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⑬【似てない兄妹】【オタクたちの遠征】 【追う者 追われる者】


【似てない兄妹】


 外を見れば、無数の粉雪が空を舞っていた。

 妹と再会する前に見た景色とは一変し、荒れていた天候は大方落ち着いてきたように思える。航空路では除雪車とともに多くの職員たちが大忙しで走り回っていた。

 視線を内側に戻し、汐音は隣に座る妹を見やる。

 彼女もまた数時間前に別れた時とは別人のように穏やかな表情をしている。

 まさかこの妹が汐音の憧れの師、青柳を引き連れて戻ってくるとは到底予想もできず、汐音の興奮はまだ余韻を引きずっていた。


 自分の見ていないところで妹には何やら大きな心境の変化があったらしい。青柳のことを「おじさん」と言ってのけた時には肝が冷えたが、彼は妹にどう呼ばれようと気にすることはなかった。むしろ友人などと言ってくれたのだ。それが例えお世辞だとしても、著書においても自らを難儀な性格と自負する彼にその言葉を言わせるだけの力が妹にあったということだ。

 一体、妹は彼と何を話したのだろう。

 知らぬ間に妹がとんでもない成長を遂げた気がした。いやもしかしたら自分が知らないだけで妹は最初から想像よりもずっと強く賢い人間だったのかもしれない。


 そう考えれば、妹のことを気にかけていたつもりで彼女の本質に目を向けていなかったとも捉えられる。

 汐音は自分のこれまでの浅い結論を省みた。

 とにかく、いつも曇天を背負っていたような暗いオーラを放っていた妹の香凜の雰囲気そのものが今はすっかり明るいものへと変わっている。彼女が自覚しているのかは分からないが、汐音にとってはそれは願ってもない出来事だった。兄の矜恃を守るために意地でも表情には出さないが、心の中では歓喜の気持ちがじわじわと広がってきている。


「ねぇお兄ちゃん。青柳さんの本、たくさん持ってるの?」


 汐音に横顔を見られていることに気づいた香凜が不思議そうな顔をして首を傾げる。自分の顔に何かついているのかと勘違いしたのだろう。汐音は妹を凝視していたことを誤魔化すように咳払いをする。


「持ってるよ。ったく……本当に青柳さんに失礼なことしてないだろうな?」

「してないよ。ちょっと……お金は借りたけど。マッサージチェアの──」

「はぁ? お前それ早く言えよ。もう青柳さんどっか行っちゃっただろ。借りたお金はちゃんと返せ」

「あ……っ、そっか──ごめんなさい。でも青柳さんは気にしなくていいって言ってくれたよ」

「それは青柳さんなりの気遣いだっての。まったく」


 汐音はハラハラとした気持ちを抑えきれずに天を仰ぐ。


「──で? 俺がいない間、青柳さんと一緒にいたわけ?」

「うん。ずっとじゃないけど。人混みが怖くて逃げてたら、同じように静寂を求めてる青柳さんと出会ったの。青柳さん、いい人なんだね」

「ああ。気難しいで有名な人だがあの人の本を読めばなんとなくそれは伝わってくるよ。彼自身が書いた本にはそれなりの人柄が表れてる。言葉の端々にな」

「そうなんだ。わたしも読んでみたいな」

「青柳さんの本は学術書の類だからそこに物語があるわけじゃないぞ。お前、小説以外に本読めるのか?」

「当たり前でしょ。お兄ちゃん、わたしだって専門書を読むことくらいできるよ」

「なら旅行から帰ったら好きなだけ読め」

「うん、ありがとう。あ、ところでお兄ちゃんは何してたの? あちこち散策してた?」


 本の貸し出しを許可してくれた汐音と目を合わせて嬉しそうに笑った後、香凜はふと気が付いたように訊ねてくる。

 汐音は香凜と別れた後の自分の行動を振り返り、ついさっき四階で別れたピンクのコートの後ろ姿を思い出す。


「そ。そんなとこ。まぁ──色々してたよ」

「お兄ちゃんは暇つぶしの達人だもんね」

「暇つぶしってわけじゃないけど……まぁそれなりに、良い時間が過ごせたかな」


 璃沙と名乗った女性が別れ間際に見せた控えめな笑顔が脳裏に蘇ってきた。彼女の友だちが来たことで後はその友人に任せようとあの場を離れたが、二人の間に若干険悪な雰囲気が漂っていたことを思い返して汐音は少し心配になる。

