義妹がマウントをとりたがるので、“お山”に送って差し上げましたわ
メリッサ・フェーブルは、伯爵家の長女として育った。
フェーブル家は伯爵としては広大な領地を持ち、十分に裕福ではあったが、メリッサは決して甘やかされることなく育てられた。
厳格な父に才知を叩き込まれ、優しい母に礼儀と誇りを教わり、そして兄の背中から、家を継ぐ者の責任を学んだ。
だからこそ、政略結婚の話が来たとき、彼女は迷わなかった。
「メリッサ様。あなたなら、この家を導いてくださると信じています」
そう頭を下げた侯爵家の使者を見つめ、彼女は静かに頷いた。
──誰かの犠牲の上で成り立つ平和なら、自らが担おう。
それがメリッサという女性だった。
◇
タヴァレス侯爵家に嫁いでから、彼女を待っていたのは冷たい視線だった。
「まあ、質素なお召し物。あら、伯爵家ではそれが流行りなのかしら?」
義母は笑顔を貼り付けたまま、棘のある言葉を投げかけてくる。
義父はというと、公務を理由に屋敷を留守にすることが多く、メリッサに関心を示す様子はなかった。
義妹ジャクリーヌは、ことあるごとに彼女を見下し、実の兄でありメリッサの夫でもあるイグニスには、甘えるように媚びを売った。
「お兄様ぁ、お義姉様が私のお紅茶に蜂蜜をいれすぎちゃったの。伯爵家では、あんな甘さが当たり前らしいですわ」
義母は娘をかばい、イグニスは黙って目を伏せるだけだった。
それでもメリッサは黙っていた。誇りは、声高に叫ぶものではない。彼女はただ、淡々と侯爵家の家政を整え、周囲からの信頼を積み重ねていった。
やがて、家中の使用人が彼女に忠誠を誓い始めたことに、義母も気づく。
「……使用人ごときの忠義を得て、いい気になるんじゃないわよ」
そう言われても、メリッサはただ微笑む。
「彼らは私の『仲間』ですわ。扱いを誤れば、家はすぐに傾きます」
その姿は、もはや侯爵夫人というより、ひとつの城を治める「女領主」のようだった。
◇
ある日、義妹ジャクリーヌが、公爵家との縁談を得意げに告げてきた。
「ふふ、やっぱりわたくしの方が、家にとって『価値』があるということですわね」
その言葉に、メリッサは顔色一つ変えず静かに答えた。
「おめでとう、ジャクリーヌさん。今後は『公爵夫人になる者』としての立ち居振る舞いを学ばなければね。名門ほど、『傲り』を嫌いますから」
ピシリと空気が張り詰める。義母とジャクリーヌは言葉を失い、苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれども、ジャクリーヌが優位に立とうとする言動は、その日だけのものではなかった。公爵令息との婚約をきっかけに、彼女の毒は日に日に強まっていった。
「公爵家とのお付き合いでは、育ちの良さが如実に出るものですの。まあ、伯爵家出身のお義姉様では、難しいことかもしれませんけれど。」
「わたくし、舞踏会で陛下にお声がけいただきましたの。さすが未来の公爵夫人ですわね、って周りの方も仰っていましたわ」
「お義姉様って、お料理もお裁縫もお上手でいらして。わたくしは未来の公爵夫人──人を使う立場ですから羨ましいですわ」
「侯爵家のパーティー、お気に召して? まあ、伯爵家ご出身のお義姉様には、少々格式が高すぎたかしら」
「うふふ、イグニス兄さまもお忙しいですものね。お義姉様のように『控えめな』ご婦人がお傍にいらっしゃると、お気が楽でしょうね」
メリッサは一つも反応を示さなかった。ただ静かに微笑み、ジャクリーヌの言葉をまるで子どものたわごとのように受け流した。
それが、彼女と義母にとっては何よりも腹立たしかった。
メリッサが決して怒らず、否定もせず、ただ静かに「相手にする価値すらない」と憐れむような態度を取り続けたことこそが、義母とジャクリーヌの誇りを深く傷つけていたのだった。
◇
そして迎えた、運命の日──それはメリッサの誕生日だった。
誰も彼女を祝う様子はなかった。しかし、侯爵家の屋敷では盛大なパーティーが催された。
主役は、メリッサではなく義妹ジャクリーヌ。公爵家の婚約者を迎えての、華やかな披露の場だった。
「お義姉様もご一緒にどうぞ? 端の席くらい、空けておいてあげますわ」
そう囁いたジャクリーヌに、メリッサは微笑みながら、はっきりと告げた。
「私はあなたたちの飾りではないわ」
そして、その晩。彼女は一通の手紙をイグニスの部屋に置いて去った。
内容はこうだった。
『あなたは結婚前に、私に言いました。
“誰よりも君を大切にする”と。
でも、あなたが守ったのは“私”ではなく“沈黙”でした。
