⑭【追う者】【重岡 功】
【追う者】
男の足がぴたりと止まる。
まるでその男の影のようにこっそりと彼の後を追っていた充は適当に目に入った自販機に隠れつつも目の前の男の動きを窺った。
男の視線の先では濃紺の制服を着た警備員がインカムで何かを報告している。
ここで充はようやく警備員の姿をまじまじと観察する機会を得た。
ちょうど視界の一直線先で、目標の男とその浮気相手らしき警備員の姿をはっきりと確認できる。どうやら男は警備員に声をかけるタイミングを探しているらしい。そこはかとなく男の緊張を感じ取った充の意識が警備員の女の方へ向かったのだ。
警備員は男と同じくらいの背丈で、一目見た印象からは充と同年代くらいの年齢であることが推測できる。真面目な表情でインカムに囁く彼女のことを充が認識したのは少し前のこと。凛々しく、清涼飲料水の広告に出ていても違和感のないくらい爽やかな雰囲気の彼女がまさか妻帯者と不倫しているなど想像もつかない。
今の仕事を通じて何度も思い知ったことではあるが、やはり第一印象だけで人を判断するなど浅はかなことなのだろう。充は自らの単純な考えを省みる。
改めて女警備員を視界の中央に据え、充は小さく溜息をこぼして肩をすくめた。あの女警備員はまさか自分が新米探偵に教訓を与えていることなど知りもしない。浮気調査の依頼に事務所を訪れた男の妻の顔を思い出し、充の瞼が重く下がる。
刺激的なだけでなく、時に憂鬱な気持ちになってしまうのもこの仕事の醍醐味の一つ。それがまた彼の使命感を奮い立たせる材料の一つとなる。
「二人とも、早く正体を現せ」
胸の奥でギラリと灼熱を燃やす充の焦げ付いた声に、自動販売機からペットボトルを取り出したピンクのコートの女が怪訝な表情で充を一瞥した。が、今の充にはそんな雑音を拾う余裕などなく、興奮した様子で自動販売機から身を乗り出す。周囲に自分がどう見られているかなど気にしている場合ではなかった。ついに待ちに待った時が来たのだ。
開いた瞳孔で捉えた視界の先ではインカムでの会話を終えた女警備員に、満を持してダウンジャケットの男が近づいていく。充は自動販売機から飛び出してここぞとばかりにスマートフォンを構える。まずは密会の証拠写真を撮らなければ。充の頭の中はただ一つのその欲求で占められていた。
充の待望に応えるように、男が女警備員に向かって手を伸ばす。女警備員は前を向いていてまだ男の存在には気が付いていない。サプライズで驚かせる気か。男の指先が女警備員の肩まであと数センチまで近づくと同時に充の親指もスマートフォンの画面に浮かぶシャッターボタンすれすれまで接近する。あと少し。あとたった一ミリで、彼らの裏の顔が明るみになる。
これまであまりにも焦らされすぎていたせいか胃の痛みがぶり返してきそうだった。充の胃がキリキリと呻き始める。けれどまだ大丈夫。この程度の叫びならまったく問題はなかった。しかし。
「ぎゃああああああ‼ 変態いいいいいぃ‼」
胃が爆発したのかと錯覚するほどの絶叫が辺りに響き渡り、充の手からはスマートフォンが滑り落ちていく。思わぬ叫び声に驚き、手を滑らせてしまったのだ。
叫び声に反応したのは充だけではなく、当然女警備員も俊敏に声の方向に意識を向ける。声をかけるタイミングを見失ったダウンジャケットの男は、一度彼女の肩を叩いていたにも関わらず、ここは退散と言わんばかりに彼女の背後からそそくさと姿を消していった。
充がスマートフォンを慌てて拾い上げた時にはもう男の姿は視界から見えなくなっていた。
「くそっ! あと少しだったのに──‼」
決定的瞬間を妨害した悲鳴に微かな苛立ちを覚えつつ、充は悔しさを声に込める。何か事件が起きたことはその場にいる誰もが分かることだった。目標を逃した怒りの矛先は、徐々にその原因を作った他の誰かに向けられていく。
「一体なんだよ──」
もはや独り言とは言えない声のボリュームで不満も漏らしつつ、充は声が聞こえた女性用トイレの方へと視線を向ける──すると。
「その人‼ その男を捕まえて‼ そいつ変態! カメラ持ってた‼」
女性用トイレから飛び出してきた金髪の女が彼女より前にトイレから出てきたダークグレーのコートの男を指差して大声を上げる。
