ぷろろーぐ。
突然部屋の中に瞬いた不思議な輝きは、尾を引くようにして、やがて止んだ。
「――うお、目ぇ痛ってー……なんだ、いきなり……?」
部屋の主、橘一輝はチカチカする目をぱちくりとさせて、目の前を見つめた。
そして、急に光に包まれた時に驚いて、身を守ろうと思わず上げてしまった右手を下ろした。
下ろそうとして――なにかに、引っかかる。
「お、おお? ……あれ?」
右手に、なにかを感じた。
生暖かい。
誰かの体温のような、不思議な感覚。
誰かに手を握られている、ような。握っている、ような。
「……うん?」
一輝は自分の右手を見た。
よく見慣れた、当たり前の自分の右手が、そこにある。
はずだった。
右手は、手首までは、いつもの自分の右手だ。
しかし。
さらにその先、手の甲のあたりから、『急に色が白く切り替わっている』。
そしてそのまま目線で先を追うと。
なぜか、女の子がいた。
「はっ?」
一輝の口から変な声が出た。
視界の中で、雪のように舞い散る不思議な光を背に、金色の美しい髪が揺れる。
「……」
簡単にまとめられたツインテールの、長い金髪。その両脇には、雄ヤギのような立派な巻き角がある。
口元からは、長い八重歯のような牙がのぞいている。
背中にはぱたぱたと動く、真っ黒い羽が生えていた。
お尻のあたりから生えた、黒く細い尻尾が、くるくると回りながら踊っていた。
「……」
不思議な格好の少女が、いつの間にか――本当にいつの間になのか――さっきまで何もなかったはずの空間に、一輝の前に、いきなり現れていた。
そして、『おそらくは』一輝の右手をしっかりと『握り』、目をつぶって静かに立っていた。
「……」
誰?
なにこれ?
一輝がそう思うと同時に。
「んん~~……ぷはぁっ」
まるで深い水の底から出たかのように、目の前の少女が息を吐いた。閉じていた目を開いて、蒼い宝石のような美しい瞳が露になる。
「……ぷう。あー、苦しかった。……えーと、あ、あんたが召喚者? んじゃよろしくぅ。あんたのお願い、ずばっと一発叶えてあげる。あ、でもちゃちゃっ、とかたづけてね? 今日はわたし、見たいテレビあるから」
ざっくばらんで気軽そうに、少女が言った。
「あ、わたしの名前はメリメね、悪魔メリメイア・ルチフェーリア・ロフォカレ。そーゆーわけで、よろしくね?」
「……」
「……。……あれ? なにボケッとしてんの。ねえねえ、ほら早く。願いごと言ってよぅ。叶えないと帰れないじゃん?」
「……」
「……あれぇ? なになに、わたしの顔になにかついてる? ねえねえ、ちょっと?」
「……」
一輝がわけもわからず固まっていると、少女は変な顔をして一輝を見上げてくる。
「ねえ。ねえねえ。ねえったらねえ。ねえ? 聞えてるの?」
ぺしぺし、と馴れ馴れしく頬を叩かれた。
一輝はなんとかして、声を絞り出す。
「……お」
「お?」
少女が首を傾げる。
「……お」
「お? なに?」
「お。お、お前。……誰だ?」
「ハァ?」
なぜか少女は、逆に分からない、とでも言いたそうな顔をして、一輝の質問に答えた。
「だれって、そりゃ。いま、言ったじゃん。悪魔に決まってるじゃん? わたしはメリメ、悪魔メリメ。あんたの喚び声に応じて来ました、ってゆーか? そんな感じで」
「……。……悪魔? は? ああ?」
「な、なんだよぅ? だからぁー、悪魔って言ってるじゃん? いいからぁー、とっととお願いを言って? でないとわたしおうちに帰れないし、単位も取れないじゃーん。ったくぅ、いちから説明しなきゃ、だめ? なんかめんどくさそーだなー」
「……。……あく……ま?」
悪魔。
悪魔が来た?
なんだこの女の子。
なにを言ってるんだろう。なにを言ってるんだこいつ。悪魔だって? なんだそりゃ。
つーか、すげえ美少女だ。金髪で碧眼だ。でもなんか、小中学生ぽいけど。
うわ、目でかっ。顔整いすぎだろ。首もほそっ。外人の子?
……。
いや。
いや、この際それはいい。
こいつが誰だろうが、いつの間にどうやって俺の家に住居不法侵入してるのか、あまつさえわけの分からない妄言を吐いていようが、それは――とりあえず、いいとしてだ。
なにがいいのか、全くよく分からないけど、全然よくないような気もするけど、まあ、とにかく。
それは、ちょっと横に置いておいて。
それより今。
俺の右手に。
……。
なにか、変なものを見た?
