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各所の戦い〜ザオトンの死〜

 479.8.20〜29

 ラダミーア軍とサウゼンス軍が一進一退の攻防を繰り返している間、ゴバル地方北西部ヘティゴ郡ではケヘテリ軍とサウゼンス軍が国境付近で小競り合いを繰り返していた。

 ケヘテリ王ゼルギジェは前回の消極策とは打って変わって積極的に攻撃したが、サウゼンス軍は堅守に務めてケヘテリ軍を押し返す一方で別働隊を用いて緩衝地帯を通過しケヘテリ軍の後方にあたるケヘテリ地方東端部ルジル郡の砦を攻撃してケヘテリ軍の補給線を脅かすなど、前回とほぼ似た戦術を用いた。

 八月の二十日には前線で小競り合いがあり、これはケヘテリ軍が僅かに優勢のまま終わり。翌日二十一日、二十二日ともに睨み合いのまま日が暮れた。

 しかし、二十三日の早朝にケヘテリ側の領主がサウゼンス側の領地に略奪しに向かったところでサウゼンス軍のニザ率いる30人の物見部隊と遭遇し、そのまま戦闘状態に入るや、両軍の手勢がその付近で次々と交戦状態に入り、正午には両軍の手勢が入り乱れる死闘に発展し、午後にはケヘテリ軍の将軍バズロン率いる二千とサウゼンス軍のヤグマ率いる二千が激突して激戦になった。

 ケヘテリ軍の猛将サロガンが50の歩兵を率いてサウゼンス軍に猛攻を加え、サウゼンス側の領主モゼリの歩兵40を壊滅させ、同じくサウゼンス側の領主ユミバの歩兵20、弓兵15を破って勢い付き、サウゼンスの守備を次々と突破して功名を挙げたが、サウゼンスの将軍ヤグマがしいている堅守陣を見て突破を諦め、即座に方向転換して後退した。サロガンは追撃を受けて軽傷を負ったがなんとか逃げ延びた。

 サロガンの突破効果で一時的にケヘテリ側が優位になり、ケヘテリ側の領主ギチルムがさらなる猛攻に出たが、これはサウゼンス側の領主ビランの猛反撃により撃退された。

 サウゼンスの兵卒達によると、ビランは斧を片手に兵を鼓舞しながら奮闘し、ギチルム率いる部隊を相手に獣の様に咆哮しながら暴れていたという。

 ギチルムの兵はビランの猛獣の様な咆哮に身が竦み、ギチルム自身も「こんなバケモノが居るなんて聞いてないぞ!」と叫びビランのヤバさに仰天した。

 ビランは一人で25人の歩兵を斬り倒し、二人の重装騎士を怪力で兜ごと叩き潰し、三人の重装騎士を鎧ごと叩き割って半身不随の戦闘不能状態にしたが、無茶が過ぎて斧が折れてしまった。しかし、斧が折れると拳一つで奮戦し、6人の歩兵と二人の軽装騎士を討ち取るという凄い暴れぶりを見せたという。

 丸腰になってもなお大暴れするビランを止めようと渾身の刺突の構えをしたギチルムが迫るが、ビランはギチルムの槍を掴んで引き込み、カウンターのラリアットがギチルムの顔面に炸裂、二回転しながら地面に叩きつけられ、戦意も骨も砕けたギチルムは命からがら逃げ果せた。ギチルム隊に続いていたケヘテリ側の領主達の手勢はビランの暴れぶりに恐れ慄いて勢いを失い後退した。

 この戦いでビランは「猛獣伯」の異名で知られるようになり、ギチルムは「骨折り損の腰抜け」と呼ばれるようになったという。

 

 サウゼンス側はケヘテリ軍の侵攻がラダミーア軍のガミダラ山脈奪還の陽動及び緩衝地帯に割拠する周辺独立勢力の切り取りが主な目的との情報を得ており、国境を固めていればいずれノルテニア率いる正規軍やリハインハル率いるデルトム正規軍が援軍に訪れるので、ケヘテリ軍は自ずと引いていくと見ていた。