変態と呼ばれたダークグレーのコートを着た男は分け目も振らずに一心不乱に群衆の中を駆けて行く。途中、濃紺が目に入ったのか、男は女警備員がいる方向を器用に避け、混乱で動けない人たちを容赦のない体当たりで押しのけながらぐんぐんと追手の金髪との距離を離していった。
きゃあきゃあと騒ぎ声を上げる者たちは男の逃走に怯えながらも危害を恐れて逃げていく。そうでない場合には、まだ何が起きたのか状況が把握しきれず動けない者が大半だった。目の前で起こる逃走劇に呆気にとられているのは充も同じで、何よりも変態と呼ばれた男が同じコートを着ていることに気を取られていた。
「えっ⁉」
コートばかりに気を取られていたせいか、お揃いを着た彼が弾丸にも匹敵する勢いで迫ってくることを認識できたのは彼が目の前まで来た時だった。
「どけよウサギ野郎!」
充と目が合ったマスクの彼は、道を封じていた充のことを突き飛ばし罵声を浴びせつつ去って行く。強い力で身体を押された充はその場に倒れ込む。頭を打たないように手で受け身を取るので精一杯だった。当然、手に持っていたスマートフォンも床に叩きつけられるように落下し、倒れ込んだ充の目の前で無残にも画面が欠けて飛び散っていった。
一秒にも満たない一瞬の出来事が、充の瞳にはスローモーションで映されていく。証拠を集めるためにともに頑張っていた相棒が大怪我を負わされた。しかも決定的瞬間の目前でそれを邪魔した輩の手によって。
「──ざけんなよ」
充の頭の中で何かが切れる音がした。恐らくそれは、堪忍袋の緒が切れた、と同義のことだった。
充は急いで上半身を起こして鞄に手を突っ込む。この中には充の商売道具たちが入っている。充のお守り。お手製の探偵用具たちだ。
「ふざけんな‼ 人の邪魔して逃げんじゃねぇ‼」
怒りに任せて充が手に取ったのは、お守りの中でも一番作るのが得意なボールだった。腕を振りかぶり、充はお手製のボールを男に向かって投げつける。充の手から勢いよく放たれたボールは真っ直ぐに空気を切り裂き、逃亡を続ける男の背に当たる。すると男の背で弾けたボールからはキラキラのグリッターが無数に飛び出す。男の背中にはペンキのようにべったりとグリッターが張り付いた。
ボールに当たった人物を見逃さぬようにと充が仕込んだものだ。男の背中で爆発したのは、探偵業で何か不測の事態が起きた時にと日頃から用意していた秘密兵器、グリッター爆弾だった。
「そいつ‼ そのキラキラ野郎を捕まえろ‼」
ド派手なキラキラを張り付けた男を指差し、充は脚を絡ませながらも立ち上がった。ちょうど男が向かう先にいた人たちは、突然の要求にどよめきで答える。しかしキラキラを負った男は充の警告に構う素振りも見せずにひたすらに走り続ける。まるで逃げ道を知っているかのような迷いのない足取りだった。
充も慌てて男の後を追うが、すでにかなりの距離を取られている。もはや誰か救世主が現れるのをひたすらに祈るしかない。救世主にその声が届くように充は声の限りを張り上げる。
「そいつを──そいつを捕まえてくれ‼」
遠くの方から聞こえる鬼気迫る声に、売店から出てきたばかりの神田林は何事かと眉を顰める。周りの人たちも何が起きているのか把握できていないようで、何やら不安そうな面持ちで連れと顔を見合わせるばかりだ。
状況が見えず、神田林は人々の注目を浴びるダークグレーのコートの男に目を向けた。全速力でこちらに向かって走ってくる彼のコートからは得体の知れない液状のグリッターがキラキラと舞っていく。そんな彼の異様な姿に神田林はますます顔をしかめる。ただ分かるのは、このキラキラした男を追う者がいて、その声色から緊急事態が起きているのだということだけ。
戸惑いで一歩後ろに引く人たちの間を縫って進み、神田林は群衆よりも一歩前に出てキラキラ男のことをじっと観察する。恐らく彼はこのまま障害物のないこちらの通路に走ってくるに違いない。辺りを窺うふりをして、神田林はさり気なくちょこっと片足を前に出してみる──すると。
「うぎゃっ──!」
