1.はじめての処方箋
精神科クリニックの隣にある静心堂薬局は、いつも少しだけ静かだった。
風邪薬や湿布の袋が積まれている普通の薬局とは違い、ここでは言葉の選び方ひとつで空気が変わることがある。
カウンターの向こうで処方箋を整理していた私は、入口の自動ドアの音に顔を上げた。
控えめな足取りで入ってきたのは制服姿の女の子だった。
膝が隠れる長さのチェックのスカートに紺色のブレザーとどこにでもいそうな女子高校生。
視線はやや下向きで表情は暗い。
処方箋を握る手だけが少し強く力んでいる。
「こんにちは」
声をかけると、女の子は一瞬だけ顔を上げた。
「……こんにちは」
小さな声だった。
私は処方箋を受け取る。
精神科クリニックの処方箋。そして、今日が初めての受診。
薬歴を確認すると、やはり初めての名前だった。
「今日は初めてのお薬ですね」
女の子の肩が、ほんの少しだけ固くなる。
やっぱり、と思った。
この薬局で働いて三年。この空気は何度も見てきた。
不安と、緊張と、少しの後悔。
「……はい」
「ゆっくり説明しますね」
そう言うと、女の子は少しだけ驚いた顔をした。
私は処方箋を見ながら、薬を取りに棚へ向かう。
今日出ている薬は3種類。
精神科の薬に対して、不安を持つ人は多い。
依存するんじゃないか。性格が変わるんじゃないか。一度飲んだらやめられないんじゃないか。
——大丈夫。
そう思っていても、やっぱり怖い。
カウンターに戻り、薬を小さな袋に入れる。
女の子は椅子に座ったまま、ずっと手元を見ていた。
私は椅子に腰を下ろして、袋をカウンターに置く。
女の子がぽつりと聞いた。
「……精神科の薬って」
少しだけ間があいて、
「怖くないですか?」
その声は、とても正直だった。
私は少しだけ笑った。
「怖いですよね」
女の子が顔を上げた。
たぶん、「怖くないですよ」と言われると思っていた顔だった。
私は薬の袋を指で軽く叩く
「でもこれ、性格を変える薬じゃないんです」
女の子は黙って聞いている。
「たとえばですね」
私は少しだけ考えてから言った。
「骨を折ったらギプスをしますよね」
女の子が小さく頷く。
「この薬は、心のギプスみたいなものなんです」
ほんの少しだけ、女の子の表情がやわらいだ。
私は袋の中から一つ目の薬を取り出した。
「まず、これは夜に飲むお薬です」
錠剤のシートを指で軽く示す。
「デエビゴ。眠るのを助けるお薬ですね」
女の子は少し驚いたように顔を上げた。
「……睡眠薬ですか?」
「そうですね。でも、無理やり眠らせるというより、“眠るスイッチ”を押すのを手伝う薬です」
彼女はゆっくり頷いた。
「最近、眠れてますか?」
少し迷ったあと、小さく答える。
「……夜中に起きます」
「それはつらいですね」
私はメモ用紙を一枚取り、飲み方を書きながら続けた。
「次のお薬はこれです」
二つ目のシートを見せる。
「セルトラリン。気分の落ち込みや不安を少しずつ整えるお薬です」
女の子の視線が薬に向く。
「これ、飲んだら…」
言葉が止まる。
私は少し待った。
「性格、変わったりしますか」
やっぱりその質問だ。
私は首を横に振る。
「変わりませんよ」
そして、少しだけ言葉を選ぶ。
「この薬は、気持ちを作る薬じゃなくて“落ち込みすぎるブレーキ”をゆるめる薬なんです」
女の子は黙って聞いている。
「効き始めるまで、少し時間がかかります。 だいたい二週間くらいですね」
「すぐ効かないんですか?」
「ええ。ゆっくり効く薬なんです」
私は最後の薬を取り出した。
「そして、これが頓服です」
小さな錠剤。
「アルプラゾラム。強い不安やパニック発作が出たときに飲むお薬ですね」
その言葉を聞いたとき、女の子の指がぴくりと動いた。
「……学校で、急に息ができなくなるんです」
私はうなずいた。
「それはパニック発作かもしれませんね」
女の子は少し恥ずかしそうに言う。
「スクールカウンセラーの先生に相談したら、 病院に行ったほうがいいって言われて…」
「そうだったんですね」
「最近、勉強も…全然できなくて」
声が小さくなる。
「前は普通だったのに」
その言葉の後ろには、たぶんたくさんの出来事がある。
けれど私は、そこを無理に聞かない。
薬局は、診察室ではない。
でも。
「ここに来たの、勇気いりましたよね」
女の子が顔を上げる。
ほんの少しだけ、目が丸くなった。
「一人で病院来るのって、結構大変です」
沈黙。
それから、彼女がぽつりと言った。
「……親には、まだ言ってないです」
私は驚かなかった。
むしろ、よくある。
「そうなんですね」
「怒られる気がして」
私は少しだけ笑った。
「今日ここに来たことは、すごくまともな行動だと思いますよ」
女の子は少しだけ考えるような顔をした。
私は薬を袋に戻す。
「もしですね」
彼女を見る。
「薬が合わなかったら」
女の子の表情が固くなる。
「それはあなたが弱いからじゃなくて 薬が合ってないだけです」
「……」
「そのときは遠慮なく言ってください」
薬の袋をカウンターに差し出す。
「ここは薬を渡す場所ですけど」
ほんの少しだけ笑う。
「相談する場所でもあるので」
女の子はゆっくり袋を受け取った。
最初に来たときより、ほんの少しだけ肩の力が抜けている。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げて、薬局を出ていく。
自動ドアが閉まる。
私は処方箋を薬歴ファイルに戻した。
高校二年生。学校紹介。
パニック発作、意欲低下、解離症状。
ペンを止めて、少しだけ窓の外を見る。
「頑張って来たんだろうな」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
薬局は、今日も静かだった。