一輝はひどく嫌な予感がした。
それどころじゃない。そんなような。
悪魔が来たとか、人の家に無断で入るのは犯罪だとか、そんなことを言っている場合ではないような。
一輝は目をぱちぱちと瞬かせて、少女を見つめた。
そして――そのまま、すっ、と視線を下ろす。自分の右手を、もう一度よく眺めてみた。
『変なもの』が見えた。
「……」
『変なもの』がある。
右手のはずである。
自分の、右手のはずである。
それを、目の前の見知らぬ少女が握っている。少女の左手が、自分の右手を握っている。
もしくは――一輝が握っている。自分の右手が、少女の左手を握っている。
そのどちらか、もしくは両方だ。そのはずである。
でなければ、手は繋がることはない。手を繋ぐことはできない。
にもかかわらず。
手は――その、どちらでも、どれでもない。
「……。うん? あれ? え、あれ?」
「? なにしてんの?」
「え?」
少女の声に、一輝は我に帰った。
顔を上げると、怪訝な顔をしてこっちを見ている。
「ねえ、だから願いごとを言ってってば。なにをしてるの?」
「え、いや」
「なんだよぅ、さっきから。あんた、どこ見てんのぉ?……あれ?」
少女が一輝の右手、少女からすれば少女の左手、つまり一輝と繋いでいる手に気づいた。
「あ、ちょっとやだ、こらぁ。なんで勝手にわたしの手をにぎってるの? 離してよぅ」
「うおっ。……おお?」
少女がさっと手を引く。
「……あれ? ……離し、て……。あれれ?」
「……? んん?」
しかしなぜか、一輝はまったく力も入れていないのに、少女が引っぱった方向に向かって右手がぐっと伸びていく。
「……えっ?」
「……えっ?」
一輝と少女の目が合った。
「……。え、いや、ちょっと待て。手を離してくれよ……?」
今度は逆に、一輝が手を離そうと引っぱった。
「え、うひゃあっ?」
「お? おおっ?」
すると、一輝の手の動きに勝手についてきて、離したがっているはずの少女の手がぐっと伸びた。
「……ええ?」
「……おお?」
手を、下ろす。
二人の間で、二人の手が、ぶらりとぶら下がる。
「「……」」
また、目が合う。
それからまた視線が下がって、一輝と少女はそろってもう一度手を見つめる。
目の前に、『変なもの』がある。
それは、自分の右手だ。少女にとっての左手でもある。
だが、なにかが変だ。
今、一輝はこの少女と手を繋いでいる。どちらかが握っているかは分からないが、手を繋いでいる。
でなければ、手を繋ぐことはできない。だから、手を握って、繋いでいる。
繋いでいる……のだが。
手と手の境目が『見えない』。
見えない、というか。どういうわけなのか。
なぜか。
なぜなのか。
手の甲が『一つしかない』。
「「はっ?」」
声がシンクロした。
部屋の中がしーん、とする。
「……えっ? ちょ、ちょっとこれ……。……手……?」
「おおっ? お、おい」
少女が手首を返した。その動きに『自動的』に、一輝の手首も上を向く。
「はへ? なにこれ?」
「ああ? なんだこれ?」
裏返してみた手は、今までに見たことのない形をしていた。
一輝の手のひらから、小さく細い指が四本飛び出している。また逆に、少女の手のひらのあたりから、見覚えのある指が四本飛び出していた。
「……。えっ? え、え、え?」
「……。うん? はっ? ……これは……?」
お互いの手があるはずの場所に――お互いの手がある。
ついさっきまでは何もなかったはずの空間に、知らない少女がいて、お互いに伸ばした手のところで、重なっている。
言いかえると、空間的な位置が、重なっている。
なぜか。
……。
なんだこれは?
なんだこれ、なんだこれ。なんなんだこれは。
おかしい、何かがおかしい。明らかにおかしい。おかしすぎる。
この手は。
この手はなんだ?
一輝の頭の中がぐるぐると回った。よく分からないまま、時間だけが過ぎていく。時計の秒針の音が妙に耳に残った。
「「…………………………………………………………………………………………………」」
沈黙。
それからやがて、ぽつりと、一輝がつぶやいた。
「……なあ。なんか、俺の手がお前の手と、くっついているように見えるんですが?」
「……うん。なんか、わたしの手があんたの手と、くっついてるように見えてるね?」
「ああ。繋がってるな? 俺とお前の手……?」
「うん。繋がってるね? わたしとあんたの手……?」
二人はオウム返しの会話をする。
そしてゆっくりと、視界の中にある謎の現実を、ゆっくりと理解していく。
――繋がっている。
見れば見るほど、二人の手は繋がっている。
繋がって、いる。
……。
「「なんじゃこりゃああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーっ!?」」
絶叫が響いた。
少年と少女の手は繋がっていた。
『物理的な融合』、という意味で。