3. オレオール邸
馬車が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。
「辻馬車ってほんとに乗り心地悪いわね。」
ガロンはぶつぶつ言って腰のあたりをさすっている。
「無事に着いたんだから有り難いと思えよ。」
先に降りたライアンはガロンに手を差しのべながら壮年の御者の方をちらりと見た。
聞こえているだろうに、表情の変化は見せない。よくできた商売人だ。
ガロンは当然のようにライアンの手を取って優雅な動作で馬車を降りた。
「ありがとう」
ライアンがそう言いながら代金とチップを支払うと御者はわずかに目を見開いてから、しかしすぐに元の表情を取り戻し、黙って礼をすると御者台に戻って馬を鞭打った。
わずかな砂煙にガロンが小さく咳込む。
「お嬢様は本当に体が弱いのか。チンピラの言うこともたまには当たってるもんだな」
ライアンの言葉にガロンはじとっとした目線を向けたが、何も言い返さずに目の前の屋敷の方を向いた。
「あなたも着いてきてください。これでも私の危機を救ってくださったお方。お礼をさせていただきたいので。」
「〝これでも〟、か。」
ライアンはニヤリと笑う。
「いいえ、失言でした。」
ガロンは言葉とは裏腹に、失言とも思っていない様子で腕を組む。
と、そのとき、壮麗な屋敷の中から人が走り出てきたので、ガロンは慌てて腕を解いた。――腕を組むなんて淑女らしからぬ振る舞いだと叱られるからだ。
出てきたのは皺ひとつない執事服を着た老年の男。代わりといっては難だが、歳を重ねた顔には深い皺が刻まれている。
真っ白になった髪は丁寧に撫で付けられ、長年真面目に家に尽くしてきたことが伺えた。
――元気そうだな
花に囲まれた長い小路を老体も感じさせずに走る執事を見て、ライアンは思わず頬を緩める。
「なに笑ってるんですか」
「うん?何でもないよ」
執事がガロンの目前に立ち止まった。
息を切らした様子もなく間髪いれずに喋り出す。
「ガロンお嬢様!随分心配したのですよ!少し目を離した隙に姿を消されたと聞いて、拐われたのか倒れたのかとヒヤヒヤしてしまいました。もうこの爺の心臓に負担をかけるのはどうかお止めくださいませ。」
そこまで言いきってやっと、老執事は胸に手を当て荒い息を吐いた。
「無理しないで爺や。」
ガロンが細い手でその背をさする。
「無理させてるのはどこのどなただと思っていらっしゃるのですか!」
執事はばっと顔を上げて噛みつくように叫ぶ。
「ごめんなさい爺や。でも私、こんな生活にはもう飽き飽きなの。」
説教をくらったガロンはしおらしく謝る。
「はあ……」
執事は溜め息とも返事ともつかぬ声を出してから背筋を伸ばす。
「確かにお嬢様の境遇はお気の毒に思っております。しかしこのようなやり方はよくありませんぞ。」
そうして一呼吸おいて、やっと気づいたようにライアンの顔を見た。
「ああ、本当に失礼致しました。お客様がいらっしゃるにも関わらずわたくしのお見苦しい姿をお見せしてしまって……」
「いいえ、お気持ちとご苦労はよくわかりますよ。」
「恐れ多いことです。それにどうかわたくしめに敬語などお使いになりませんよう。」
深く礼をする。
「どうかお顔を上げて。それからあなたのお名前を聞いても?」
〝「よくわかる」とは何だ〟と文句でも言いたげなガロンを脇目に、ライアンは執事の肩を優しく押し上げた。
老執事の黒い瞳にライアンの金の瞳が映ると、しかし執事は答えずにしばらくそのままの姿勢でライアンの顔に見入っていた。
「……何か?」
ライアンが尋ねるとはっと我に返って慌てたように姿勢を正す。
「大変失礼致しました。わたくしは当館の執事総括をしております、ハリスと申します。……しかし……」
「しかし?」