 ケヘテリ側もラダミーアや西ギスヴァジャの要請通りにサウゼンスを陽動しつつ、主な目的はケヘテリとサウゼンスとデルトムの国境沿いの緩衝地帯に割拠する独立勢力(ゴバル諸勢力の残党が独立した勢力で恨みからケヘテリにもサウゼンスにも与していないうえ、ゲリラ戦を得意とし、毎年のようにケヘテリとサウゼンスを略奪する)を取り込んで領土を拡大することであり、サウゼンス軍とは本気でやり合うつもりはなかったという。

 


 サウゼンス軍の王太子であるカミルはヤグマ将軍と相談の上で夜襲を検討したが、斥候がケヘテリ軍の夜襲部隊を察知し、夜襲部隊をそのまま迎撃に向かわせた。

 ケヘテリ軍はサウゼンス軍の対夜襲の備えを察知して夜襲を中止。両軍とも半数が備えを解かずに夜を明かし、早朝には残りの半数が交代して備えを固めた。

 その翌日に両軍とも小競り合いが行われただけで終わったが、一部の部隊が激闘を繰り広げていた。


 ケヘテリ軍の王太子であるノーランは森の別働隊に合図を送り、手勢を率いて撤退するサウゼンス軍を追撃したが、サウゼンス軍のカミルが気声を挙げて猛反撃してきた上に岩の影に伏せていたサウゼンス軍が側面から攻撃してきたので、ケヘテリ軍も森に伏せていたケヘテリ軍別働隊と連動してサウゼンス軍を逆挟撃した。

 ケヘテリ軍とサウゼンス軍は互いに奮戦するが全くの互角で互いに攻め切ることができない。

 乱戦の最中、斬り込んできたノーランがカミルと遭遇して一騎打ちする事態に陥り、ノーランとカミルは二十合余り打ち合って勝負がつかなかった。

 ノーランは武芸の素質があり、祖父の手解きを受けて以降は武官の調練を受けて武勇の才を開花させたが、サウゼンスのカミルは父のノルテニアの手解きを受けて武芸にも励んでいたが、まだまだ未熟だった。

 三十合打ち合ってからはノーランが優勢になり、カミルは劣勢のまま持ち堪えていたが、ノーランの槍がカミルの槍を弾き、追撃の突きを放つがカミルは器用に交わして後退したのでノーランは追撃した。


 「カミル様を失う訳にはいかん!」


 サウゼンス王家の家臣ロッスフが気声と共に薙刀を振り上げてノーランの槍の軌道を変え、そのままノーランと斬り結んだのでカミルは間一髪で負傷を免れた。

 カミルはそのまま退却し、ロッスフは部下達の援護を受けてノーランの槍を捌き、撤退した。

 ノーランは矢を弾きながら後退し、味方部隊と合流した。

 一騎打ちは中断したが、両者の勝敗は明確であり、ケヘテリ軍は勝鬨をあげ、サウゼンス軍はカミルを守りながら後退した。

 ケヘテリ兵は追撃に移ろうと気声をあげるが、サウゼンス兵が「来るなら一人でも多く道連れにするまでよ!」と気声をあげて迎撃する構えを見せたので、ノーランはサウゼンス軍の死兵化を見て撃破は容易ではないと判断し逸るケヘテリ兵を制止した。

 カミルは自らを囮に有利な地形に誘い込んで一矢報いようとしていたが、ノーランの指揮の下で纏まっているケヘテリ軍を見て逆襲は空振りに終わったと判断し、ケヘテリ軍を警戒したまま撤退した。


 カミルは陣地に帰還すると、母のルミエから厳しく叱責されたあとに抱擁されて無事を喜ばれた。カミルの弟のシャランと妹のレミュは兄を励まし、カミルは己の未熟を恥じて鍛錬に励む意志を固めたという。

 

 ケヘテリ軍陣地ではノーランの勇猛さに父の面影を見たゼルギジェは「王太子ともあろう者が武官の真似事か?」と言ったが、ノーランは「私にも代々西を守った王家の血が流れてますから、当然でしょう」と返し、ゼルギジェは「ふん、所詮は取るに足らない勇よ、お前は王者に相応しい智も備えるべきだ」と言ったが、内心では頼もしく育ったノーランを誇りに思っていた。

