ブードゥーの書
その日はとても蒸し暑かった。
普段なら水の音を聴けば、忽ちに気持ちが晴れ、
鼻歌でも歌いたくなるようなこの河原も、
今日はどうしたことか、まるで大気が何倍にも密にな
り、
静かに頭上からのしかかってくるような重苦しさを
感じられずにはいられなかった。
菜々子は学校からまっすぐにこの河原に向かって
自転車を走らせる。
額には脂汗を浮かべ、息を弾ませながら車輪を廻す。
河原に乗り入れられる道に入り、300メートルほど
上流に行くと深い藪が広がる場所がある。
大雨のときなどはここに土砂や樹木が流れ着き、
自然のごみ捨て場とでも表現したくなるような、
淀んだ空間である。
菜々子はこれ以上は進めないとみるや、
乗ってきた乗り物をその藪のそばに破棄し、
通せんぼするように直立する雑草を
手で押しのけながら中に入っていった。
履いていたローファーは泥だらけになり、
手も足も切り傷を作りながら、
奥に奥に入っていくと、急に開けたところに出た。
そこには物置くらいのちいさな小屋が、
ぽつんと唐突に建っている。
背丈ほどもある植物に四方を囲まれているせいか、
辺りは不気味なほど静かで、
とても遠くに河の音が聞こえる気がした。
ここにたどり着くまでに、
女学生にとっては大変な道のりだったことは
間違いないが、それでは説明がつかないほどに
菜々子は全身にびっしょり汗をかいていた。
アマゾンの奥地でも、ここよりは涼しいに違いない。
もう何年も使われていないだろうと思わせる
風貌の掘っ立て小屋の前で、
菜々子はしばらく扉とにらめっこしていたが、
ドアノブに手をかけ中に入った。
建物の中は暗かった。
昔は納屋として使われていたのだろう。
いろいろなものが床や壁に散乱していた。
鍬や長靴、雨具などの道具があるかと思えば、
空き缶やスナック菓子の袋などのゴミも、
6畳ほどの小屋の内部を占拠していた。
小さな窓が1つだけあり、そこから光が差し込んで、
奥に置いてある机を照らしていた。
そこには蝋燭が6つ灯っていて、
円を描くように配置されている。
そのテーブルの前に
男が、こちらに背を向けて立っていた。
「託人」
菜々子は学生服の人物に声をかけた。
「今日も学校に来なかったじゃない。
いい加減にしなさいよ。」
男は振り返らずに、少し間を開けてから応えた。
「学校に行くことがそんなに大事なことかい?」
「お母様が心配してるでしょう?お父様だって…」
しばらく沈黙が流れた。
「親父たちには学校に行くと言っている。
それに菜々子がうまく話をしてくれてるんだろう?」
しずかに、子供をあやすような口調で話しかける。
「…いつまでもこんなことは続けて
いられないでしょう?
もうやめにしましょうって言ったじゃない。
いつまでここに入り浸ってるつもり?」
菜々子は訴えかけるように背中に言葉を浴びせた。
その喉元を大粒の汗がいくつも流れていく。
「僕にはまだやらなきゃいけないことがある。
邪魔をしないでもらいたいね。」
ゆっくりと、
そして吐き捨てるような調子で男は言った。
よく見ると、
テーブルに直立する蝋燭の中心には
赤黒い表紙の本が置かれている。
菜々子の位置からはタイトルは見えなかったが、
年季の入ったとても古い本に見えた。
「昨日の晩、
隣の高校の谷垣くんが
バイク事故に巻き込まれたって先生が言ってた…。
あの人、一緒にハードル走ってた人だよね?」
菜々子は少し小さな声で聞いた。
「くくくくく…」
笑いを堪えるような声が狭い部屋に不気味に響いた。
男はしばらく肩を震わせていたが、
急に振り返ってまくし立てるように言った。
「あいつは自分のアカウントで僕の悪口を書いたり、
気に障る自慢ばかりしていたんだ。
天罰が下ったんじゃないかい?
