⑫ 【仲良し旅行】 【似てない兄妹】
【仲良し旅行】
沈黙の時間もいつもなら何ともなかった。むしろ言葉を交わさずとも共にいられるその瞬間が愛おしいくらいだった。
しかし今回の沈黙はそうではない。
妙な緊張感に胸騒ぎが収まらず、生きている心地すらまともに感じられない。
「ねぇ、真白……」
前方で揺れる滑らかな金髪を見上げ、璃沙が恐る恐る声を発した。真白は振り返ることもなく「なに」とだけ答える。まだ彼女の怒りは静まっていないようだ。たったの二文字に複雑な心境が見事に表れている。
「そんなに早く歩かないで」
「別に早く歩いてない。背が高い分リーチがあるだけ」
無愛想な真白の返答に璃沙は寂しそうに眉根を寄せた。
「──真白、ごめんね」
本当は目を見て言いたかった言葉だったが、こちらを見る気がないのなら仕方がない。喉の入り口で押し留められていた言葉を璃沙は耐え切れずに外に出す。もう抑えることはできなかった。身体の奥底から押し上げられたこの言葉を一秒でも早く彼女に伝えたかった。
璃沙の切なる声に真白の足が止まる。
「何も言わずにどこかに行ってたこと? それとも、知らない男と親しそうにしてたこと?」
涼やかな瞳が璃沙を一瞥する。久しぶりにこちらを見てくれた友人の眼差しには声の調子と同じくいくつもの感情が混ざっているようだった。が、どちらにせよ機嫌が良くないことは一目瞭然だ。
「そのどっちもそうだけど、それだけじゃなくて」
璃沙が首を横に振ると真白の顔が完全にこちらを向いた。璃沙の言葉の続きに興味を持ったらしい。彼女の興味が失せてしまう前にすべてを言い切ってしまおうと、璃沙は息継ぎも惜しんで早口で思いの丈を打ち明けていく。
「これまでのこと全部。真白はいつだってわたしのことを心配してくれて、おまけにわたしの気持ちを尊重してくれてたでしょ。最近だと──陽彩くんのこと。彼のわたしに対する態度とか、扱いを見て、真白はわたしに警告しようとしてくれてたんだよね。この旅行もそう。ここのところわたしの日常は、ほとんど陽彩くんの主導権のもとにあった。いつも彼のことを考えて、すべてが彼中心で。彼に愛想尽かされたくなくて、わたしは自分を見失ってた。彼のいいなりになって、それが彼との関係を繋ぐ正しい方法なんだって自分を思い込ませてた。だから真白は、そんなわたしの目を覚まさせようと、色々と考えてくれてたんでしょ。さっきの男の子──あの人と話をして大事なことに気づいたの。やっとだよ。情けないけど、わたし、やっと気づけた」
璃沙の熱のこもったスピーチを真白はじっと黙って聞いていた。彼女としっかり目を合わせ、璃沙は力強く呼吸する。
「わたし、自分は大丈夫だって勘違いして、必死に陽彩くんの理想通りの人になろうとしていた。でもそれはね、いつも傍に真白がいてくれたから調子に乗っていただけなの。もしこのまま無茶を続けて心身がぼろぼろになろうとも、真白がいるからどうにでもなるって、きっと甘えていたの。真白の想いも知らないで、わたし、勝手に真逆の方向で真白を利用していた。でも真白の望みは違ったはず。真白はわたしの都合のいい包帯になりたいわけじゃない。その場しのぎの誤魔化しだけじゃなくて、ずっとわたしを助けようとしてくれてたのに。真白は優しいし、しっかり者だから。わたしが陽彩くんのことが好きって想いを直接貶すこともしないで、彼の悪口を言うわけでもなく、わたしが自分で自分の気持ちに気づけるようにって、ちゃんと、自分の意思で目が覚めるようにって、そんなきっかけをいっぱいくれてたよね。わたし、今日まで気づけなかった。真白の気持ちも知らないくせに自分のことばっかりで──酷いことをたくさん言っちゃってた」
璃沙の瞳に涙が滲む。けれど璃沙は意地でもその雫を頬には流さなかった。目頭に力を入れ、ぐっと感傷を抑え込んだ。
「さっき、陽彩くんに電話をしたの。それはけじめのため。もうわたし、彼に振り回されていたくないから」
「──あの男の子は、誰?」
ずっと黙っていた真白がぽつりと訊ねる。まだそこが引っ掛かっているようだ。怪訝な表情の真白に璃沙は彼と出会った経緯を説明する。
「彼は、人の目も気にせずぬいぐるみの後ろで泣いてたわたしの話を聞いてくれたの。初対面の彼の目にも、やっぱりわたしのことは異常に映ったみたい」