 これを機会と見たゼルギジェの次男・ホルクはゼルギジェの点数稼ぎをしつつノーランを貶めたが、これがゼルギジェの癇に障り、ホルクは叱責を受けた。

 ホルクは叱責を受けて屈辱の余り顔面蒼白になり、冷や汗を流し、沈黙したままゼルギジェとノーランが去るのを待つしかできなかった。

 家臣の一部がホルクに対して嘆息したり遠回しに馬鹿にする声が聞こえた為、ホルクは一転して激怒し、「父上が正嫡の子である私をここまで疎むのは何故だ!」とゼルギジェを憎み、ノーランには「賎民出の側室の子の分際で汚い手を使いやがって!」と激しく憤り、後日ノーランの友人達を痛烈に批判した後に賊を唆して闇討ちさせたが返り討ちにされた。

 ホルクの怒りの矛先は気に入らない家臣や目に映った領民達に向けられ、理不尽に責め立て痛めつけて発散したが、うんざりした家臣達は悉くがノーランの下へ出奔し、領民達はノーランに保護された。実行犯の賊はノーランに捕えられてもさらに暴れたので怪力で締め殺された。

 ノーランはホルクを呼び止めて実行犯の賊の首を渡し「許してやれるのはここまでだ、次は気づいたら貴様の首が落ちてるかもしれんぞ?」と鬼気迫る声で脅したが、ホルクは平然と賊の首を捨ててノーランに「はて、許すとは何の事だ?私には身に覚えがないが?」と惚けたが、ノーランの手がホルクの首を掴んで易々と持ち上げると、流石のホルクも慌てて何かを喋ろうと足掻くが気絶しかけ、寸前のところでノーランに投げ捨てられた。


 逆恨みしたホルクはゼルギジェに訴えたが、一部始終を見ていたゼルギジェには通用せず、逆に「…やり過ぎれば、いくら我が子とて容赦せんぞ!」と警告したのでホルクは萎縮した。


 ホルクは全く反省しなかった為、ノーランはホルクを弟から敵として見て扱う様になり、ホルク派は一切の容赦なく叩かれて駆逐されていき、ホルクはこれまでの立場を失った。


 サウゼンス軍とケヘテリ軍の小競り合いは各所で繰り返されたが、ゼルギジェは勝負に出る機を掴めずにおり、ルミエは将軍のバメザンと連撃して戦列の整理をしつつ維持してゼルギジェに付け入る隙を与えなかった。

 ノーランも威力偵察や挑発を行ったりしたものの、バメザンの息子であるロワートスが複数部隊を統制して逆にノーランを挑発したがノーランは無視して去っていった。

 ホルクは手勢を率いてロワートスを攻撃したがサウゼンス軍の鬼気迫る猛反撃にあい、手勢は壊滅してホルク自身も愛馬を失い乱戦の中で負傷して慌てて退却した。

 サウゼンス軍はホルクを撃退しても守りを固めていたので、ノーランは逆襲を諦めて潜ませていた手勢と共に陣営に帰っていった。ロワートスもノーランを追撃せずに守りを固めて次に備えた。

 両軍とも小競り合いこそあれ大勢に変化なく戦線は膠着したが、ケヘテリ軍は兵糧に余裕がなかった上にラダミーア軍の敗退と西ギスヴァジャ軍撤退の報告が入った上にデルトム軍が北上してきた報告があったので、ゼルギジェはサントラタに潜ませた間者に合図を送ってから速やかに講和の使者を送り交渉に移った。

 講和の使者にはウルゲ特務高官が出向き、サウゼンス側はイギルン宰相が講和交渉を担当し、ウルゲとイギルンの舌戦の末に若干ケヘテリ側不利の講和条件を飲む形で両国の講和が成立。ケヘテリ軍はデルトム軍に側面攻撃される前に撤退を完了させた。

 この講和締結の報せはルミエの影を通じてキンスに知らされ、キンスは予定通りに休息地に定めていた陣地で1日の休息を取り帰還に備えた。

 ケヘテリ軍に伝わっていたのはキンスの偽報であり、ケヘテリの斥候隊がキンスの擬兵策に惑わされていた為であるが、南の国境に巣食う賊を壊滅させて周辺の集落の征服に成功したゼルギジェは鼻で笑った。