 だが彼女が璃沙の言っていた真白という人で、彼女にとっての大切な友人であればきっと問題はない。数時間前まで赤の他人だった自分の心配など無用なはずだ。

 汐音は自分にそう言い聞かせスマートフォンを取り出す。青柳との遭遇にすっかり心を乱されていたが、香凜を呼び出したのにはちゃんと理由があった。


「じゃ、母さんたちに連絡するか」


 汐音がビデオ通話を始めようとしていることを察した香凜はこくりと頷く。


「お母さん、心配してるかな」

「ははっ! してないわけないだろ」

「お兄ちゃんが一緒にいるのに?」

「俺がいるかいないかは関係ない。むしろ俺のことよりも母さんたちは香凜が無事かどうかって気になってしょうがないだろうよ」

「──そうなの?」

「そうだって。香凜、お前はもっと自分が大事にされてることを自覚しろ」


 けらけらと笑いながら通話ボタンを押した汐音は香凜の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪を派手に乱された香凜が兄に対して何かを訴えかけようとすると、小さな画面の向こうから切羽詰まった声が聞こえてくる。


『ちょっと! 全然連絡くれないじゃない! メッセージくらいくれたらどうなのよ。で、今の状況はどうなの? 汐音、ほら、香凜の顔もちゃんと見せて』


 早速始まった母の早口攻撃に辟易としながら汐音は画面を香凜に向ける。

 画面に映るのは父を押しのけてでも子どもたちの様子を確認したい母の懸命な表情だった。


「お母さん、大丈夫だよ」


 母の気迫に圧されつつも香凜が画面に向かって手を振ると、母の安堵の声が聞こえてくる。汐音の顔を見た時とは雲泥の差だ。

 留学に行くと言った時には大層寂しそうにしていたくせになんと心変わりの早いことか。母の心は秋の空よりもくるくると移ろいゆく。しかしそれもまた母の面白いところでもある。やれやれと汐音は肩をすくめた。

 何より、香凜の笑顔を見た時に嬉しかったのは自分も同じだ。母の気持ちは痛いほどに分かる。


「ちょっと母さん、俺のことも気にしてよ」


 画面を支配する香凜の顔に割り込むようにぐっと顔を近づけ、汐音は軽く母をからかう。

 汐音の調子の良い口調に、子どもたちを心配するあまり強張っていた母の表情筋がくしゃりと緩んでいった。



【オタクたちの遠征】


 背後に座る兄妹らしき二人が和やかな雰囲気で誰かに電話している。

 漏れ聞こえてくる会話を察するに、恐らく二人の家族と話しているのだろう。

 横目でちらりと背後の様子を窺った哉太の視線は、次に斜め前に座る仲間三人の背中へと向く。雪が落ち着き、運航再開の見込みが見えてきた待合所には再び多くの人が集まり始めていた。空いていた椅子に二人と三人で別れて座ることになった五人もその一員で、今は正式アナウンスがあるまでそれぞれが自由に時間を過ごしている。

 百華は語学アプリでの学習を再開し、成谷も百華に感化されたのか珍しく真剣な顔で勉強をしている。正澄は相変わらずゲームに勤しみ、哉太はぼーっと人間観察をしていた。だがあまりに頻繁にきょろきょろ辺りを見回していると、そろそろ近所の人間に不審者認定されてもおかしくはない。

