第2話:魔王の領地経営。まずは不届きな羽虫を黒炎で焼く
ガタつく荷馬車に揺られながら、ノエルは紙にさらさらと筆を走らせていました。描いているのは、新しい自分の「旗印」。魔法の派手な光に頼らずとも、一目で支配を知らしめる、鋭い漆黒の紋章でした。
アトラス公爵家の令嬢としての地位は奪われ、婚約も破棄。両親の必死の説得により、かろうじて「国外追放」だけは免れたものの、与えられたのは地図の端にある名前さえ定かではない、荒れ果てた村の領主という役職。「そこで一生、静かに朽ち果てろ」という、王家からの見捨てられ方でした。
「……ふふ。お父様もお母様も、相変わらずお甘いこと。けれど、都合が良いわ。わたくしには、この『名ばかりの領地』が、天下を布くための絶好の拠点に見えますもの」
その時、馬車が村の入り口で、荒々しく止められました。道端では、泥まみれの少年が、数人の男たちに地面に押しつけられていました。
「離してください! これは村のみんなで集めた大事な野菜なんです!」
「黙れ、汚らわしい平民が。魔法も使えぬ分際で、貴族の決定に口を出すな!」
男が薄汚い笑いを浮かべ、自慢の「土魔法」を使い、地面から鋭い岩のトゲを突き出させ、少年の指先を威嚇しています。
ノエルは馬車の扉を静かに開き、泥土の上へ、音もなく降り立ちました。その鋭い眼光は、一瞬で男たちの正体を見抜きます。
(……ふん。身なりのわりに魔法の練度が低いわね。平民をいじめて優越感に浸るしか能がない、小粒な下級貴族といったところかしら)
「……そこまでになさい。見苦しいわよ、羽虫ども」
凛とした声が響き、男たちが振り返ります。
「あぁ? なんだ、どこぞの令嬢か。ここは我ら代官の管理地だ。女が首を突っ込むんじゃねえぞ」
「……管理地? 笑わせないで。今日からこの地は、わたくしの直轄地よ。わたくしの名は、ノエル・オーディン・ド・アトラス。文句があるなら、王家が発行したこの『領主任官状』を焼き払ってからになさい」
「アトラス……?」
男たちの顔色が、一瞬で変わりました。
「例の、爵位を剥奪された呪いの公爵家か! 道理で不気味な香りがするわけだ。おい、やっちまえ!」
男が巨大な岩の塊を放ちましたが、ノエルはそれを手元にあった筆先で、まるで羽虫を払うように弾き飛ばしました。瞬間、彼女の指先から放たれた一筋の漆黒の炎が、飛んできた岩を瞬時に蒸発させ、男の杖だけを音もなく消滅させたのです。
「……ッ!? 俺の岩が消えた……!? 杖が……灰に!?」
「魔法とは『見せる』ものではなく、『成す』ためのもの。そんなうすのろい石遊び、わたくしの前では無意味よ。……さあ、その子を離して。これ以上わたくしの庭を汚すなら、次はあなたたちの喉元を焼くことになるわ」
ノエルの放つ圧倒的な威圧感に、男たちは悲鳴を上げて逃げ出しました。
ノエルは、泥まみれで震える少年の前に歩み寄り、汚れなど気にする様子もなく、その場に膝をつきました。
「大丈夫かしら、少年」
少年がゆっくりと顔を上げた瞬間、心臓が止まるかと思いました。
泥だらけの視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど気高く、恐ろしいまでに美しい女性の姿。
剃刀のように鋭く整った眉に、すべてを見透かすような切れ長の瞳。日焼けなどした事のない色白の肌に映える真紅の唇は、冷徹な微笑みを湛えています。隙のない完璧な令嬢の美しさでありながら、その背後には千の軍勢を従える将軍のような、圧倒的な覇気が揺らめいていました。
「え……。きれい……」
思わず漏れた本音に、少年はすぐさま顔を真っ赤にして口を押さえます。あまりにも素直な反応に、ノエルは不敵に微笑みました。
(……ふふ、素直な子だこと。気に入ったわ)
ノエルは、少年の周囲に無自覚に漂う、研ぎ澄まされた「風の魔力」を感じ取ります。