479.8.30〜9.15


 ルミエは講和が成るやケヘテリ側に協力した小領主達に使者を遣わして投降を呼びかけ、いくつかの小領主達はサウゼンスに従属したが、残りの小領主達はゴバル諸勢力時代に受けた恨みが強く残っていたので呼びかけに応じず、呼びかけに応じた小領主達を罵り村落や町を攻撃して回ったが、急行してきたサウゼンス軍によって撃退され、そのまま侵攻されて領地を削り取られた。

 潮時と見た小領主達は早々に降伏して最低限の所領は安堵されたが、それでも反抗的な態度を崩さない小領主達はルミエの外交戦略によって街道を封鎖され、物流が滞った事で経済的にも追い詰められ、幾らかの小領主達は所領没収を余儀なくされ、それを拒んだ小領主達は抵抗も虚しく攻め滅ぼされたが、ノルテニアの温情でなんとか族滅だけは免れた。

 ルミエは未だにゴバル中部の支配が進んでいない事を案じてデルトム、ケヘテリにほど近い緩衝地帯にまでは手を出さず、領内の街道の整備と井戸の増設に注力した。

 デルトム軍はゴバル中部の国境付近まで迫ったところでケヘテリ軍撤退の報と西ギスヴァジャの不穏な動きやサントラタの東征作戦による動員令の報告を受けて本国に引き返し、29日には本国に半数以上が帰還した。

 キンスの策でデルトム本国には動員予定数の半分以上にあたる18000がサントラタとの国境近くに潜んだまま待機しており、サントラタ軍は決戦態勢を整えて待ち構えているデルトム軍を見て総攻撃を躊躇し、4500を率いる西ギスヴァジャの将軍デゾンは戦意旺盛なデルトム軍の堅守態勢を見るや、かつての痛撃を思い出して攻撃を断念した。

 そのタイミングで東ギスヴァジャとフィルノスローにもリジインドを窺う動きがあるとの報告があったので、デゾンはそちらの備えを固めるべく撤退した。

 ホスエガリオ郡とヒエガリオ郡を治めるレーラムは撤退する西ギスヴァジャ勢に側面から奇襲を仕掛け、デゾンはすぐに対応するも損害を抑えるのが精一杯で反撃することができなかった。

 レーラムはデゾンを散々に翻弄したが、デゾンは堅実に守りを固めながらも撤退を指揮してリジインドに帰還した。

 デゾンは二百人余りの軽傷者を出したが、一人として脱落者を出さなかったので、レーラムは早々に追撃を切り上げて休息した。

 ギロウはラオスを釘付けにし、互いの別働隊が途河して撃退されたが西ギスヴァジャ側の損害が僅かに多かった。 ラオスは投石機や攻城塔を組み立てて上陸支援を行ったが、ギロウの投石車によって投石機と攻城塔が潰され、ギロウの投石車もラオスの工作兵によって破壊されるなど、応酬がつづいた。

 ギロウは右翼の精鋭歩兵を先に途河させて橋頭堡を築き、その後にギスヴァジャ重装騎兵を途河させようとするも、ラオスは精鋭歩兵を左翼に配置しており、東ギスヴァジャ軍の途河をよく防いだ。互いの精鋭がぶつかったベヤセヌ川上流は川を血で濁らせる程の激戦になったが決着はつかず、ベヤセヌ川下流の小競り合いもギロウの次男スゼロとラオスの嫡男バオルとの激しい戦いになり、互いの手勢がほぼ壊滅し、スゼロとバオルも全身に十箇所に及ぶ傷を負うなど凄まじい戦いになったが、勝負は引き分けに終わった。

 ラオスは夜襲と火の用心を徹底しつつ、ベヤセヌ川の支流を使ったギロウの水計を未然に防ぎ、ギロウはラオスの陣中夜襲を未然に防ぎつつ、上流死角にある堤の破壊と河川の変流工作を防ぎ、地下道作戦もソルマと協力して阻止した。

 デゾンからの救援要請とレーラムの後方奇襲の知らせを受けたラオスは川岸の部隊に後退命令を出し、野戦築城が完了していた後詰のミシャンの部隊が前に出て川岸の守備を固め、メルカスから来た西ギスヴァジャの別働隊が合流して更に左翼を固めたので、ギロウは途河を諦め対岸で守備を固めつつも釣り出し工作をおこなったが、ラオスは諸将をよく制御して釣り出しに応じなかった。