 目の行き所を失くした哉太は迷いに迷った挙句、結局のところ窓の外の粉雪を見るしか選択肢がなくなってしまった。


「悪い。お待たせ」


 そんな哉太を助けるように、蓋のついたカップを両手に持ってきた圭人が隣に座る。


「ありがと。混んでなかった?」

「そんな混んでない」


 片方のカップを哉太に渡し、圭人は椅子に置いていた荷物を膝の上に移した。


「あー、温まる。室内でもちょっと寒いのに、外で働いてる人たちには頭が上がらないな」


 コーヒーを一口飲んだ哉太はまるでビールを煽った後のように気持ちよさそうに息を吐き出してしみじみと呟く。


「そうだな。仕事とはいえ、厄介なもんだ」

「な。俺たちも他人事ではないけど。なぁ俺たち、一体どんな職に就くと思う?」

「──どうだろうな。できるだけ希望通りにいけばいいけど」


 哉太からの問いかけに圭人はコーヒーを飲みつつ微かに笑って答える。


「けどみんな、きっとそうなる」


 まるで自分は違うとでも言うような言い回しだった。圭人の声は穏やかだ。が、哉太は彼のその言い方が少し引っ掛かった。


「ああ、俺もそう思う。もちろん圭人もな」

「え──? だけど俺は……」

「文句は受け付けてません」

「──はは、そうだな、ごめん」


 哉太は右手の甲で圭人の肩を軽く抑える。彼がその先を言うことを物理的にも留めたかったのだ。

 圭人は哉太を見て軽く笑った後で手元のカップに視線を移して目を伏せた。そしてもう一度、誰にも聞こえないくらいのか細い声で「ごめん」とこぼす。

 彼の横顔を見ていると、毒牙に徐々に蝕まれていくように彼の表情が暗くなっていくのが分かる。隣で何やら浮かない顔をしている友人を放っておけず、哉太は顔をしかめつつ彼の顔を覗き込む。


「おいどうしたんだよ。圭人、そんなに警備員に怒られたのを気にしてる? 確かに余計な仕事は増やしちゃったけど……そんな気に負わなくても」

「いや違う」

「じゃ、なに?」


 圭人は即座に哉太の言葉を否定する。哉太は彼の本心が見えずに片眉を上げた。すると圭人の黒目がゆっくりと哉太の方を向く。哉太と比べれば圭人の方が背は高く、どちらかと言えば大型犬に似ている。しかしこの一瞬だけは彼が子犬のように見え、哉太の心臓がギクリと動く。


「さっき、ここに戻る前にさ──聞こえたんだよ。大病や怪我をしないと人は変われないって。その言葉が気になって……」

「え? なんで」


 圭人の言う通り、哉太にもそんな会話が聞こえた記憶はある。だがそれがなぜ圭人の心の重しとなるのかまでは想定がつかず、合点がいかない哉太は眉根を寄せた。


「大病しても、俺って別に変わりない。相変わらずダッパーが好きだし、呑気に毎日を過ごしてる。本当のところ、まだ実感が沸いてない。何度も自分を納得させたつもりだったけど──」


 圭人はコーヒーが入ったカップを両手で握りしめながら弱弱しく微笑む。


「やっぱ俺も変わらなきゃダメかな」


 圭人の寂しそうな声がぽつりと哉太の耳に落ちた。哉太が何も答えられずにいると、圭人はコーヒーをもう一口飲む。その表情はどこか名残惜しそうだった。

 哉太は手元のカップに一度視線を落とし、その数秒後に何かを決心したようにコーヒーを一気に飲み出す。


「──哉太? 熱くない?」


 まだ湯気の立つコーヒーを一気飲みする友に仰天し、圭人は目を丸くして哉太を凝視した。圭人の注目に構わずカップを空にした哉太は手で軽く口を拭いてから力強く首を横に振って否定する。


「──ない。駄目じゃない。別に変わらなくたっていい」

「哉太……?」


 突如として政治家の演説のように真面目な口調で語り出す哉太に圭人は首を傾げる。哉太は身体ごと圭人の方を向いて真剣な眼差しで真正面に彼を見た。


「病気だからって必ずしも変わることはないだろ。俺は経験したことないから偉そうなことは言えない。もちろん良い変化も悪い変化もたくさんあるんだろうけど。でも、だからって、無理矢理に自分を矯正しようとか、必要以上に自分を追い込むのは良くないと思う」

