第23話:慈悲なき安土、裏切りは万死に等し
「……あら。随分と、ずいぶんと小綺麗で『場違い』なお客さまが迷い込んでいらしたのね」
その凛とした、けれどどこか楽しげな響きを湛えた声に、私の心臓は跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた私の瞳に映ったのは、漆黒のドレスを翻し、民衆の親愛を背に受けて立つノエルの姿だった。
「ノ、ノエル……」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
かつて私が、最も軽率に、そして最後には最も残酷に投げ捨てた、愛しい人の名を。
けれど、彼女のルビーのような瞳に宿っていたのは、私への憎しみですらなかった。
それは、自慢の庭を訪れた珍客を眺めるような、どこか悪戯っぽく、それでいて徹底的に「一線」を引いた眼差し。
「……どうしてこんな辺鄙な平民の街にいらっしゃるの? お・う・じ・さ・ま!」
彼女は、かつての婚約者という立場を完全に忘れ去ったかのように、ごく自然に問いかけてきた。その声に怒りはなく、ただ純粋な疑問だけが混じっている。
「許してもらえないかもしれないが……っ。私は、君に謝りに来たんだ」
私は、喉の奥まで出かかっていた言葉を、必死に絞り出した。
周囲の民衆が、不審な目で私を見ている。かつての第一王子が、変装の外套に身を包み、自分たちの主に縋りつこうとしている無様な姿を。
「私はどうかしていた……!あの日、君にしたこと、君に投げつけた言葉……。どれだけ悔やんでも足りない。どうしても、一目会って……謝りたくて……!」
私はその場に膝をつきそうになるのを、必死に堪えた。
けれど、私の必死の懺悔を聞いたノエルの反応は、意外なほどに「穏やか」だった。
「謝罪? ……ふふっ、そんな昔のこと、まだ気に病んでいらしたの? 殿下、そんなに神妙な顔をなさらないで。ご覧なさいな」
彼女は、私を見下ろしたまま、すっと周囲の活気あふれる商店街を指し示した。
そこには、魔道具の明かりの下で酒を酌み交わす者、笑いながら品定めをする親子、そして、ノエルを見て誇らしげに手を振る商人たちの姿があった。
「あの日、殿下のおかげでわたくしは『自分の居場所』を見つけることができましたの。安土を楽しんでいる今のわたくしを見れば、謝る必要なんてどこにもないと分かるはずですわ」
「…………っ!!」
心臓を、熱く熱した鉄で貫かれたような衝撃。
彼女は怒っていない。
むしろ、追放されたことすら「今の幸せに繋がる良いきっかけ」として、ポジティブに捉えてしまっている。
あの日、私が彼女にぶつけた「呪われた黒炎」も「化け物」という言葉も、彼女の中ではもう、この暖かい街を照らす『不滅の篝火』へと昇華されていた。
「珍しいお客さまでしたので、ついお声がけしてしまいましたわ。……どうぞ、ごゆっくり安土の夜を楽しんでいらして。ここの金平糖は、王都のどの高級菓子よりも絶品ですわよ?」
そう言って、ノエルはかつて見せたことのないような、心からの満ち足りた微笑みを私に向けた。
「さあ、行きましょうか、ラン。皆が待っていますわ」
踵を返し、再び民衆の歓声の中へと戻っていくノエル。
私を憎むことさえ卒業し、はるか高みで自分の人生を謳歌している。
私は、ただ呆然とその背中を見送るしかなかった。
商店街の明かりが途切れるところで、ノエルはふと足を止めた。
惨めな外套姿で立ち尽くす「元婚約者」を、今さら振り返る価値もない。けれど、彼女の口元には、先ほどまでの皮肉とは違う、どこか冷ややかな、けれど満足げな笑みが浮かんでいた。
(……一国の王子が、大勢の平民の前で膝を屈し、自らの非を認めて謝罪する、か)
かつて自分が支えようと決めた男。
なりふり構わず、己のプライドを捨ててまで謝りに来たその一点においてのみ、彼が本来持っていたはずの「潔さ」を、ほんの僅かだけ認めてもいいと思った。
(少しは見直しましたわよ、アルフレッド様)
――けれど。ノエルの瞳に宿る熱が戻ることは、万に一つも、未来永劫あり得ない。
彼女にとって、裏切りとは万死に値する断絶。一度自分を切り捨て、泥を塗った者を、再び「身内」として隣に置くことなど、ノエルの理が許さない。
ノエルは一度も振り返ることなく、黄金の光に包まれた安土の街の奥、自らの城へと続く道へと消えていった。
それは慈悲などではない。一度背いた者を二度と視界に入れない、魔王としての絶対的な拒絶だった。
※※※
「……アルフレッド」
背後で控えていたアレンが、周囲に悟られぬよう低く、けれど一人の友人としての響きを込めて私の名を呼んだ。沈痛な面持ちで私の肩に手を置いた彼は、黄金に輝く安土の夜景を見つめ、静かに言葉を継いだ。
「今夜は一旦この街の宿に泊まり、明日、改めて王都へ戻りましょう。……ここで起きていることは、数時間の視察で理解できるほど浅いものではありません。彼女が何を創り上げ、殿下が何を失ったのか。それを一晩かけて、その身に刻んでおくべきかと存じます」
アレンの言葉は、今の私には酷く残酷で、けれどこれ以上ないほどに誠実な忠告だった。
「……そうだな。分かった、アレン。……今夜は、この街に泊まろう」
「承知いたしました。宿を探しましょう。殿下、今夜だけは『アルフレッド王子』ではなく、ただの迷える旅人としてお過ごしください」
案内された安土の宿は、王都の王宮に比べれば狭く、簡素なものだった。
だが、部屋を照らす魔道具の灯りは驚くほど柔らかく、布団からは天日で干されたような清潔な匂いがした。
食堂から聞こえてくる、平民たちの飾らない笑い声。
「今日はいい商いができた」と語り合う商人の満足げな顔。
それらすべてが、かつての私が「冷たい」と切り捨てた、ノエルの信念から生み出されたものなのだ。
「ここは、素晴らしく、心地のいい場所だな」
宿の窓から、遠く安土の象徴である天守を仰ぎ見る。
そこには、かつて白百合の庭で「最高の魔法を見つけてみせる」と誓った少女の、不滅の篝火が燃え盛っていた。後悔に押し潰されそうになりながら、それでも私は、この街の熱気を一つも漏らさず記憶に焼き付けた。
翌朝。
安土の清々しい朝焼けが街を包む中、私は宿を出た。
昨夜までの、迷いと劣等感に塗れた「甘い王子」の顔はもう、そこにはなかった。
「……アレン。まずは、王国公認商会のヒュデルク・ド・テオドール殿へ、極秘で親書を送れ。正式な商談の場を設ける必要がある」
「……御意。殿下、そのお覚悟、しかと見届けました」
彼女の隣に立つ資格は、もう二度と手に入らない。けれど、彼女が愛したこの国を守る責任だけは、泥を啜ってでも果たしてみせる。
アルフレッド殿下は、一国の王子として、初めて自分の足で「修羅の道」へと踏み出しました。




