第22話:追放した婚約者は、信念を貫く不滅の篝火
舌の上で優しく溶ける金平糖の甘さが、アルフレッドの意識を深く、暗い記憶の底へと引きずり込んでいく。
それは、彼がまだ第一王子としての重圧に押し潰される前。そしてノエルが、「悪役令嬢」という汚名を着せられるずっと前のことだった。
※※※
王宮の中庭。満開の白百合が咲き誇る幼い日の私とノエルは、お茶会をしていた。
「ノエル、お前はまたそんなにケーキばかり食べて。太っても知らないぞ」
「失礼なことを仰らないでくださいませ、アルフレッド殿下。わたくしの頭脳は常にフル回転しておりますの。糖分の補給は、未来の王妃として貴方様とこの国を支えるための、重要な任務ですわ」
口の周りに少し砂糖をつけながら、幼いノエルはツンとすまして言い返してくる。
由緒正しき公爵家の令嬢として厳しく教育されていた彼女は、魔法の才能も勉学の成績も常にトップだった。しかし、その完璧主義で少し不器用な性格ゆえに、周囲の子供たちからは「可愛げがない」と距離を置かれがちだった。
だが、当時の私だけは違った。
「ははっ、お前は本当に負けず嫌いだな。ほら、口の横についているぞ」
私がハンカチで彼女の頬を拭うと、いつもは大人びているノエルが、甘いものを食べている時は年相応にパーっと表情が明るくなる。そんな彼女の反応を見るのが、私は好きだった。
「ノエル。私は、いつかこの国を、身分や魔法の力に関係なく、誰もが笑って暮らせる豊かな国にしたいんだ」
「……誰もが、笑って暮らせる国」
「ああ。少し夢物語かもしれないけれど……お前なら、私の隣でその夢を叶える手伝いをしてくれるだろう?」
私が真っ直ぐに見つめると、ノエルはハッとして顔を上げ、ルビーのような赤い瞳に強い意志を宿して深く頷いてくれた。
「もちろんですわ、アルフレッド様。わたくしが、貴方の理想を叶えるための『最高の魔法』を見つけてみせます。ですから……ずっと、わたくしを貴方の隣に置いてくださいね」
白百合の香りと、甘い砂糖菓子の匂い。
私たちの間には、確かに偽りのない信頼と、淡い恋心が芽生えていた。
――しかし。
その純粋な誓いは、私たちが成長し、大人へ近づくにつれて少しずつ、しかし確実に歪んでいった。
ノエルはあの日交わした約束を守るため、血の滲むような努力を重ねていた。公爵令嬢として完璧な教養と、他を寄せ付けない圧倒的な魔法技術。さらには領地の経営から王宮の書類仕事まで、私の右腕としてあらゆる問題を次々と解決していくようになった。
徹夜で政策を練り上げ、目の下にできた隈を化粧で隠して微笑む日々。すべては「私の理想の国」を創るためだったのだと、今ならわかる。
だが、その「完璧すぎる有能さ」は、皮肉にも当時の私の心を少しずつ蝕んでいった。
『殿下よりも、ノエル様の方がよほど王の器をお持ちだ』
『あの方さえいれば、この国は安泰だろう』
大人たちのそんな無責任な囁きが、第一王子という重圧に苦しむ私の耳に届かないはずがなかった。
ノエルが優秀であればあるほど、自分の存在意義が薄れていくような焦燥感。彼女の隣に並び立つには、自分はあまりにも凡庸すぎるのではないかという劣等感。
いつしか私は、ノエルの完璧な報告書を見るたびに、胸の奥に冷たい石を飲み込んだような息苦しさを覚えるようになっていた。
そんな私の心の隙間に、甘く、致死性の猛毒のように入り込んできたのが――「光の聖女」エマだった。
学院に編入してきた彼女は、ノエルとは正反対の存在だった。
天真爛漫な愛嬌の塊で、ただ微笑むだけで周囲の目を惹きつけるような、理屈ではない圧倒的な『光るもの』を放っていたのだ。
そして何より、彼女は私の庇護欲をそそるほどに「無力で、儚げ」に見えた。
「アルフレッド様ぁ、あたし、お勉強が難しくて……教えてくれませんか?」
「きゃっ! こ、怖い……アルフレッド様がいてくれてよかった! あたし一人じゃ、何もできなくて……」
涙を浮かべ、上目遣いですがりついてくるエマ。その裏で密かに発動していた「魅了」の魔法。
だが、魔法の力以上に私を絡め取ったのは、彼女が満たしてくれる『優越感』だった。
(この子は、私が守ってやらなければダメなんだ)