「あなた様とは昔どこかでお会いしたことがあるような気がしまして。……いえきっとわたくしの勘違いでございましょうが」
ライアンは執事の顔を見つめ返す。
しばらく何かを考えるように視線を彷徨わせていたが、やがて首を横に振った。
「私の方は覚えがありませんね。きっとどこかで見かけでもしたのでしょう。私はこれでもそれなりに有名な人間ですから。」
「ええ、きっとそうでございましょう」
執事はほっと息を吐いて頷いた。
と、再び屋敷の戸が開いて、出てくる者があった。老執事はぴたりと口を閉ざして居ずまいを正す。
見れば、プラチナゴールドの髪に青い瞳をした壮年の男だ。
ライアンは緩んでいた口元を引き締めた。
「ガロン!」
男は執事と違って、両腕を広げて悠々と歩いてくる。
「愛しの娘ガロン、私がどれだけ心配したことか!」
ガロンはライアンの横で伏し目がちに縮こまっている。
「……ごめんなさい、お父様。」
「ところで、あなたは」
男はそれ以上追及することはせず、あっさりとライアンの方へ顔を向けた。
「ああ私は――」
「この方は私の恩人です!」
ガロンが顔を上げて半ば睨むような目で男を見た。
「私を、助けてくださったのです……」
しかしすぐに俯いて声が小さくなる。
「そうか。――それで、貴方のお名前は?」
男はガロンをちらりと見たがすぐにライアンに目を戻してもう一度尋ねた。
ライアンは形のよい目に穏やかな微笑を貼りつけて応えた。
「私はライアン・ジョアンヴィルと申します。」
優雅に帽子を取って礼をする。
「ジョアンヴィル?」
途端に男の顔が好奇と期待で満たされた。
「あのジョアンヴィル商会のジョアンヴィル殿ですか?」
執事は相変わらず慎ましく気配を消し、ガロンは訳がわからないという顔で二人を交互に見ているばかりだ。
「如何にも。」
ライアンは堂々たる風格で男を見下ろした。
「して、あなた様は?ガロン嬢のお父上とお見受けしますが。」
「あ、ああ、申し遅れました。」
男は慌てた様子で居ずまいを正す。
「わたくし、オレオール家当主リガロ・オレオールと申します。不束な娘がご迷惑をおかけしました。」
「迷惑だなんて、そんなことは決してありませんよ。むしろ息抜きになって有り難く思います。たまには仕事もさぼりたくなるのが人間というものです。」
ライアンが穏やかな口調で言うと、リガロはハハハと乾いた笑い声を上げた。
「それは真理ですな。」
つられて笑うこともなくただ微笑んでいるライアンに気まずい思いをしたのか、リガロはすぐに笑いを収める。
「どうかお上がりになってお茶でも飲んでいっていただけませんか。どんな宝よりも大切な娘を救ってくださったからにはお礼をしない訳には参りません。」
癖なのか、分厚い掌を擦り合わせながらライアンを見上げて言った。
ライアンは鷹揚な態度で頷く。
「そこまで仰るなら、甘えさせて頂きます。ガロン嬢にも先程誘われたところですから。」
ガロンに目を向けて柔らかく微笑んだ。誰も彼もを虜にするような、完璧な微笑みだ。
ガロンはライアンのあまりの変貌振りに目を丸くしている。
「ほらガロン、お答えしないと失礼だろう。」
「……あ。ごめんなさい。ぜひ、私の淹れたお茶を飲んでいってください。ちょうど東方の美味しい茶葉が手に入ったところですし。」
リガロに咎められて答えながら、ガロンはまだ夢の中を漂っているような様子だ。
リガロは一つ溜め息を吐く。しかしすぐに顔を明るくして長身のライアンを見上げた。
「ではこちらへ。」
ライアンの腕に自分の腕を絡ませんばかりの勢いを持って、しかしさすがに腕を組むようなことはせず、リガロはライアンを屋敷の玄関へと導く。
その後をガロンがとぼとぼと、さらにその後ろを老執事ハリスがしずしずと歩いていった。
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