「そう──かな……?」

「そうだ。それに性格や生活だけじゃなくて将来を諦める必要もないと思う。圭人だってまだまだ夢を語っていい。ってか、語ってくれよ。圭人の夢、俺が聞きたい」


 圭人が戸惑っているのはその表情を見れば明らかだった。哉太の熱弁に圭人は言葉を失ったままだ。空になったカップを椅子に置き、哉太はぐっと胸の前で拳を握る。


「俺、さっき夢がないって言ったよな。でもほんとはある。お前と過ごすこと、それが俺の夢」


 そこまで言って、哉太は得意気に笑ってみせた。頼もしくも切ない彼の笑みには、決してお前を一人にしない、そんな決意が滲んでいた。


「絶対、次のライブも一緒に行こうな」


 哉太の強気な笑顔を前に圭人は僅かに口を開けたまま瞬きを繰り返す。

 目の前で起きているドラマを傍観している第三者、まさにそんな表情だった。

 それが自分に向かって起こっている事だと圭人が実感したのは、黙ったままの彼に不安を覚えた哉太の表情が崩れかけた時だった。


「──今日は、なんか怒涛だったな」


 空港に着いてから今の瞬間までの出来事が走馬灯のように頭を駆け抜け、圭人はぼそっと呟いた。続けて、目一杯に膨らんだ風船から不意に空気が抜け出したかのごとく圭人の表情が綻んでいく。

 だんだんと笑顔へと移ろっていく圭人の表情の変化に哉太が首を傾げた。


「圭人?」

「哉太、そういや俺、まだ返事してない」


 脱力して笑う圭人の柔らかな眼差しに哉太がむっとした表情を返す。


「今? まさか今言うつもりか?」

「いや──まだわかんないけど」


 額に手を当てて前のめりになる圭人はどうしたものかと言わんばかりに笑ってみせる。少し意地の悪いその笑顔に哉太はさらに目を細めた。


「哉太、俺──」

「ちょ、待った」


 何かを言おうとする圭人に対し、哉太は片手を前に出して止める。


「そんなすぐに返事しなくてもいいって。何もない旅行を楽しむって決めた直後だし。俺だって別にそこまで心は強くない」

「断られる前提?」

「いや知らんけど。とにかく、俺にも猶予をくれ」

「なんだそれ。告白させてくれって言ってたくせに」


 哉太の断固とした口ぶりに圭人がくすくすと笑う。


「まだ時間はたくさんある。だからなにもかも急がなくてもいい」

「──ん。そうだな……うん、そうだ」


 哉太の主張を自らの肌に沁み込ませるようにじっくりと受け止めた圭人は、先ほどよりも明るい声色で同意する。


「ありがとう哉太」

「やめろ。恥ずかしいだろ。礼を言われることじゃないって」


 照れる哉太が目を逸らす。圭人は手に持ったコーヒーを飲み、前傾させていた身体を元に戻した。


「返事は延期にする。でも一つ、約束したいことがある」

「約束? なに?」


 圭人の堂々とした声に哉太がすかさず瞳を向ける──と。その先で、彼はニコリといたずらに笑って宣言する。


「次の周年ライブも、一緒に行こう」



【追う者 追われる者】


 ついに有益な情報を耳にした。


「分かりました。では私、近くにいるので向かいますね」


 インカムに威勢のいい返事をし、佐那はシャキシャキと早歩きする。

 女性用トイレ付近で不審な人物を見たとの報告が入ったのだ。


「やっと尻尾を出したか」


 求めていた情報に否が応にも心は躍る。不審者を追うのだと思えば決して心を躍らせていい事象ではないと理解はしているが、空港の治安を守ることが自分の使命。それ即ち、不審者を見つけることこそが任務遂行の喜びとイコールで繋がってしまうのだ。

