第4話:覚醒する小姓と魔王、古い掟を焼き払い「自由な市場」を宣言す
その日の夜。
村の屋敷へと戻ったノエルは、食事もそこそこに再び執務室で筆を走らせていました。
城下町で目にした、あの「十倍の価格差」。それはノエルにとって、単なる不正ではなく、この世界の「構造的な欠陥」そのものでした。
(……商会という名の『座』が、王国の庇護を受けて甘い汁を吸っている。ならば、わたくしがやるべきは一つ。既存のルールを焼き払い、わたくしが新たな『法』となることよ)
彼女の赤い瞳が、月光を反射して怪しく、そして美しく燃え上がります。書き進められる計画書には、魔力を持たない平民たちが自立し、富を築くための革命的な仕組みが記されていきました。
一方、広間ではランが一心不乱に掃除を続けていました。
ノエルが満足に摂らなかった食事の片付けはもちろん、彼女が今夜休むことになる寝室までも、指先が白くなるほど雑巾を動かして磨き上げたのです。バケツの水は何度も取り替えられ、かつては埃に埋もれていた大理石の床が、今や鏡のようにランの姿を映し出していました。
(ノエル様が、こんなにボロボロの場所にいるなんて、あってはならないことだ。……僕が、ここを世界で一番綺麗な場所にしてみせる)
ランは、主君のために働くことがこれほどまでに誇らしいとは知りませんでした。掃除を終え、寝室のベッドを整えた彼は、そのまま力尽きるように、主君の部屋の扉の前で丸まって眠りに落ちてしまいました。
執務室のノエルもまた、完璧な計画書を書き終えた安堵からか、机に突っ伏したまま深い眠りについていました。
やがて、夜が明け――。
わずかな陽光が差し込む廊下で、先に目を覚ましたのはノエルでした。
体が強張っているのを感じながら執務室を出た彼女は、すぐ目の前、自分の部屋を守るように眠っている小さな背中を見つけました。
「……ラン、起きて」
ノエルがその肩を優しく叩くと、ライトブルーの髪が揺れ、グレーの瞳がおどおどと開きました。
「……あ、ノエル様っ!? も、申し訳ありません、不覚にも寝入ってしまって……!」
飛び起きて頭を下げるラン。しかし、ノエルの視線はその向こう側に向けられていました。
「……驚いたわ。寝室だけでなく、屋敷全体が昨日とは別物ではないの。あなた、一晩中これを……?」
朝日を反射して輝く床、隅々まで磨かれた調度品。それは、もはや廃屋ではなく、一国の魔王を迎え入れるに相応しい「城」の輝きを放っていました。
「僕、これくらいしかお役に立てないから……。ノエル様が、気持ちよく目覚めてほしかったんです」
「ふふ、満点よ、わたくしの小姓」
こしょう? の意味はいまだにわからない。
けれど、ランにとってそんなことはどうでもいいことでした。
泥にまみれ、誰からも見向きもされなかった自分に、ノエル様が「役割」を与えてくれた。自分のことを必要だと言ってくれたようで、胸の奥が温かい光で満たされていくようでした。
真っ直ぐに自分を見上げるラン。
ノエルはその献身的な姿に、わずかに目を細めて不敵に微笑みました。
「ラン、あなたにはたくさんの才能がある。けれど、それを引き出す術を誰も教えなかっただけ。……まずは、目を瞑って。頭の中で、静かな風の音をイメージしてみて」
ランは何一つ疑うことなく、言われた通りにそっと瞼を閉じました。
暗闇の中で、全神経を集中させます。草原を渡る、心地よくも鋭い風の調べを。
「……その風が、わたくしに向かって吹くのを想像して。わたくしの髪が、あなたの風で優しく揺れるイメージを」
(ノエル様の、あの綺麗な髪が……僕の風で……)
ランが強く、鮮明にその光景を思い描いた瞬間でした。
ぴんと張り詰めた空気の中、どこからともなく透明な渦が巻き起こり、室内を清涼な気が駆け抜けました。
サラリ、と。
ノエルの腰まである黒髪と、そこに混じった鮮やかな赤毛が、目に見えない指先に梳かれたように、ふわりと宙に舞い上がりました。
ランがおずおずと目を開けると、そこには自分の起こした微風に髪を靡かせたまま、満足げに喉を鳴らす主君の姿がありました。
「……一発で成功するとは」
「えっ……。あ、あの……今のは……僕が、やったんですか……?」
驚きに瞳を丸くするラン。ノエルは、今しがた風に揺れた自分の腰まである黒髪を指先で整えながら、呆然と立ち尽くすランの鼻先を、いたずらっぽく人差し指で軽く突きました。
「風の魔法よ。ラン、あなたには魔法の才があるの」
「ま、魔法!? そんな……魔法なんて、王族や貴族様といった、選ばれた人たちしか使えないはずでは……」
ランは自分の両手を震えながら見つめました。この世界において、魔法は血筋に紐付いた絶対的な特権。平民である自分にそんな力が宿るなど、天地がひっくり返ってもありえないことでした。
そんなランの「狭い世界」を、ノエルは不敵な笑み一つで鮮やかに切り裂いてみせます。
「下らないわ。血筋が力を生むのではない、意志が力を呼ぶのよ。……それにね、ラン。あなたのその『風』は、わたくしの『炎』の魔法と、この上なく相性がいいの」
「ノエル様の、炎と……?」
「ええ。風は火を煽り、火は風によってさらに猛る。あなたがわたくしの傍にいるだけで、わたくしの黒炎は天をも焼き尽くす力となる。……逆もまた然りよ。わたくしの熱が、あなたの風をどこまでも鋭く研ぎ澄ますわ」
ノエルは一歩踏み出し、ランの肩に手を置きました。その指先から伝わる確かな熱が、ランの体内に眠る風の種を優しく、力強く肯定していきます。
「……さあ、顔を洗いなさい。最高に清々しい朝だわ。あなたの風で、この澱んだ村に新しい空気を送り込んであげましょう。……広場へ向かうわよ」
「は、はい……っ! ノエル様!」
魔法が使える。ノエル様の役に立てる。
その確信が、少年の背筋をかつてないほど真っ直ぐに伸ばしました。
朝日が降り注ぐ村の広場。そこには、ノエルの呼びかけによって集まった、疲れ切った表情の村人たちが立ち尽くしていました。彼らの前に、漆黒の装束をまとったランを従え、ノエルが堂々と姿を現します。
「皆、聞きなさい。今日この時をもって、この地の古い掟をすべて焼き払うわ」
ノエルは、一晩で書き上げた「新時代の設計図」を広げました。
「今日から、この村を『自由な市場』とする! わたくしが許可した場所では、誰が何を売っても構わない。そして、その利益に商会が手を出すことは、このわたくしが許さない! 貴族であろうと平民であろうと関係ない! 己の才覚と努力で価値を生み出す者だけを、わたくしは重用する!」
どよめきが起こる広場。その喧騒を、ノエルが放った一筋の漆黒の炎が静まり返らせました。
「この『黒炎』を燃料として、村の全員に開放してあげる。……冬の寒さも、煮炊きの苦労も、今日で終わりよ。……さあ、わたくしと共に、この世界を面白く塗り替えたい者は名乗り出なさい!」
圧倒的な力と、魔法を超えた利便性。村人たちの目に、死んでいたはずの「野心」と「希望」が、再び宿り始めていました。
――この日、辺境の小さな村で上がった産声は、やがて王国全土を揺るがす巨大な咆哮へと変わっていくことになります。