有能すぎるノエルの前では感じられなかった「自分は必要な存在だ」という全能感。王としての自信を失いかけていた私にとって、エマの存在は麻薬のような逃避場所となっていった。
私たちの距離が開いていくのに、時間はかからなかった。
ノエルはエマの不自然さにいち早く気づいていた。学院の生徒や若い貴族たちが異常な熱狂でエマを取り囲み、まるで偶像のように崇拝し始めていること。そして、私がエマを喜ばせるために、公務を疎かにしてまでお茶会や高価な贈り物を繰り返していることに。
ノエルは幾度となく私を諫めようとした。だが、彼女の『正論』は、魅了に当てられ、劣等感を刺激されていた私には「嫉妬深い女のヒステリー」にしか聞こえなくなっていたのだ。
そして――決定的な亀裂となった、学院での『献納の儀』の日。
本来は厳かな神事であるはずの場を、エマはまるで自身を誇示する華やかな「見世物」へと作り変えようとしていた。祭壇に聖なる火を灯す儀式の最中、ノエルの黒炎が突如として暴走し、エマに襲いかかったあの事件だ。
「……っ!? な、何これ、熱い! 誰か止めて!」
「……うそ、わたくしの魔法が、暴走……?」
「危ない、エマ!」
私は迷わずエマのもとへ駆けより、その肩を抱き寄せた。ひどく動揺している婚約者のノエルには目もくれず、私は「聖女」のことを優先してしまったのだ。
悲鳴を上げて泣き崩れるエマを腕に抱き留めながら、私はノエルをひどく冷酷な目で見下ろした。
「神聖な儀式を穢し、あろうことか聖女を害そうとした罪は重い! 私、第一王子アルフレッドの名において、今この時をもって貴様との婚約を破棄する! そして、我が国からの永久追放を命ずる!」
多くの貴族や生徒たちが見守る静まり返った大広間に、私の怒鳴り声が無情に響き渡った。
ビクッと肩を震わせたノエルが息を呑む。当時の私の中には、かつて白百合の庭で彼女へ向けていた優しい感情など、欠片も残っていなかった。そこにあったのは、暗い苛立ちと、完全なる拒絶だけ。
(お前はいつも正しい。正しくて、完璧で……隙がない。私がいなくても、お前は一人で国を回せる。……君は、私がいなくてもなんでもできてしまうじゃないか)
私は、主を守るように揺らめく強大な黒い炎に、恐怖すら覚えていた。己の凡庸さゆえの劣等感と恐れを正当化するように、私は、かつて最も愛したはずの彼女へ向けて、一番残酷な言葉を言い放った。
「やはりお前は化け物だ! 早くこいつを追い出せ!」
ガチャン、と。
あの時、ノエルの奥底で、私たちが交わした幼い日の美しい約束が粉々に砕け散る音が、確かに聞こえた気がした。
睡眠を削って私のために積み上げてきた努力のすべてを、私は大勢の目の前で冷酷に踏みにじったのだ。
※※※
「……ッ、ああ……俺は……っ。なんて、愚かな……」
舌の上で溶ける金平糖の甘さが完全に消え去ると同時に、私は残酷な現実へと引き戻された。
あの日、己の劣等感から逃げるために彼女へ投げつけた言葉の刃が、今になって何百倍もの鋭さとなって、私自身の心臓をズタズタに切り裂いている。
『黒炎は呪われた魔法』だと?
違う。この安土の街を見ろ。笑顔で商いをする平民たちを見ろ。彼女は信念を貫いた。魔法が使えない者が『魔道具』という最高の技術で、誰もが笑って暮らせる街をたった一人で創り上げてしまったではないか。
「自分の理想の国」を叶えるため、信念を貫き必死に努力してきたノエルの姿は、かつての私に勇気を与えてくれていたというのに。
(すまない……っ、すまない、ノエル……!)
華やかな魔道具の光で照らされた安土の商店街。
活気に満ちた人々の喧騒の真ん中で、粗末な外套を着た私は、周囲の誰にも悟られぬよう深く俯き、滲み出そうになる涙を必死に噛み殺した。
私が自ら泥に捨てたこの世のどんな炎よりも熱い「不滅の篝火」は、今や決して手が届かない場所で、この世界で最も眩しく輝いている。
涙を堪え、震える背中で立ち尽くすアルフレッド。
その時、商店街の雑踏を割って、民たちの地鳴りのような歓声が響き渡る。
「領主様だ!」「ノエル様万歳!」
ゆっくりと歩み寄る漆黒のドレスの裾。
顔を上げたアルフレッドの瞳に映ったのは、かつての「婚約者」ではなく、世界を統べる「魔王」の眼差しだった。
「……あら。随分と、ずいぶんと小綺麗で『場違い』なお客さまが迷い込んでいらしたのね」