「へぇ」
事情を聞き、真白は先ほど四階で別れた彼のことを思い出す。友人が璃沙を迎えに来たことに気づいた彼の安堵した態度を思えば、そこまで悪人ではないことは頷ける。
「陽彩くんに電話したんだね」
「うん」
「どうだった?」
「──相変わらず、怒ってたよ。わたしの気持ちなんかどうでもいいって感じで。多分、そうだろうなって思ってたけど……それを知りたくなくて、向き合うことをずっと避けてた。わたしは陽彩くんの理想の人になろうとしてたけど、それは陽彩くんにとって都合のいい人間でしかない。彼のためだけに生きるような、そんなお人形を、きっと彼は求めているから。でもわたし、お人形にはなりたくない。わたしはちゃんと意思がある。嫌なことは嫌って言いたいの」
「……璃沙、今でも本当に彼のこと好き?」
真白の控えめな問いかけに璃沙は一度目を伏せる。同じ質問にさっきはちゃんと答えられなかった。けれど今は、自信を持って答えることができる。
「ううん。今は違う。ただ愛想尽かされるのが怖かっただけ。彼の不機嫌な顔を見るのが怖かっただけなの。たまに優しくしてくれるそんな時のちょっとした情に、ずっと呪われていただけなんだって分かる」
璃沙の語調は明瞭だった。そんな堂々とした彼女の雰囲気に真白は驚いて目を丸める。璃沙の正直な不安の吐露に、少しばかり真白の表情から余計な力が抜けていった。やっと、くぐもりのない彼女の声が聞けた気がしたのだ。
「私、璃沙はこのままでいいのかなってずっと疑問に思ってた。なんか、陽彩くんが璃沙を操って支配して完全犯罪してるみたいに見えて。璃沙の言う通り。早く気づいて欲しかった。璃沙に今の自分の気持ちにちゃんと向き合って欲しいってずっと願ってた。でも思えば、私も曖昧なやり方ばっかりでよくなかった。ちゃんと言葉にすればよかったよね。じゃないと伝わらないこともある。特に璃沙は、情熱的だから暴走すると止まらないこともあるし」
「ふふ……だよね。周りが見えなくなることがたくさんある。その分、傍にいる真白には迷惑かけちゃうよね。ごめん」
「ううん。私はそんな璃沙が好きだからそれでいいの。でも私も言うべきことは伝えるべきだった。璃沙が傷ついて、弱っていくのを見るのが辛かった。このままエスカレートすると、いつか璃沙が璃沙じゃなくなっちゃうって思うと怖かった。ずっと心配してた。だけど陽彩くんとの幸せそうだった時を思えば余計なことを言うのも怖かったの。余計なお世話だって、璃沙と、疎遠になっちゃったらって」
「そんなこと絶対にないのに」
「私こそごめんね、璃沙。さっき璃沙の姿が見えなくなった時も寂しくて。早く謝りたくって探し回ってたの。そしたら知らない人と一緒にいて、なんだか璃沙が全然違う人に見えて、それで、なんか虚しくなって悲しかった。ごめん、冷たく当たって」
頭を下げ、真白は苦しそうに表情を歪めた。友人の嘘偽りのない本音を受け止め、璃沙は真白の腕を掴んで顔を上げさせる。
「真白、謝ることなんかない。わたし、その真白の気持ちがすごく嬉しいから。ずっと心配かけて本当にごめんね」
「なんだか遠回りしちゃった気分。私たち、もっと正面から言いたいことを言い合うべきだね」
「うん。そうだね。それ、すっごく楽しそう」
真白と璃沙は顔を見合わせて同時に吹き出す。これまで長い時間を一緒に過ごしてきたのに、ここに来て改めて互いの素顔を見つけた気分だった。
「今回の旅行もね、気分転換に世界が広いことを璃沙に見て欲しかったから誘ったんだ」
「お店の閉店に合わせてじゃないの?」
「それは建前。本当の目的は璃沙の気を逸らすこと。陽彩くんと少し距離を置いてほしくて」
「ははっ、そうなの? やられたなぁ。真白はとっくに、陽彩くんとの未来がないことを見抜いてたんだね」
「うん、って言いにくいけど……例えば結婚しても、ずっと璃沙の気持ちは後回しだろうなってことは予感してた」
「あはははっ! 少し前のわたしなら、そんなことない、結婚すれば陽彩くんだって変わるよぉ、とか言って反論しそう。陽彩くんプライド高いから実際は変わらないと思うけど」
手を叩いて笑う璃沙に向かって真白は彼女の予測に同意する──と、璃沙がふと真顔になって首を傾げた。
「やっぱあいつが変わるのは無理かな?」