 ラオスは後方の撹乱を阻止する為に少数精鋭をレーラムに差し向けたが、一足早くレーラムは撤退して軍を整えていたので、少数精鋭はラオスの策を実行してからデゾンの救援に向かった。その後もギロウとラオスのやりとりが続き、ベヤセヌ川を挟んでの対峙が続いたが、両軍とも兵糧が枯渇する前に講和交渉に入り、15日には両軍とも軍勢を解散した。

 東西ギスヴァジャ軍の死者はなく、負傷者は双方合わせて600人程度で勝負は引き分けになったが、これを見ていた他国の間者達は東西ギスヴァジャ兵の凄まじい戦いぶりと狂気じみた戦意に戦慄し、それを見事に束ねるギロウとラオスを「良将」と評価した。

 激闘を演じたスゼロとバオルは「猛将」と評価され、国内で名を高めたが、互いに言いつけを破っての大暴れであった為に両親から叱責と説教を喰らうハメになったという。

 

 レーラムはラオスの別働隊を叩き、余勢を駆ってリジインドを攻撃するつもりだったが、デゾンがしっかりとリジインドを堅守していたのでリジインドに手を出さなかった。

 ベヤセヌ川にてギロウが後退した報告があったので、レーラムはラオスが逆襲に移る前に撤退した。

 ラオスはレーラムの退路に罠をはっていたがレーラムの対策がそれを上回っていたので罠は意味をなさなかった。

 


 479.8.29〜9.13

 

 デルトム軍はリハインハル自らがサントラタ軍を迎撃し、両軍とも一進一退の攻防を繰り返す。

 遥西メンゴルーダ帝国とサントラタの戦法を熟知するキンスは一計を案じて詭計陣を設け、勇猛で知られるサントラタ騎兵は突撃を受け流されて渋滞を起こし、馬が縄や長柄に躓いて尽くが落馬し、その上で四方八方から熊手縄や網が投げ込まれて絡め取られて身動きが取れなくなった。

 デルトム軍はサントラタ軍の主だった武将のみを生け取り、捕虜として連行した。

 

 先陣の被害を伝え聞いたサントラタ王は捕虜を奪還するべく軍を進め、デルトム軍に猛攻を加えるもキンスの詭計陣によって行動を制限されて矢と縄と返し棒の餌食になり、打撃を受けて後退した。

 キンスは対サントラタ戦術を徹底し、サントラタ軍はその戦術に手を焼いたが、やられたままで退却することもできない。

 サントラタ軍はひたすらに攻撃を仕掛けたが、キンスの戦術によって悉く撃退され、夜はキンスの得意な火計を匂わせた夜襲の警戒で疲弊させられ、朝は小刻みな襲撃に悩まされてサントラタ軍はみるみるうちに疲弊していった。

 機を見たキンスは本格的に攻撃を仕掛け、疲弊していたサントラタ軍に打撃を与えた。サントラタ王は必死に叱咤したが敗勢は覆せず、断腸の思いで全軍に後退命令を出してデルトム国境よりも外へと後退した。

 取り残されたサントラタ軍の先鋒部隊は半数が徹底抗戦を図って戦死し、半数が捕虜となった。

 この戦いでサントラタ軍は七百人以上の損害を出したという。


 九月三日にはリハインハルは総攻撃を指揮してサントラタ軍に猛攻を加えたが、大陸でもギスヴァジャやフィルノスローに次ぐ勇猛さと屈強さを誇るサントラタ兵は王の指揮の下でよく耐えて撃退に成功した。

 しかし、それもキンスの仕込みの内であり、キンスは着々と仕上げの段階を進めていった。

 

 九月七日にはサントラタ軍の猛攻にあったが、デルトム軍は堅守してサントラタ軍の猛攻を凌ぎ切った。

 キンスは最後の仕上げとばかりにリハインハルに夜襲を提案し、リハインハルはそれを快諾して準備を急がせた。

 サントラタ軍はデルトム軍の夜襲を察知し、直ちに迎撃態勢を整えて待ち伏せたが、陣中各所で小火騒ぎが起きたと同時に夜空を火で埋め尽くす様な火矢の雨がサントラタ軍が駐屯する陣地に降り注ぎ、サントラタ軍はたちまちのうちに火に包まれた。

