境界ダンス
「ハンドルを五つ回せ」
役人の指示に従い、俺はハンドルをカチカチと回す。それに伴い、目の前で仰向けになっている男の四肢が強く引っ張られる。
「グアアアア! や、やめてくれ! 私は何もやってないんだ!」
男は今、窃盗の容疑でラックにかけられている。ラックとは両手足を縄で引き伸ばす拷問器具だ。
「もう五つ回せ」
俺はさらにハンドルを回した。縄がローラーに巻き上げられ、男の手足が目で見て分かるほど引き伸ばされる。
「ギャアアアア!」
激しさを増す絶叫。普通の人間なら耳を塞ぎたくなるだろう。
だが俺は拷問吏、この程度のことでは動じない。
冷たく、血が通っているのか疑わしいこの手で、俺は男が気絶するまで淡々とハンドルを回し続けた。
今日の仕事を終え、家路についた。
なるべく人の目につかぬよう、道の隅を歩く。
拷問吏は忌み嫌われる職業だ。飲み屋で人と酒を酌み交わすことも、礼拝に参加することも許されていない。家も町外れに構えねばならない。
そんな立場故、町の人間は俺が身につける拷問吏の証――黒衣と腰の鈴を目にしただけで嫌悪感を露にする。
俺自身は今更そういったことで傷つきはしない。だがこれ以上嫌われると生活に支障をきたす可能性があるので、極力目立たぬようにしている。
不意に、足元で高い音がした。腰につけていた鈴が落ちたのだ。
俺が腰を屈めようとすると、目の前に細い指が現れ、鈴を拾い上げた。
「あの、これ……」
少女が手の平に鈴を乗せ、俺の方へ差し出す。
「あ、ああ……」
俺は唖然とした。この娘は俺が拷問吏だということに気づいてないのだろうか。
鈴を受け取り、礼を言う。すると少女は優しい笑みを浮かべて去っていった。
「アアッ! ウグゥッ!」
俺が鞭を振るう度、目の前の若い女が高い声を上げる。顎先からは汗が、乳房からは血が滴り落ち、石造りの床で小さく弾ける。
「あ、あんたは悪魔よ! こんなことを、何の躊躇いもなく……」
悪態をつく女。それにも構わず、俺は淡々と詐欺を働いた罪人に罰を与える。
……悪魔か。犯罪者に言われたくないが、確かにそうかもしれない。これだけ鞭を振っているのに、これだけ人を傷つけているのに、俺は身も心も冷え切っているのだ。
だが、俺はそれでいいと思っている。
拷問吏は、引退後に自ら命を絶つ者が少なくない。それは恐らく、非情になり切れぬまま拷問を行っていたからだろう。
俺はそうはならない。恐怖や罪悪感なんてものは疾うの昔に捨てた。
鞭を振るう手に一層力が入り、女の叫び声が激しさを増す。しばらくの間、俺は役人の制止に気づくことなく鞭を振るい続けていた。
今日の仕事はまだ太陽が高いうちに終わった。
時間ができた俺は、狼を狩るために森へと向かう。町を出て、橋を渡り、しばらく歩いて野原に差し掛かる。そこで俺は見覚えのある少女と出会った。
「あなたは……」
少女が俺の方へ歩み寄る。俺は戸惑いながら口を開いた。
「この間は……ありがとう」
改めて、鈴を拾ってもらった礼を言う。すると少女はにっこり微笑んだ。
「今、お花を摘んでいたんです。あなたはどちらへ?」
「え、俺は……狩りに……」
やはり、この娘は俺が拷問吏だということに気づいていない。そうじゃなきゃ俺とこんなふうに話せるはずがない。
だがその考えは、彼女の次の問い掛けで消え去った。
「あなたは、拷問官をされてるんですよね」
「知ってたのか……?」
少女は「はい」と言いながら花を摘む。
それから二、三度言葉を交わし、俺は少女と別れた。
あの日から、野原で少女を見かけることが多くなった。いや、俺が森へ行く回数が増えたのかもしれない。
会うたびに、彼女と言葉を交わす。天気の話だったり、花の話だったり、他愛も無いことだ。
だがある日、彼女は表情を曇らせながら、いつもとは違う話題を口にした。
「あの……。あなたは、拷問官以外の生き方は選べないんですよね……?」
「……ああ。そういう一族に生まれたからな」
「その運命を、呪ったことはありませんか……?」
一瞬、思考が飛んだ。気持ちを落ち着かせ、「ない」と答える。
「私は、自分の運命を呪っています……」
少女は袖をめくった。すると痣だらけの腕が露となった。
「それは……」
強烈な胸の圧迫感。その感覚に、俺は動揺する。
何だ、この気持ちは……。まさか……。駄目だ、この娘といると俺は……。