「無理だね」
「無理かぁ」
「そう、例えば大病とか大怪我とか、それくらいのショックがないと性格なんてなかなか変わらないんだから」
「そっか。それはそうかも。わたしも人のこと言えないだろうしなぁ」
「でも璃沙は、今この瞬間にも変わっていってる。あいつとは比べられないよ」
「ほんとっ?」
「うん」
嬉しそうに小さく飛び跳ねる璃沙に真白は確信したような笑みを浮かべて頷く。
璃沙が真白の隣に並ぶと、二人は合図をするわけでもなく同時に歩き出す。
「でもねわたし、やっぱり真白が羨ましい」
「え? なんで」
「ほら、雄大くんは真白の恋人ではないけど、真白のことを大事にしてくれるでしょ。わたしも、そんな風に思ってくれる人が欲しかったなって」
「私がいるでしょ? 璃沙が困ってたら何を置いてでも絶対にそっちを優先させるよ。もうまどろっこしいこともなしで。嫌われることももう恐れない」
「真白……! なんて素敵な言葉を……!」
感激を表現するため璃沙は両手を頬に当ててきらきらと瞳を輝かせた。そしてそのまま申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「でもね、真白みたいにそう言えたらかっこいいけど、わたしは約束できないかも」
「うん。璃沙らしい」
「ふふ。旅行ね、ほんとはずっと楽しみにしてたんだよ。だって大切な親友との大事な時間だもん。最近は全然一緒に遊べなくて寂しかった。わたし、やっぱり真白のこと大好きみたい。真白がいなくちゃつまらない」
「私も同じ。璃沙がいないときっと退屈しちゃう」
「あのね、わたし、帰ったらちゃんと陽彩くんと別れようと思ってるの。ちゃんと話し合おうって。人をいいように支配して悪気ないふりして傷つけてくるあいつに完全犯罪なんて完遂させてやらないんだから」
「すごい。立派だよ璃沙。短時間でここまで変わっちゃうなんて……あの男の子、なかなか隅に置けないなぁ」
晴れやかな璃沙の笑顔を見やり、真白は意味ありげに腕を組む。すると真白が彼に興味を示したことが嬉しかったのか、璃沙が声を弾ませた。
「汐音くんっていうの」
「名前までかっこいいとは」
「ね? だよねっ? 彼、かっこよかったよね? 真白もそう思う?」
興奮気味に言質を取ろうとする璃沙の朗らかな尋問に真白はやれやれと苦笑する。
「──もう、切り替え早すぎだって」
*
【似てない兄妹】
スマートフォンの画面に浮かぶ時間を見やれば、この空間に閉じ込められてからそれなりの時間が経ったことを実感する。
スマートフォンをポケットにしまい、香凜は隣を歩く壮年の男を見上げる。
「あの、おじさん。すみません、最後まで……」
「構わない。この場で出会ったのも何かの縁だ。最後まで責任は果たさなければ」
「ありがとうございます」
小さくお辞儀をし、香凜は男の歩幅に合わせて大股で歩く。
「君の兄は大学生だったか」
「はい。調子がいいところもあるけど、いい兄です」
「それは幸運なことだな」
マッサージチェアを離れた二人が向かうのはまさしくその兄のもとだった。
香凜のスマートフォンに兄からメッセージが届き、両親に連絡をするためにそろそろ合流しようとの要請があったのだ。
マッサージチェアでしばらく休んだおかげか、香凜の体調もかなり回復してきていた。が、彼女の青い顔を覚えている男が念のため香凜に付き添う流れになった。いくら高性能とはいえ、男もマッサージチェアに座るばかりでは飽きてしまったようだ。
「兄は何を学びに行くと言っていた」
「デザイン工学です。私には難しくてよく分からないけれど、兄はとてもハマっているようです」
「ふぅん。まぁ、目指すべきものを見つけた者は強いだろう。少なくとも目標がある。目標は時として自らを励ます動機となる」
「目標、ですか」
男の口調は平坦なものではあったが香凜にはなかなかに痛い言葉だった。
「私、まだ将来のことなにも考えられなくて……全然決まっていないんです。理想をデザインしたいという思いはあるけど──こんな優柔不断は、駄目……かな……?」
「駄目なものか。むしろ羨ましい」
「え……?」
思いがけない男の返答に香凜は丸い瞳を彼に向ける。香凜と尻目で黒目を合わせた彼は「当然だ」と頷く。