 おりしも乾いた強風が吹き荒れて火は瞬く間に広範囲に延焼し、サントラタ軍はズタズタに分断されて軍としての機能を失った。焦ったサントラタ王は消火作業と並行して退路を確保するが、獣人族達は毛皮に火がついて錯乱し、馬人族と馬頭族が尾に火がついて錯乱し味方を跳ね飛ばし踏み潰しながら疾走したのでサントラタ軍は大混乱に陥った。

 もはや、サントラタ軍は王の命令が届く様な状況ではなく、各部族は各々の判断で独自に戦わざるを得ず、サントラタ軍は火と消火に気を取られてまともな抗戦もできずにデルトムの大兵に囲まれて包囲殲滅されていった。指揮をとっていたキンスはサントラタ軍の位置を完全に把握し、電撃的な各個撃破・包囲殲滅作戦を展開。的確な作戦行動でサントラタ軍に大打撃を与え、サントラタ王は大混乱の中で負傷して這々の体で退却していった。


 自陣後方にまで退却したサントラタ王は丘の上から火に包まれた戦場を見て、悔しさのあまり雄叫びをあげて味方の犠牲の多さを嘆いた。サントラタ軍はこの戦いで王太子と譜代の重臣や将軍達を含む6000人近い死傷者と王族二十四名を含む5000人程の行方不明者を出す歴史的大敗を喫した。親族の殆どと幼馴染、戦友達、王太子まで失ったサントラタ王はリハインハルとキンスを深く恨み、不倶戴天の敵と公言して一切の交わりを絶ったが、その後は憔悴して抜け殻の様になり、政務を顧みることもなくなってサントラタ王国は衰退の一途を辿ることになった。

 サントラタ軍はキンスを「焼殺将軍」と呼んで恐れ、その異名はサントラタ全域に及び、子供達ですらキンスを「焼き殺し魔」と呼んで恐れ、深く憎んだ。

 サントラタ軍の東征作戦の失敗を聞いたゼルギジェはキンスに「放火魔の凶行許しがたし」から始まる嫌味を書き連ねた書状を送ったが、キンスは書状を見ずに焼き捨てた。



 479.9.14〜482.2.6

 ケェヌジラにて順調に勢力を伸ばしていたザオトンは側近のジャハマとマウデ配下のロドンボらと共に領内の巡察と狩りに出かけ、九月二十日になってからケェヌジラの居城に帰還した。

 しかし、翌日になって評定の為に召集をかけていたはずのザオトンが姿を見せなかったので、不審に思ったケリオットらが様子を見にいくと、ザオトンが瀕死の重傷を負っており、ケリオットは慌ててザオトンを救護したがザオトンは死去した。享年54歳。ケェヌジラの貴族奴隷から地方の大領主にまで成り上がった傑物だった。


 ザオトンの死後、後継者に指名されていたケリオットはすぐにザオトンの継承を行い、ケェヌジラの大領主として活発に行動。ザオトンの死で勢いに乗るムスス教団の襲撃を見事に撃退して民衆を慰撫した。

 致命傷を負っていたロドンボが解読不可能な手紙を書いて死去し、重傷を負って身動きが取れないジャハマは何とかケリオットに事実を伝えて昏睡した。ザオトンを襲ったのはムスス教団の手を借りた貴族達の残党と確定したので、直ちに報復して残党達を徹底的に打ち滅ぼした上でムスス教団を批判し教会を破壊した。

 テヘズやヤテリ、ノルテニアに痛い目に遭わされたばかりのデイリアラットは、若造のケリオットに痛烈に批判されたので激怒し、ケリオットを破門にしようとした。


 ムスス教団を破門されかけたケリオットだが、彼はテヘズに仲介を依頼して教団内部で会議を開いてもらい、稼いだ時間で領内の守備を固めた。テヘズの根回しで教団幹部の反対意見が一気に増えたのでケリオットは破門を免れた。