カエルが潰れるような声とともに神田林の目の前をキラキラ男が転がっていく。どうやら追われる男は神田林がタイミングよく出した足に引っ掛かり、見事にすっ転んだようだ。
かなりの速度を出していたのか、男は背に塗られたグリッターにも負けない派手な転倒を見せてくれた。少し足に引っ掛かっただけでも威力は抜群だったらしい。
予想以上の足止め効果があったことに神田林が驚いていると、キラキラ男の後を追って同じようなダークグレーのコートを着た男と、もう一人、カーキのダウンジャケットを着た男が飛び出してくる。
二人は床に突っ伏したまま打った頭を抱えているキラキラ男に飛びかかり、男が身動きを取れないようにしっかりと手足の自由を封じていった。途中、ダークグレーのコートを着た男が自分と一緒になってキラキラ男を捕まえるダウンジャケットの男を見て目を丸くしたように見えた。神田林も二人に協力し、暴れる男を落ち着かせようとその肩を抑えつける。
「あ──あなたは……」
そこで神田林はようやく気付く。ダウンジャケットを着た方の男は、数時間前にこの空港のトイレで会話を交わしたあの紳士だ。
「さきほどは、どうも……」
ダウンジャケットの男も神田林のことを覚えていたのか、神田林と目を合わせて軽く会釈をしてみせる。神田林の方は見知った顔があることに少しの安堵を覚えて息を吐く。
「一体何事ですか?」
「よくは分かりませんが、この男を変態だと叫ぶ女性がいまして」
「変態?」
「はい。女性用トイレから出てきたんです」
「なんと」
まさかの逃亡の経緯に神田林は目を丸くする。二人が会話している中、もう一人の若い男は何も言わずにダウンジャケットの男を軽く睨みつけていた。
その間にも、三人が逃亡犯を捕らえたことで次第に見物人が三人のことを囲っていく。ざわざわと喧騒が大きくなっていることに気づいた神田林はハッと顔を上げて我に返る──と、今度は目の前に濃紺の制服を着た見覚えのある警備員が立っていた。
「お手柄ですね」
神田林に向かってニコリと笑う彼女の一言を皮切りに、群衆たちは次々に拍手を始める。ゆっくりと、しかし大波の如く広がっていく喝采の渦に神田林は照れくさそうに会釈を返した。
「お二人も、確保にご協力をありがとうございます。実は、もうずっとこの盗撮犯を──」
キラキラ男を抑える残りの二人に対して軽快に笑いかけていた女警備員の顔が途端に固まる。そして次の瞬間。
「えっ──お父さん?」
驚愕とともに女警備員が絶叫する。彼女の視線の先では、カーキのダウンジャケットを着た方の男がばつが悪そうな面持ちで身を縮めていた。
「──はっ?」
そこでようやく、ずっと黙っていたもう一人の男、堂前充が声を出す。
「お父さんんんん⁉」
ここにきて出た今日一番の雄叫びに一同の視線は一斉に彼の放心した表情を向く。
*
【重岡 功】
彼女の手を離してもう数十年が経つ。小さく、ふわふわとした白い手のひらが虚空を掴んだ時、心なしかその笑顔が陰ったようにも見えた。
遠き日に見た彼女の幼い笑みは脳裏に焼き付いてどんな時もそこにあった。
決して煤けることなどなく、その後の何十年分の記憶に埋もれることもなく。
あの懸命な温もりを忘れることなどできるはずがない。
ラウンジでコーヒーを飲む重岡功は黙ったまま腕時計を睨みつける。カーキのダウンジャケットを着た彼は特に怒っているわけでもなく、役目を全うする時計の針に恨みがあるわけでもなかった。というよりも、重岡本人は腕時計を睨みつけている自覚そのものがなかった。
ただ緊張で表情筋が強張り、つい眼差しに力が入って険しくなってしまっただけだ。
重岡がこの地に来たのは数日前。支社の視察ついでに心ばかりの観光をして、今日、妻が待つ東京へ帰る予定だった。しかし予定は狂うもので、急な大雪によって今は足止めされている。妻には帰りが遅くなると事情を伝えたものの、彼女がどこか浮かない顔をして信用していない様子だったのが心に残る。自分が嘘でもついているのだと思ったのだろうか。
確かにここ最近、北海道への出張が増えたことを妻が面白く思っていないことはなんとなく感じていた。妻の気持ちも分からなくはない。数年にも及んだ不妊治療の末にようやく宿した命をお腹に抱える彼女が同時に不安を抱えていないはずがない。
