2. ガロン・オレオール
薄暗い路地裏に男と娘。
男――ライアンは溜め息を吐いて重い口を開いた。
「まだいたのか。」
「……。」
ライアンと対峙する娘は掴まれていた腕をさすりながら澄んだ青い眼でライアンを見定めるように見つめている。
「深窓の御令嬢は早く安全な屋敷にでも帰れ。」
何も言わない娘に痺れを切らしたライアンは、そう言い捨てて足早に路地を立ち去ろうとした。
しかし娘が両腕を広げてそれを阻んだ。
「何だ」
ライアンは娘の整った顔をじろりと睨む。
「水と食料と寝床を用意してもらえる場所があるって、本当ですか」
娘の声は凛として、青い眼は強い光をもってライアンの目を臆することなく見つめてくる。
その眼はライアンの心にさざ波を立てた。
「それがどうした。金持ちのお嬢さんには関係ないだろう。」
無表情で答えてやれば、娘は少しうつむいて視線を彷徨わせた。
しばらくの沈黙の後、
「では、あの子を、」
と後ろを振り向く。
「残念だがあの少年はもう死んでいる。」
重ねるように言うと娘は明らかに動揺して、ぐったりと壁にもたれる少年に駆け寄った。
マントの裾が汚れるのも構わずにしゃがみ込み、ためらうことなく素手で少年の汚れた首筋を触る。
娘の顔から感情が抜け落ちた。
「ついでに言っておくが、基本的に路地裏暮らしには金より現物だ。こんな汚いなりじゃ買い物なんてできっこないし、だいいち金はただの金属だ。腹の足しにもならない。下手すりゃ盗んだと思われてえらい目に遭う。
――それから、その少年を埋葬してやることはできない。そんな運命を辿る人間は山ほどいるからな。人は死んだら餌になる。それだけだ。」
「……。」
娘の表情は長い金髪に遮られて見えない。
――言い方が悪かったか?
言ってしまってから、ライアンは娘の様子をそっと窺った。
と、娘が顔を上げた。少し目元が赤いが泣いてはいないようだ。
「わかりました。」
娘は先ほどと変わらぬ強い眼でライアンを見た。
「私は家に帰ります。一人では何もできないということがわかりましたから。今日はこれで十分です。」
そう言うと立ち上がって通りの明るみの中へ出て行こうとする。
――〝今日は〟ね。
「あんた、どうやって帰るつもりだ。」
半ば無意識に声をかけていた。
娘はぴたりと立ち止まる。
「私は」
「ん?」
「私はガロン・オレオールです。〝御令嬢〟でも〝あんた〟でもありません。」
街の光を背負った娘――ガロンの姿に、ライアンは目を細める。
「オレオール、か。」
ぽろりと口から零れ出たその言葉を、ガロンは耳聡く聞きつけて口を尖らせた。
「ガロン・オレオールです。」
その目はどこまでも澄んでいる。
――そういう意味で言ったんじゃないんだけどな。
ライアンは苦笑して、体の力を緩めた。
「ではガロン・オレオール嬢。どうやって帰るおつもりで?」
ガロンはまだ少し不服そうな顔をしながらも、ふっと姿勢を崩した。
「……何も考えておりません。」
ライアンは内心呆れながらさらに尋ねる。
「じゃあどうやってここまで?」
「父の外出について馬車に乗ってきて、目が離れた隙に護衛を振り切ってここまで来ました。どこをどう通って来たのかは……わかりません。」
――馬鹿か。
ライアンは溜め息を吐きそうになるのを堪えて腕を組んだ。溜め息の吐きすぎも体によくないとどこかで聞いたことがあるのだ。
ガロンは潤んだ瞳であてもなく視線を彷徨わせている。先程までの強気な娘はどこへやら、そこにいるのはひ弱で世間知らずな少女だった。
ライアンはびくとも動かずに立っている。
二人の周りだけ時が止まったようだった。
耳に街の騒めきが戻ってきた頃。
「わ、私には」
ガロンがもう一度口を開いた。
「あなたしか、頼れる人がいません。」
尻すぼみにそう言って真っすぐに目を見つめてくる。
――まっすぐ目を見れば何でも言うことを聞いてもらえるとでも思ってるのか。
そうやって難癖でもつけなければやってられない気分で目を瞑るライアン。
「だから?」
と先を促すと、ガロンは少しほっとしたように顔を緩ませる。
「だから、その、街は危ないですし、先ほどのような危険がいつ起こるかもわかりませんし、その、道もわかりませんので……」
「ので?」
「……どうか私を家まで送ってください。」
ガロンは顔を真っ赤にしながらしっかりライアンの金の目を見て言い切った。
ライアンは溜め息を溜めきれず吐いてしまった。
しばし瞼を閉じてから、もう一度開く。
「私がその〝危険〟になる可能性は考えないのか?」
「あなたは私を助けてくださったので。」
即答だった。
「……。いいだろう。だが覚えておきなさい。世の中には純粋な善意だけを持って人助けをする者はとても少ない。
人を無闇に信じないことだ。」
ガロンは真剣な表情でライアンの言ったことを考えている。そして頷いた。
「でもあなたはいい人です。」
ガロンの言葉にライアンの心臓はなぜかびくりと跳ねる心地がした。
ガロンは続ける。
「だって、私を救うだけでなく、暴力を振るった彼らにも慈悲を与えた。それは彼らの苦悩を知っているからでしょう。
あなたは昔ここで名を馳せたと仰っていましたね。きっと私には想像もできないような出来事に遭い、様々なものを見てきたのでしょう。あなたはその上で善意を提供する。あなたは本当にいい人です。」
「……。」
ガロンの眼は相変わらず眩しい。目をそらしたくなるほどに。
「……簡単に知ったような口を利くのはやめた方がいい。」
ライアンはそう言うと同時にガロンを追い越して表通りに足を踏み出した。
「早く行きますよ。家の住所はわかりますか。」
振り返らずにそう言う。
「待ってください!」
ガロンは太陽みたいな笑みを浮かべると、マントのフードを被り直して小走りでライアンを追いかけた。
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