私はもう、あなたも、この家も見限ります。
それが、私の未来のための“選択”です。』
◇
それから一年後。
メリッサ・フェーブルは、侯爵夫人ではなく「フェーブル商会」の女当主として、社交界に戻ってきた。
もともと実家の伯爵家は広大な鉱山を所有しており、彼女はその一部の経営権を相続していた。離婚後、それを基盤に新たな商会を立ち上げ、自らの名前で帝都に拠点を築いたのだ。
男性中心の経済界で、彼女は驚異と称賛の的になった。
フェーブル商会が取り扱う宝石は、どれも輝きに品があり、王妃までもが愛用するほどだった。
彼女のもとには政略ではない、誠実な縁談の申し出が殺到した。
だが、メリッサはどれも丁重に断っていた。
「申し訳ありません……。私はまだ、自分の過去にけじめをつけておりません」
メリッサの声は静かだが、揺るぎない決意があるものだった。
◇
一方そのころ、タヴァレス家は急速に没落していた。
ジャクリーヌの縁談は、当初は順調に進んでいた。名門公爵家の嫡男との結びつきに、周囲も期待を寄せていたほどだ。
だが、ある日を境に事態は一変する。婚約者は手紙一通だけを残し、国外へと姿を消したのだった。
「傲慢で、他人を見下す態度に耐えられない」
それが、婚約者の家が公式に発表した破談の理由だった。
この一件を皮切りに、ジャクリーヌの評判は急落した。社交界では陰口が囁かれ、舞踏会の招待も激減。かつては称賛の的だった彼女の美貌も、「中身がこれでは台無し」とまで言われる始末だった。
義母も怒りと焦りを隠せず、日々、使用人たちに八つ当たりを繰り返した。家財を次々と売り払い、必死に名誉だけは守ろうとしたが、すでに時が遅かった。見限った優秀な使用人たちは、次々とメリッサのもとへと移っていった。
かつて宮廷に顔を利かせていた令嬢は「問題児」として記録され、貴族社会におけるタヴァレス家の信用は、音を立てて崩れ落ちていった。
義父はその現実を直視することを避けるように、以前にも増して狩猟や静養と称して屋敷を留守にする日々が続いた。
そしてイグニスは、ただ呆然とその没落を眺めていた。
彼の判断が、すべての始まりだった。だが、心の中では「自分は被害者だ」と思っていた。
──ジャクリーヌの性格がここまで酷いとは思わなかった。
──母があそこまでメリッサに辛く当たるとは思わなかった。
──あれは全部、他人のせいだ。自分は運が悪かっただけなのだ。
メリッサが出て行ったあの日、彼女が残した手紙は、今も机の奥にしまわれている。冷たい文面だった。けれど、イグニスは「本心じゃない」と信じていた。
──本当に愛していなければ、あんな手紙を残したりしないはずだ。
時間が経てば、きっと彼女も落ち着くだろう。いずれ戻ってくる、あるいは、自分から彼女のもとを訪ねれば──。
そんな都合のいい妄想だけが、彼を支えていた。
──今は苦しい。だが、メリッサが戻ってきてくれれば、すべて元通りになる。彼女なら、この家を立て直す知恵も、商才もある。そもそも、あれだけ尽くしてくれていたのだ。まだ自分に未練があるに違いない。
「きっかけ」さえあれば──。
彼は本気でそう思っていた。
そしてようやく、彼は決意する。
──彼女に会いに行こう。そして、やり直そうと持ちかけよう。
まるで、友人に気軽に連絡を取るような気分だった。彼は、何もかも失って初めて、ようやくメリッサの価値を思い知った。
それにもかかわらず、まだどこかで彼女を「自分のもの」だと思い込んでいた。
◇
帝都の中心街に、ひときわ目を引く石造りの建物──フェーブル商会。
ある日、その重厚な扉の前にひとりの男が現れた。イグニス・タヴァレス。かつてのメリッサの夫、いや、名ばかりの「前夫」だった。
「……メリッサに会いたい。お願いだ、通してくれ……!」
使用人は眉ひとつ動かさず、静かに応じた。
「お約束はされておりませんが、奥様にお伺いして参ります」
十数分後、イグニスは応接室に通された。
白いドレスに身を包み、すっと背を伸ばすメリッサの姿は、侯爵夫人の頃より遥かに凛としていた。
「……お久しぶりですね、イグニス様」
「メリッサ……!」
イグニスは駆け寄り、手を取ろうとした。
だが、メリッサは一歩、後ずさる。
「触れないでいただけますか。無礼ですので」
その一言に、イグニスは肩をすくめるように笑った。
「なあ……話を、聞いてくれないか。ずっと君のことを考えてたんだ。あの時は……俺も余裕がなかった。君の置き手紙、ずっと持ってたんだ。あれだけでは離縁にならない。今も正式な婚姻関係は続いている、そうだろう?」