重岡としてもできれば妻の傍にいてやりたいのが本心だった。しかし新しく増えた北海道支社の監督責任を任命されてしまった以上は現地に行かざるを得ない。本来であれば数か月間北海道に滞在して欲しいとの要望があったが、そこは譲れず、出張という形で認めてもらうことに収めたのだ。つまり重岡もなにも妻を完全にほったらかしにするつもりはない。けれどやはり、妻としては不安は尽きないものなのだろう。
北海道ではないものの、ただ北国出身というだけで妙な大役を担ってしまったものだ。その点に関しては重岡も深く反省はしていた。
そんな北海道の新支社も数か月経った今はだいぶ落ち着いてきた。
恐らく今回の出張を最後にしばらくここに来ることもなくなるだろう。
重岡は腕時計から視線を上げてコーヒーを口に運ぶ。今日はまだ何も食べていない。空きっ腹にひたすらにコーヒーを流し込むのは腸に負担をかけてしまうだろうか。多少の罪悪感を覚えつつ、重岡はコーヒーカップを机に戻す。
何か食べた方がいいのは分かっている。だがまったく腹は減らない。緊張が身体を巡り、それどころではないのだ。
懸念を抱えた妻を待たせていることや、空港で足止めされていることが問題ではない。
虚ろな瞳でコーヒーの水面を見下ろす重岡は、自らの決断にまだ自信が持てていなかった。
出張が一段落したということは、もう北海道に来る機会は今度ほとんどなくなるはずだ。子どもが生まれれば余計にそうなる。つまり今回が最後のチャンスとも言える。飛行機が飛ばないことを告げるアナウンスが流れた時に腹をくくったはずだったのに。
重岡は自問自答を繰り返して頭を抱える。
何度もチャンスはあった。けれど今日が本当の最後。これを逃せば自分の過去と向き合う勇気を永久に失ってしまうだろう。
分かってはいる。分かってはいた。そんなに簡単でもないことを。すべて自分の我が儘だということを。
脳みそがぐちゃぐちゃと掻き混ざっていくのに呼応して、重岡の腹もぐるぐると嫌な音を立て始める。
「……うっ」
思わず呻き声が出ていった。これは本当に腹が痛い。気のせいではない。じわじわと不快な気配が腸を蝕み、気分までもが悪くなっていく。
「これはまずい」
先ほどトイレに行ったばかりではあったが、またしても重岡はあの場所に赴く必要があるようだ。
気が遠くなってしまう前にと、重岡は平静を装って立ち上がる。無駄に焦れば腹もつられて大騒ぎしてしまいそうだったからだ。
トイレに向かう途中も、重岡の頭の中ではあの日の小さな白い手がぼんやりと見えている。まだ若く、今よりもずっと賢かったように思えるあの日々。
北海道に出張と聞いた時、本当は新支社などどうでもよく、最初に思い描いたのは懐かしい過去に残した宝物のことだった。
学生時代に付き合っていた彼女の故郷でもあるこの場所は、彼女が命懸けで守った幼い命が辿り着いた場所でもある。
腹の痛みで朦朧としてきた意識の中で、彼女が胸に抱いていた小さな赤子が笑いかけてくる。数十年前に別れた自分の娘の笑顔を忘れられるはずがない。
別れた娘が北海道で暮らしていることを知った時、居ても立っても居られなくなってしまった。だから重岡は、最後の最後に人生最大の悪事を働こうと決意したのだ。
赤の他人という立場のままでも構わない。彼女と一言会話をしたいと。
しかし、やはり物事は予定通りに運んではくれないもので、ここでも誤算が生じてしまう。むしろ後ろめたさを抱えながら彼女に接触を試みた自分に対する罰とも言えるかもしれない。
「えっ──お父さん?」
「お父さんんんん⁉」
彼女の声が聞こえてくるまで、キラキラ男を捕まえることに必死になって自分こそが悪人だということをつい忘れかけていた。隣で一緒になってキラキラ男を捕まえていた男の絶叫が耳を突き、罪悪感に更なる追い打ちをかける。
彼女にそう呼んでもらう資格など自分は持ち合わせていないはずだ。
「…………佐那」
不意打ちで現れた娘の姿に重岡の声が霞のごとく空気に溶けていった。
ちょうど無言の時を埋めるように、空港内には救世主のアナウンスが響き渡る。
『ご連絡いたします。運航再開についてのご案内です──』