第8話 まずは使用人から(7)
「いやああああ!来るな!来るな!!」
扉を開けると、叫んでいたのは侍女長だった。部屋の隅でアデルや他の使用人たちに囲まれているが、その顔は恐怖で歪み、左手にはサファイアのネックレス——"最も愛された宝石"が握られている。
「あああああ!この悪魔が!来るな!来るな!」
父が侍女長に一歩近づくと、さらに怯えたように顔を引きつらせ、叫び声が一層激しくなった。
「…宝石に触れたことで、呪いにかかっているようだな。」
父は低く落ち着いた声で状況を分析する。
「この宝石には、所有者以外が触れると幻覚を引き起こす魔法がかけられている。その幻覚の強さは、その者の心の清らかさに左右される。心が汚れているほど、より酷い幻覚を見るのだ。」
父の説明に、周囲の使用人たちは息を呑みながら侍女長を見つめる。彼女の恐怖に歪んだ表情と荒い息遣いが、宝石の魔力がどれほど強力かを如実に物語っていた。
「まさか侍女長が犯人だったとはな…。侍女長の部屋を隅々まで調べろ。他にも盗まれた品があるかもしれない。」
父は執事に指示を出すと、再び侍女長の方へ視線を向ける。
「その状態になってもなお離さないとは…。よほど強欲と見える。」
父は冷ややかな声で言い放つと、侍女長に近づいた。
「宝石を離せば、幻覚は和らぐだろうが、完全に解けるとは限らないな。」
父が注意深く彼女の手首をひねると、侍女長は「ぎゃっ!」と短く叫び、ついにネックレスを手放した。その瞬間、部屋の隅にうずくまり、小さな声でぶつぶつと何かを呟き始めた。幻覚から完全に解放されていないのか、恐怖に怯えた表情を崩せないままだ。
「アリシア。」
父がこちらに振り向き、静かな声で言う。
「私はもうこの宝石に触れることはできない。アリシアが拾ってくれないか?」
私は黙ってうなずき、恐る恐る宝石を拾い上げた。手のひらに伝わるひんやりとした感触に一瞬緊張が走るが、それ以上の異常はない。私は小さく息を吐き、父に顔を向けた。
「侍女長を地下牢に監禁しろ。」
父は執事に命じると、疲れたようにため息をつく。
「彼女が平常に戻るかは分からない。戻らなければエレノアに幻覚を解いてもらうことにしよう。」
緊迫していた空気が少しずつ静まり、私は胸元で光る宝石をそっと握りしめた。
――― 一週間前の家族会議
「犯人は、宝石の管理が今までと変わらなければ、私が何も手を打っていないと思い込むはずよ。だからこそ、付加価値のあるプレゼントをまた手に入れられるかもしれないと考えるかも。」
私が少し思案するように続けた。
「それが私への嫌がらせのためか、それとも単に価値あるものが欲しいからなのかはわからないけれど。噂が使用人たちの間で広がって、管理方法も変わらなければ、宝石を盗もうとする可能性が高いわ。」
「ふむ…。部屋に何か細工をするつもりか?」
父が腕を組みながら問いかける。
「できれば宝石に追跡魔法をかけられないかしら?難しいのはわかっているし、費用もかさむけど。」
私の提案に父は眉をひそめた。
「追跡魔法は厄介だな。しかも宝石にかけるなら、準備だけで2、3か月はかかるだろう。その間に犯人が怪しむかもしれない。」
「確かにそうね…。何かもっと現実的な方法があればいいけれど。」
私と父が腕を組んで考え込んでいると、母エレノアが話に加わった。
「幻影魔法はどうかしら?追跡魔法よりは時間もかからないわよ。ただし、所有者以外が触れると危険だけど。」
その言葉に、父は何か思い当たったように顔を上げた。
「…そうだ。幻影魔法が施された宝石が一つある。」
「どんな宝石なの?」
アリシアが興味津々で尋ねると、父は少し困ったように息を吐いた。
「これは“最も愛された宝石”と呼ばれるサファイアだ。ある皇女が持っていたもので、見れば誰もが魅了されるほどの美しい輝きを持つ。しかし、非常にいわく付きでね。」
父は語り始めた。
「その昔、皇女の夫が愛人にせがまれてこの宝石を贈ろうとしたんだ。皇女は激怒して、宝石に強力な幻影魔法を施した。気付かぬうちに所有者を夫にして、夫が愛人に渡すよう仕向けたんだ。その結果、宝石を受け取った愛人は幻影により正気を失い、自ら命を絶ってしまった。」
「その後、怒り狂った夫は皇女に宝石を触らせようとしたが失敗し、愛人の殺害と皇女への殺人未遂の罪で処刑された。皇女の死後、この宝石は廃棄するかどうかで議論されたものの、宝石に魅了されて犠牲者が増え、最終的に辺境のデロワ家が保管を任されたんだ。」
話を聞いていた私たちは一様に息を呑んだ。
「長い間保管されてきたが、宝石に魅了された使用人を救おうとして私の祖父は咄嗟に触れてしまったんだ。しかし、何も起きなかった。そのとき、祖父が所有者だと判明したんだ。それ以来、扱いが少し楽になった。」
父は一息ついて話を締めくくった。
「今の所有者は私だ。この宝石を使えば犯人を見つけるには最適だが、いわく付きの物だから嫌なら他の方法を考えよう。」
少し考えた後、私は頷いた。
「その宝石で問題ありません。使用人には触れさせないよう、私が責任を持って管理します。ただ、幻影魔法を犯人にかけてしまってもいいのかしら?」
「盗む方が悪いと私は思う。それに、魔法の力は年々弱まっているから、命に別状はないだろう。何かあればエレノアがいるしな。」
母はにっこりと微笑んだ。
「そうよ、私意外とすごいんだから。」
その明るい笑顔に、緊張していた場の空気が少し和らいだ。