 テヘズの弁舌と学識に翻弄された上に破門取り消しでケリオットを討つ名分まで失ったデイリアラットだったが、ケェヌジラにあるムスス教団の旧聖堂の返還を要求する形でケェヌジラへの侵攻を開始した。ケリオットは教団の精鋭部隊である異教徒殲滅隊による襲撃と浄化と称した広域焼き討ちを受け続けたが、これもテヘズとリハインハルの協力を得て二年に渡って粘り強く抗戦しマウデやデスガン、ヤオトルニらの奮闘で悉く退けた。

 481年の八月十日にはテヘズが援軍として送ったギスヴァジャ兵70人がケェヌジラに到達。ギスヴァジャ兵はムスス教団の正規軍である異教徒殲滅隊3000人の部隊と遭遇戦になったが、ギスヴァジャ兵は喜び勇んでひたすらに攻撃しまくった。先制攻撃を仕掛けたはずの異教徒殲滅隊はギスヴァジャ兵のとんでもない強さに浮き足立つ失態を演じた。ギスヴァジャ兵の気迫を前に精鋭中の精鋭であるはずの異教徒殲滅隊ですら気圧されたという。ギスヴァジャ兵は一人で異教徒殲滅隊を十人を相手にして圧倒しており、そこから二時間余りの激闘が繰り広げられた。不利になっていく異教徒殲滅隊はギスヴァジャ兵の異常なまでの強さを前に撤退することもできたが、想定外の事態に錯乱する指揮官が全員突撃の号令を飛ばしてほぼ全員が死兵と化していたので、撤退するにも撤退できないまま泥沼の激戦に身を投じていったという。

 ギスヴァジャ兵30人が負傷し、異教徒殲滅隊は指揮官七人を含む1300人が負傷し、大将一人と副将5人を含む1600人余りが戦死した。この戦いで援軍の役目を果たして満足に戦ったギスヴァジャ兵はドミ諜報機関の誘導で近くの集落で傷を癒やし、そのまま帰路に着くことになった。ドミ諜報機関の者達はこの戦いの顛末をケェヌジラのケリオット達に伝え、テヘズの言葉も伝えてから去っていった。デイリアラットの懐刀ともいえる者と作戦立案を担当していた参謀と主力を失ったムスス教団の作戦は破綻し、以降は統制を欠いてしまったムスス教団はデスガンらに撃退されていくことになる。

 

 デスガンの働きは絶大であり、彼は忙しく立ち回ってギスヴァジャとデルトムの協力を取り付けた上で異教徒殲滅隊の無差別浄化行動を全て防ぎ、ケェヌジラの複数の巨大穀倉地帯を全て守り切ったといわれている。

 その際に協力を願い出た深紅の戦士達の働きぶりがデスガンの目に留まり、デスガンは彼らの働きぶりを評価してケリオットに推挙した。ケリオットはその者らの働きを褒め称えて召し抱えることにした。

 深紅の戦士達はケリオットの親衛隊に所属予定だったが、その戦士達が「我らはあの若き大将軍(デスガン)の下で存分に働きたい」と懇願したので、ケリオットはデスガンに深紅の戦士達の指揮を任せた。

 デスガンは彼らをすぐに直属の部隊に加え「深紅部隊」と名付けて精鋭部隊とした。デスガンとニーラフは私財交易で儲けた銭を深紅隊に投資して徐々に軍装を整えつつ深紅色に染めて深紅隊として統一性を持たせていくことになる。これが後に新生ヤージカル帝国最強と複数の大陸に武名を轟かすことになる「深紅の精鋭」の始まりになる。

 因みにデスガンが以前から鍛え上げていた古参の精鋭部隊が「青部隊」…のちに「蒼の騎士団」と呼ばれることになる精鋭である。


 戦勝と同時にケリオットの嫡男が誕生し、ケリオットは初めての我が子を抱き抱え「我が子バラィスよ、お前が大陸を平らげる覇者となれる様に私が強固な礎を築いてやろうぞ、健やかに成長するが良い」と言い、後継者に指名した。

 これが新生ヤージカル帝国最初の帝王となるバラィス・アズルダ・ヤージカル一世である。

 因みに後の時代で新生ヤージカル帝国最初の帝王となるバラィスは北蛮大陸のほぼ全土を征服し、遥西大陸や南夷大陸、中央大陸にも進出して脅威を与えることになる…。

 



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