今すぐここから離れよう。
もう彼女とは会わない方がいい。
あれから何日もの間、森へは行っていない。
少女のことを頭から消し去るため、俺は今まで以上に冷たい拷問人形と化し、ひたすら囚人を痛めつけていた。
これでいい。これが拷問吏としての正しい在り方だ。余計な感情は生きる上で枷にしかならない。
俺が次の責めに使うための拷問器具を準備している時だった。役人が「あっ」と声を漏らし、俺の方へ目を向ける。
「そういえば、近々ショーがあるぞ。お前が主役になれる日だ」
それを聞き、俺は「調度いい」と呟いた。
今度のショーで、俺の中の余計なものを全て削ぎ落としてやる。
ショーの日は、半月後に訪れた。
町の広場に舞台が設けられ、それを多くの観客が取り囲んでいる。
まるで祭りのような状況だが、これから行われるのは公開処刑。俺はその執行人を担当する。
瞳を閉じ、息を吐き出し、心身の温度を下げてゆく。少しずつ、少しずつ、少しずつ……。
俺は人ではない、道具だ。人を傷つけ殺めるだけの、道具だ。
ゆっくり、目を開く。
すると目の前には、先程までは無かった死刑囚の姿が。
「な……何で……」
愕然とした。
どうして……。何故、この娘が……。
「最後に、あなたと会えて良かったです」
痣だらけの少女が、悲しげな笑みを浮かべながら口を開いた。
「どうして、君が……」
俺が尋ねると、少女は少し躊躇った様子で言葉を返す。
「父を……殺してしまいました……。どうしても、耐えられなかった……。父は、昔から母や妹や私に酷い暴力を振っていて……。だから……」
少女の双眸から涙が溢れ出す。
「そんな……そん……な……」
何だ、これは……。
冷え切っていた身体が熱くなっていく……。まるで……まるで燃えるように……。
石のように重くなった頭で、俺は過去の情景を思い起こす。
最後に話をしたあの日、少女は俺に助けを求めていたんだ。痣を見せたのはそういうことだったに違いない。
それなのに俺は彼女を残し、その場を去った。
もしあの時、悲しみを受け止めてやっていたら、彼女は今ここにいただろうか? こうなったのには、俺にも責任があるのではないだろうか?
……いや、俺は一体何を考えている。
罪悪感? 馬鹿な、そんなもの仕事の邪魔だ。
拷問吏は生きている限り拷問吏で在り続けなければならない。余計な感情は死活問題だ。
「ほら、剣だ」
役人から斬首用の剣を手渡される。
この剣で少女の頚椎の間を貫く。それで全てが終わる。
今まで何度もやってきたことだ。今さら躊躇などしない。例え相手がこの娘でも。
剣の刃に、冷たい表情の自分が映っている。殺す覚悟を決めた眼だ。
――だがその時、俺の決意を大きく揺るがす出来事が起きた。
俺の腰についていた鈴が足元に落下し、高い音を立てながら転がってゆく。
「あ……」
鈴は痣だらけの足に当たって止まった。
細い指がおもむろに鈴を拾い上げ、こちらに差し出してくる。
「あ……ああ……」
重なる。目の前で起きていることと過去の情景が重なる。
あの時も、この娘は俺が拷問吏であると知りながらこうやって鈴を……。
視界が、歪む。泣いているのか俺は。
「ちくしょう……ちくしょう……」
……ああ、もう認めるよ。
嬉しかったんだ。
人として接してもらえたことが、嬉しかったんだ。
「おい、どうした? 早く処刑の準備をしろ」
役人の促しを無視し、俺は剣を握る手を緩めた。
剣が落下し、辺りからどよめきが沸き上がる。
「俺と……」
静かに歩み寄り、少女の手を握る。
「俺と、結婚してほしい」
執行人は死刑を宣告された女性に結婚を申し込み、無罪を請願することができる。絶対に使うことは無いと思っていた権利だ。
「あ、あの……結婚って……。わ、私は父を殺した女ですよ……? こんな私で……本当にいいんですか……?」
不安げな顔で少女が問い掛ける。
俺は、信じられないことだが、恐らく笑みを浮かべていたのだろう。
少女は俺の顔を見ると少しだけ表情を緩ませ、「よろしくお願いします……」と頭を下げた。
俺はもうこの先二度と、人形や道具に成りきることはできないかもしれない。そしていつの日か、他の拷問吏達同様、自分の命を絶ってしまうかもしれない。
それは、とても不幸なことだ。
だが、最悪ではない。
「君のおかげで、俺は人として死ねるよ。ありがとう……」
俺は少女を強く抱きしめ、そう囁いた。