーーーやーーーーーーっ!? ききたくないーーーーーーっ!!」
朝一番で最悪のBGMがメリメの耳を強制的に打った。
耳はふさげない。片手だけしか使えないから。
「あああああああーー!! やだーーーーーー!?」
「……。ぬふぅ……」
「あ、ああ、あああ……!」
「ふう。すっきりした。ハハハ……ヤっちまったぁー………。でも想像してたより、なんてことはないな……」
水を流す音と共に、渇いた笑いで一輝がトイレから出てくる。
「な、ななな……!! なんてことしてんのぉ!? あたまおかしいんじゃないの!?」
「いいや。俺は社会的に死亡することと天秤にかけて、冷静に判断しただけだ。さあ、次はお前の番だ」
「ハァアアア!? やだ、やだやだやだぁ!!」
「別に嫌ならそれでもいい。俺にそういう趣味はないからな……。だが、俺のとなりでもらすことだけはしてくれるなよ。地獄だからな」
「だからもらさないってーのぉっ! ばかぁ!! ううう~~っ!」
それでも、メリメも限界が近づきつつあるらしい。内股で足をばたばたさせはじめる。
「く、くうぅ~~……! う、う、う……!」
「行かないんだな? じゃあ、俺は喉がかわいたから台所に行きたい。あと、腹も減った」
「こ、このぉっ! う~~、う~~……!」
メリメは必死な形相で耐え続ける。だが、特にいい手は思いつかないらしい。
しばらくそうして我慢していたが、人生における何か重大な決断を下したような顔をすると、勢いよくトイレの中に足を踏み出した。
「い、いい!? 見ないでよっ、ぜったい見るなよぉっ!? 見たらぜったい殺すからなぁっ!? 耳もふさいでよっ、鼻もつまめよぉっ!? いいなぁっ!?」
「俺は今左手しか手を使えねえよ。アシュラマンか四妖拳でも使えない限りそれは無理だ」
「ぐぬぬぬぬ~~!! いいからあっち向いててよっ!!」
メリメは腕一本ぶんだけ残して、ドアをきつく閉める。
「痛て痛て! 挟まって痛てえよ!」
「うるしゃいうるしゃいっ!! いいから黙っててっ!」
そのうち、ドアの向こうからスルスルと下着を脱ぐ音がしたかと思うと、便座に腰掛けるギシッという音が聞えてきた。
やがて。
ちょろちょろと水音と、はふうー……、とため息のような声が、一輝の耳に自然と入ってくる。
「……」
なんというか。
一輝に特殊な趣味はない。
ないが、これはあまりにも……。
「……いかん。いかんぞ俺。俺は正常だ。そのはずだ……」
そっぽを向きつつも、ついそんなことをこそこそつぶやいてしまう。
だが、カラカラとトイレットペーパーを出す音まで、勝手に耳は音を拾ってしまう……。
「……違う、違うぞ。あれは子供だ。俺はもう大学生だ。そしてこれは人間にとって必要な、当たり前の排泄行為にすぎない。だから気にするな……」
とりあえず心を無にしておく。
少しして、水を流す音がしてメリメがトイレから出てきた。
「く、くつじょく……!! くつじょくだよぅ……!!」
ぷるぷる震えるメリメは、顔をこれ以上ないほど真っ赤にしていた。