「世の中は興味に溢れすぎている。その中で直感的にこれだ、と自信を持って指をさせる者は限られている。そんな特異な例ばかりに焦ってはいけない。他人ばかりを見るより先に、世の中を見回してみればいいだろう。きっと色々と吟味していれば悲観する暇もなくなる。君はかしこい。慌てることはない。芸術家が作品にかける時間の長さもそれぞれなのだから。大事なのは図面を意識しているかいないか、それだけだ」
男の顔に見えた笑みは瞬く間に真顔へと戻ってしまった。まるで儚い夢物語を見ているようだった。だが香凜は彼の束の間の微笑みを脳裏に焼き付け、その夢に口角を持ち上げる。男にそんなつもりはなかったかもしれないが、それは香凜に向けたエールに思えたのだ。
「どうして、おじさんには本音が言えるのかな」
香凜がぽつりと呟くと男は彼女をちらりと見やる。彼女自身が出す答えを知りたいのだろう。彼は黙ったまま、決して彼女の思考の邪魔をしようとはしなかった。
「ふふ。すごく不思議。もしかしたら──おじさんが、透明人間みたいだからかも」
「それは光栄だ」
香凜のはにかみに男は軽く会釈を返す。彼の嫌味のない紳士的な仕草に、香凜は男がシルクハットを被っているかのように錯覚する。自分も真似してみてたくなり、香凜は控えめに膝を曲げてぺこりとお辞儀してみた。
楽しそうな彼女の笑みを瞳に映した後で、男は斜め前方に視線を移す。
「あれが君の兄か」
男が見ているのは椅子に座ってスマートフォンを覗き込んでいる今時の髪型にラフな服装の男だった。彼は後ろを向いているので二人のことにまだ気づいていない。
「そうです。おじさんはなんでも分かるんですね」
「ただの勘だ」
男が低い声で呟くと、まるでその声が聞こえたか、というタイミングで香凜の兄が二人を振り返った。
「お兄ちゃん」
「香凜……え……? お前、なんで?」
「え? どうしたのお兄ちゃん…?」
二人を見るなり兄の汐音は急いで立ち上がってぽかんと口を開ける。兄の驚愕の表情の意味が分からず香凜は首を捻った。よく見れば、汐音の右人差し指が香凜の隣を指している。香凜の視線が隣の男に向かう。すると男は、手に持ったコートをかけ直して香凜に囁く。
「君の兄は、どうやら勤勉な学生らしい」
「……え?」
香凜がきょとんとしている間にも汐音はどたばたと足音を立ててこちらに向かって走ってくる。
「初めまして! 青柳さん、ですよね……? 俺、デザイン工学を学んでまして。その一貫として、先生の本、もう何冊も読んでいます」
「先生? お兄ちゃん、このおじさんと知り合いなの?」
「おま……おじさんとか失礼だぞ青柳先生に向かって……!」
興奮気味の汐音とは対照的に何が何だか事情が分からない香凜は軽く目を回しながら隣の男に助けを求めた。そういえば、前に青柳という名前を汐音が口にしていたような覚えはある。
「このお方は、今の人間工学界で最も有名な学者である青柳先生だ。俺の目指すデザインも、先生の研究にいくつもインスピレーションを受けてる。偉大な人だよ。香凜、お前、なんで青柳さんと──」
混乱しているという点では汐音も香凜と変わらなかった。香凜と青柳を交互に見やり、今にもショート寸前だ。
「学者? おじさん、そうなの?」
香凜が青柳に訊ねると彼はシンプルに一回だけ頷いた。
「あああああの、何が起きてるのかよく分かりませんが妹がご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか。すみません、まさか貴方と一緒にいるとは思わず……!」
慌てる汐音はぺこぺこと頭を下げながら香凜を自分の隣に引き寄せる。
「ほらお前も、よく知らんがもし世話になったならお礼!」
「あ……うん──青柳さん、ありがとうございました」
動揺したままの汐音に釣られ、香凜も改めて深々とお辞儀する。
「迷惑などとんでもない。礼など不要だ」
「でも、青柳さん──」
「彼女のおかげで私にも気づきがあった。助かったのは私の方だ。何も気にすることはない」
「えっ」
青柳の言葉に汐音が顔を跳ね上げると、青柳は淡々とした口調で続ける。
「彼女は、私の友人だ」
憧れの学者から飛び出た思わぬ発言に汐音はあんぐりと口を開けて固まってしまう。
一方で、隣で嬉しそうに笑う香凜の表情は少し誇らしげだった。