「……で?」
メリッサの声には、感情がない。
「で、あなたは何を求めて? 『やり直したい』とでも?」
「……ああ。君が必要なんだ、メリッサ。ジャクリーヌも、母も……もう何もかもがうまくいかなくて。君だけが違ってた。君は……俺の誇りだった。だから──」
「誇り?」
彼女は静かに笑った。けれどその笑みには、冷たさしかない。
「都合のいい時だけ『誇り』と呼ばれるなんて、滑稽ですわ。あなたは私を守らなかった。あの家で何が起きていたか、知っていて、見て見ぬふりをしていた。あなたが『私』を大切にしたことなど、一度もない」
イグニスは地に額をつくように、頭を下げた。
「頼む、もう一度……!」
「……あら。ちょうどいいわ」
メリッサは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
──正式な離婚届。すでに彼女の名前はサイン済みだった。
「こちらにご署名を。あなたが言う正式な婚姻関係はこれで終わります。今、あなたがここに来てくださったおかげで、すべてがきれいに片付きます」
インク瓶と羽ペンが差し出された。
「そ、そんな…… こんな冷たく……」
「冷たいのではなく、もう関心がないのです。あなたに怒りも悲しみも、今はありません。あなたがどうなろうと、私の人生に何の影響もない」
イグニスは手を震わせながら、ペンを取る。
「……メリッサ。最後に一つだけ。……愛していたんだ。本当に──」
「ええ、それが本当なら、もっと早く気づいて私を守ってほしかったですね。まあ、もう遅いのですが」
イグニスが署名し終えたその瞬間、メリッサは書類を引き出しにしまい、扉へ向かった。
「お引き取りを。あなたの役目は終わりました」
扉が静かに閉まり、イグニスは応接室に一人取り残された。
メリッサは扉の向こうで、小さくため息をついた。けれど、その目はもう前を見ている。
「さあ、次の会議に行きましょう。あの方の手を借りずとも、私は私の人生を築けますから」
◇
宝石棚の鍵がこじ開けられたのは、数日後の早朝のことであった。
フェーブル商会の使用人たちが駆けつけたとき、犯人はまだその場にいた。ボロをまとい、髪は乱れ、両手には宝石を抱えたジャクリーヌ・タヴァレス。かつては社交界の花と謳われた女の、見る影もない姿だった。
「これは私のものよ……っ!」
メリッサが到着すると、ジャクリーヌはまるで正当な権利を主張するかのように、宝石を握りしめたまま叫んだ。
「あなたの? なるほど。では、あなたの物という証明書類は?」
「そんなもの、必要ないわ。だって、私たちは家族だった。なら、これも本来は私のものになるはずだったでしょう?」
メリッサは、かすかに微笑んだ。冷えた朝の空気よりも、さらに冷たい微笑だった。
「なるほど…… あなたには社会勉強が必要ですわね」
使用人が警備隊に報告しに行こうとすると、メリッサは首を振った。
「警備隊には通さなくて結構。代わりに、お山での『仕事』を与えて差し上げましょう」
「は、仕事……?」
数日後。
宝石の採掘地である鉱山に、粗末な服を着て、つるはしを振るうジャクリーヌの姿があった。陽に焼け、汗まみれの顔を背けながらも、その手は止められない。
「宝石がお好きなのでしょう? それなら、ご自分の手で掘り出してごらんなさい。口先ばかりの『お山の大将』であるあなたに、どれほどの『価値』があるのか──せいぜいその山で証明なさい」
メリッサの手には、あの日ジャクリーヌが奪おうとした宝石が握られていた。それは静かに煌めきながら、彼女の掌でわずかに冷たさを残していた。
メリッサは微笑みを浮かべると、その宝石をそっと引き出しの中にしまった。
◇
その後。
メリッサは、かねてより誠実な想いを寄せ、何度も縁談を申し出てくれていた一人の伯爵令息と、静かに交際を始めた。
華やかな言葉も、劇的な愛の誓いも、彼にはなかった。けれど、彼はいつも彼女を尊重し大切にしてくれた。
冷たく凍りついたメリッサの心は、その穏やかなぬくもりに少しずつ溶かされていく。
気づけば、笑うことを思い出していた。寄り添うことの優しさを、もう一度信じてみようと思えた。
春が訪れるように、ゆっくりと。
それは、誰かに与えられる幸せではなく、自らの手で選び取った、新しい始まりだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。
尚、「お山の大将」は「小さな集団や狭い環境の中で、自分が一番だと得意になっている人」の意味で使用しております。