 不審者に近づけば近づくほど、その歓喜の瞬間がすぐそこにあるということ。

 ここ最近頻発していた女性用トイレにカメラを仕掛けるなどという陰湿な事件を早急に解決したかった佐那が張り切るのも無理はない。

 彼女が見ているのは目の前のその先にいるはずの不審者のみ。

 因縁の敵を見つけ気合いの入った彼女の意識では背後のことは疎かになり、自分自身の後を誰かがつけているなど想像すらしていなかった。

 が、実際のところ、ぐんぐんと大股で歩く佐那の後ろにはカーキのダウンジャケットを着た冴えない雰囲気の男が続いていた。

 尾行していることが彼女に気づかれぬよう慎重に後を追ってはいるものの、歩く速度の早い彼女に合わせるために男の足取りは段々と雑なものへとなっていった。

 ダウンジャケットの男は仕事熱心な彼女を見失わないことに必死なようだ。

 彼もまた、自分が尾行されているなど思いもしなかったことだろう。


 しかし目標を逃すまいと血眼になっているのは何もダウンジャケットの男だけではない。

 彼の一挙手一投足すべてを記録してやると意気込んだ新米探偵、堂前充は、ダウンジャケットの男に不審に思われないように注意しながら尾行を続けていた。

 佐那の動きに合わせて急いで動き出した彼を見るに、二人の間に何かしらの関係があることは明白だった。スマートフォンを掲げたまま、充は初の単独任務達成のために懸命に二人を追いかけていく。

 それもすべて、現場を抑えた時の歓喜の瞬間のため。あの感覚は、どんな仕事の達成感をも上回る格別な喜びに満ちるのだ。


「それにしても……どこに行くんだ?」


 男の前を行く警備員を一瞥し、充は独り言をこぼす。

 急にせかせかと動き出した警備員の行く先を充もまだ知らなかった。充は何往復もした空港のマップをなんとなく頭に描き、この先に何があるかを推測する。


「たしか──」


 この先にはトイレがある。


「みんなお腹下してんのかな」


 そんなわけないだろうと頭では分かっていても、心理的には面白い方を優先してしまう。くだらない考えを振り払い、充はダウンジャケットの男のみに視線を集中させた。

 一方で、佐那の視界の遠方にはようやく女性用トイレのマークが見えてきた。ちょうど金髪の長身女性がトイレに入っていくところだった。どこか見覚えのある後ろ姿だ。今日どこかで会ったはず。ふと彼女のことが気になった佐那は記憶を掘り起こし始める。と、彼女の歩く速度が僅かに緩やかになっていった。

 佐那の興味を誘った彼女は、まさか自分のことを思い出そうとしている人が近くにいることなど知りもしない。

 トイレに入った真白は用を足した後で手を洗おうと洗い場へ向かう。

 親友と仲直りできた喜びと安堵を思えば、鏡に映るのが例え見慣れた自分の顔だろうとついにやけてしまう。彼女と仲直りできなければ、きっと今頃号泣していたことだろう。そうならなくて本当に良かった。しみじみとそう思いながら手を洗った真白は、タオルを持っていないことに気づいてハッとする──だが。


「──え? なんで──?」


 同時に、顔を上げた瞬間に鏡に映った人影に真白の表情が一気に青ざめていく。

 ここは女性用トイレ。真白が入った時には既に二つ埋まっていて、出てきた時にはそのうちの一つは空いていた。そして今、もう一つの個室から出てきた人間の姿を認識した真白は背筋を凍らせた。個室から出てきたのは女ではなく男だったのだ。

 ダークグレーのコートを着た彼はマスクをしている。自分が見られていることを察したのか、無感情な瞳で鏡越しに真白と目を合わせてきた。彼もまた真白がいたことが想定外だったらしい。


「なに──?」


 しかも彼の手元には何やら怪しく光るものが見える。ちゃんと見えたわけではなかったが、恐らくそれは小さなレンズ。小型カメラだ。


「ひえぇっ……!」


 恐怖と気味の悪さで身震いする真白に舌打ちし、男は急いでトイレを出ていく。


「ぎゃああああああ‼ 変態いいいいいぃ‼」


 真白が絶叫したのは男がトイレを出た直後だった。不審者と出くわしてすぐには状況が理解できずに声も出なかったが、数秒経った今ではすべてを把握できていた。

 しかし把握すればするほど悍ましさに寒気が走った。

 感情のままに喉から叫んだ真白は早くこの場を去りたくて堪らなかった。

 結局、濡れた手を乾かすこともしないまま、真白は男の後を追うようにトイレから駆け出した。



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