この世界には、「魔法は王族や貴族だけの特権」という、誰もが疑わない鉄の常識がありました。だがそれは、遠い昔に支配層が都合よく決めただけのルールに過ぎません。情報の共有を禁じ、教育の機会を奪い、平民の中に眠る才能を「無いもの」として扱ってきただけのこと。
貴族だから魔法が使えるのではなく、魔法を貴族の特権に、いつの間にか塗り替えたのだ。
ノエルが悪役と蔑まれ始めた発端も、そこにありました。「生まれた階級に関わらず、才ある者には魔法の教育を施すべきだ」という彼女の正論は、特別な権利や利益を守りたい貴族たちにとって、自分たちの椅子を脅かす猛毒でしかありませんでした。
(実に……下らぬ。力を持つ者が、その力を振るう先すら見失っているとは)
「あなた、この村の者ね? ちょうどよかったわ。わたくしはこの村の新しい領主。案内を命じます。……ほら、おいで」
ノエルが優雅に手を差し伸べ、豪華な馬車へと促すと、少年は真っ青になって後ずさりしました。
「えっ……! あ、あの、僕みたいな泥だらけの平民が、こんな……貴族様の、こんな綺麗な馬車に乗るなんて、絶対にダメです! 汚れてしまいますっ!」
必死に首を振る少年に、ノエルはくすりと声を立てて笑いました。
「ふふ、何を怯えているの。そんな汚れ、わたくしの炎で焼き尽くせば済むことよ。それに、余が乗れと言っているの。この地の主の言葉に、否やはないわ。……さあ、手をお貸しなさい」
その瞬間、少年の背筋に心地よい戦律が走りました。
彼女の瞳には、一切の迷いも妥協もありません。ただ「はい」と頷くこと以外、いかなる言葉も許されない――拒絶の余地など欠片も存在しない、絶対的な支配者の気迫がそこにはありました。蛇に睨まれた蛙のように、けれど同時に、そのあまりの神々しさに魂まで搦め取られたかのように。少年は思考を放棄し、本能で彼女の命に従うことを決めていました。
「……っ、は、はい……!」
少年は、夢見心地のまま、震える手でノエルの白く細い手を取りました。
促されるままに乗り込んだ車内は、外の埃っぽさが嘘のように、甘く、それでいて背筋が伸びるような沈香の香りに満ちていました。
「……さて。わたくしの庭を案内させる前に、いくつか聞かせなさい」
向かい合わせに座ったノエルは、羊皮紙を脇に置き、切れ長の瞳で少年をじっと見つめました。その視線は、まるで魂の奥底にある「輝き」を透かして見ようとしているかのようです。
「あなたの名前は? 」
少年は、豪華な座席の端に身を縮め、消え入りそうな声で答えました。
「……名前、ラッ…ランと申します!」
ノエルは、満足げに口角を吊り上げました。
少し落ち着きを取り戻した彼から話を聞くと、年はノエルの二つ下。これから村で作った野菜を、城下にある『王国お抱えの商会』へ売りに行く途中だったという。
「ラン。頼みがあります。……いいえ、これは領主としての命令よ。わたくしたちがあなたの村に着いたら、隅々まで案内しなさい。その後、その王国お抱えの商会とやらに、わたくしを紹介すること」
「……っ、は、はい! 喜んで……!」
ランは、自分のような平民をただの使い走りではなく、大切な「案内人」として扱い、命令という形で居場所をくれたノエルの言葉に、胸が熱くなるのを感じていました。
彼女の瞳には、自分をバカにするような色はみじんもありません。そこにあるのは、自分という存在を、一つの確かな「人間」として見定める、鋭くも美しい光だけでした。それは、氷の刃のように冷たく、けれど太陽よりも強く魂を射抜くような、不思議な光でした。
「ふふ。素直な子は好きよ」
「えっ!!? す、すすっ好き!!!?!?!?!?!?!?」
ランはひっくり返ったような声を上げると、爆発でもしたかのように顔を真っ赤に染め上げました。
泥だらけの両手で顔を覆い隠し、膝の間に頭を埋めるようにして、村に着くまでの間動かなくなってしまった。
ノエルは、窓の外を流れる貧しい村の景色を冷徹に見据えた。
「……さて。まずはこの地の『理』を、金と商いの力で根底から叩き壊して差し上げましょうか」