因果応報ってやつだろう!」
そう言い放った男の目は
妖しく光っているように見えた。
菜々子は無意識に半歩後ろに下がっていた。
しかし、勇気を振り絞り、声を張り上げて言った。
「西高の原田くんも足をひどく挫いて
しばらく走れないって投稿してたわ!
ふたりとも託人のライバルでしょう?」
「それはついてないな…。
悪魔にでも目をつけられたんじゃないか?」
男の口元はなにかに
引っ張られているかのように釣り上がり、
真夏の蝉のような笑い声が漏れ出ていた。
「お願い、
もうこれっきりにして元の託人に戻ってよ!
託人のためならなんでもする。
だからもうこれ以上、
他人を不幸にするようなことはもうやめて…。」
菜々子は目に涙を溜めながら言葉を絞り出すと、
その場に崩れ落ちた。
すると不快な隙間風のような声がぴたりととまった。
妖怪じみた笑みもそこにはもうなかった。
男は菜々子をしばらく小動物でも
見るような眼で見下ろしていたが、
落ち着いた声でいった。
「菜々子がそこまで思いつめていたなんて
知らなかったよ。金輪際こんなことはやめる。
もちろん学校にも行く。
…すまない、僕が間違っていた。」
菜々子は顔を上げた。
「本当に?もう野良猫や野良犬を捕まえてきて、
非道いことをしたりしない?」
菜々子は部屋の隅にあるバケツを
ちらりと横目で見た。
その中には縞模様の毛皮らしきものが
放り込まれていて、
べたべたとドス黒い液体がこびりついていた。
「ああ、もちろんだ。
僕はなにかに取り憑かれていたみたいだ。
菜々に言われて、我に返ったよ。」
男はさきほどとはうって変わり、
爽やかな笑顔で女学生に寄り添った。
菜々子はずっとこわばっていた体が、
ゆっくりと溶けていくような感覚を覚えた。
「暑かったんだね、これでも飲んで落ち着きなよ。」
男がペットボトルの煎茶を差し出して、
菜々子はそれを受け取った。
「託人がわたしの言うことを聞いてくれて、
ほんとによかった…」
ようやく表情が柔らかくなった菜々子は、
手に持った飲み物をゴクッと勢いよく
喉に流し込んだ。
全身を冷気が駆け抜けたような…。
今の菜々子にはそう感じた。
男はそんな様子をそばで見守っていたが、
しばらくしてゆっくり口を開いた。
「菜々、僕がどうやって猫や犬を捕まえてきたか、
知ってるかい?
あいつらは餌を与えれば付いてくるけど、
さて捕まえようとすればするりと手をかわすんだよ!
わかるかい、この苛立たしさが!
僕だって好きで抱きしめたいわけじゃない。
むしろ一生涯、
子犬なんて抱く気なんてさらさらなかったんだよ!
だけど耐えた!根気強く食べ物を施してやったんだ。
何度も、何度もだ!
そうやって、初めて猫の首根っこを
捕まえてやったときの僕の気持ちが想像できるかい?
できやしないだろう。お菓子の家の老婆が、
ついに子どもを鍋にぶちこんで、
豪華なディナーに舌鼓を打つ時の顔は、
正にその時の僕の顔そのものだったろう!」
男が熱を込めて話している間、
菜々子はあまりの悪寒に
自分の腕を掴んで震えていた。
先程までの汗は嘘のように引いて、
歯はガチガチと鳴り、顔色は蒼白だった。
すぐ隣の男の声も、
聴き取ることができないくらい遠くに感じた。
「だがもう動物の血では足りなくなってきたんだ。
もっと高等な生物を捧げなくてはならない。
しかも穢れてない血がね…。
でもよかったよ。
菜々が僕のためになんでもすると言ってくれた!
その言葉を待ってたんだ!ありがとう、菜々…。」
もう菜々子は何も聴こえなかった。
視界もぼやけ、
薄っすらと男の顔が視えるだけだった。
その顔が、今までみたことがないほど
引きつった笑いを浮かべていたこと、
そして、男が手に持った本の表紙に写る
人間の手形のようなものが
妖しく赤く光っていたことが、
菜々子が視た最後の光景となった。
最後までお読みいただきありがとうございました。