辺境興亡雑史・人物列伝他雑表(〜480年台)その2
スルタガ・ジギムン(403〜478)
バハカルンの将軍。バハカルン西部のジギムニ郡を含む三郡を治める大領主。一族にバルター・ジギムンがいる。中央大陸の央都ヴェルノの役人であるモルハ・ジギムンと傭兵のロスキー・ジギムンは彼のひ孫にあたる。
ジギムン家はバハカルン建国時代から続く貴族で三家の内のひとつ。元はスーノ氏と同格の家柄だったが、東西交易と婚姻政略で莫大な富と軍事力を手にしバハカルン王家を遥かに凌ぐ勢力家になったスーノ氏によってバハカルン王家が簒奪されると、所領も財力も軍事力もスーノ氏の足下にも及ばないジギムン家は逆らう事もできずにその臣下筋に置かれたという。
スルタガはバハカルンでも珍しいスーノ氏以外の他家出身の将軍。若い頃は血気盛んで武功を立てる一方で統治にも才を発揮。壮年期には落ち着きも備わって領主らしく善政を行った。功績はスーノ家に劣らずながら謙虚に振る舞い、スーノ家に睨まれる事を避けて一族の安全を守った。ノスローのクシャゼリア家やカキャボのシュゼーリン家とは古くから何かしらの縁があった為、スルタガもヌウロタやマチェットらと親しく、ノスロー城の戦いではヌウロタの要請にいち早く応えて援軍を派遣している他、ノスロー、カキャボ、バハカルンの三国同盟にも深く関わり互いの同盟に貢献した。
長年の功績で徐々に所領を加増され、最終的には本貫地のジギムニ郡、シャニグニ郡、ムニアロ郡の三郡を得てジギムン家最大の版図を築き、スーノ氏に次ぐ勢力となった。
428年冬のノスロー城の戦いから表舞台に登場し、ノスローとバハカルンの同盟に貢献。433年と437年にラダミーア兵やエティホ兵による畑荒らしや家畜泥棒を撃退、援軍のヌウロタ率いる三人と協力して複数箇所の賊の根城を同時に撃滅してジギムニ郡を安定させた。442年から457年にかけてジギムニ郡の南西の凍土を開墾して収穫高を上げて食料問題を緩和した。459年にラダミーア五路侵攻で変心したバウロ・カリオスに敗れて敗走したとある。
460年頃に家督を息子に譲って隠居。
しかし、475年に息子が病死し、後を継いだ孫のヤドクが幼いのでそれを後見した。
478年秋頃にジギムニ郡の隠居屋敷で亡くなった。享年75歳。
スルタガの死後はヤドクがスーノ氏から嫁を迎えてスーノ氏との協調路線を歩んだが、実力者のバルターの死後はスーノ氏によってジギムン家は乗っ取られ、ヤドクは離縁され所領を没収された上で国外追放された。
ヤドクはドミ諜報機関の誘いを断り、各地を彷徨った末に中央大陸の央都ヴェルノまで流れ、イレイズとコールスの仲介を経てそこに根付いたという。
志向・主義
領内の安泰・保守
成長タイプ
晩成領主型
能力値
統率力70 武力74 知略63 政務61 外交67 野望53 魅力71
特性
疾走 突貫 気合 鉄壁 堅守 馬術 民心掌握 凍土開墾 節約 根気 外交術
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タラグ・ルノス(459〜480)
ヤージカル帝国成立時代からラダミーア北部のルノス郡を治めていた領主の末裔。
ルノス家はラダミーア北部の国境を維持する目的で組まれた北部領主連合の筆頭格にあたる名家で、タラグは初代から数えて23代目領主にあたる。
479年秋に父が病死して家督を継ぎ、480年に北方辺境異民族の襲撃を受けて防戦するも負傷して戦意喪失。その日のうちに部下たちを置き去りにして逃げ去り、北部領主連合は瓦解して敗北した。
ルノス郡は一夜にして廃墟と化し、タラグは道に迷って彷徨った後に北方辺境異民族に捕らえられて処刑された。享年21歳。
タラグの妻子や直系一族も皆殺しにされた為、ルノス家は滅亡した。後にルノス郡領主になった友人のノラシガ・リスーラがルノス家の縁者を探し出して家督を継がせ、ルノス家を再興している。
凡庸で小心者だったという。
志向・主義
自己の安泰・保守
成長タイプ
凡庸型
能力値
統率力34 武力36 知略35 政務40 外交38 野望32 魅力47
特性
小心者 消沈
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ダッサカ(408〜479)
ノスローの兵士または武官。ラダミーア地方東端の村落出身の豪傑。
大きな目に出っ歯が特徴の小男で目が良く夜目も利くことやフクロウに似ている容姿から「フクロウ男」と渾名されていた。俊敏で身の丈よりも大きな岩石を軽々持ち上げてしまう程の剛力の持ち主。ヌウロタやトギアロと共に「濃顔三勇士」などと呼ばれて馬鹿にされていたが、それをバネにヌウロタとトギアロと共に鍛錬に励んでは戦場で無茶をしでかした。
ヌウロタが先頭に立って突っ込む際は必ずヌウロタの左側に馳せ参じて一緒に突っ込んでは一番槍の取り合いに興じた。
戦場で怒声を出して繰り出す猛撃で敵将兵を圧倒し、敵の槍衾や弓矢の雨を恐れず見事に掻い潜って猛進し敵軍に突っ込んで大暴れする姿はフクロウが翼を広げて暴れ回る様に見えた事から「雪原の猛梟」の異名をとった。
初陣は427年秋にヌウロタ自らが募兵してラダミーアを迎撃した防衛戦で、ダッサカは同郷の誼でトギアロと共にヌウロタの募兵に応じて戦った。クシャトリア家の家督を継いだばかりのヌウロタは将として未熟だった為、ラダミーアの精兵相手に翻弄されただけで終わったが、ダッサカは敵兵五人に傷を負わせて撃退している。
428年春頃に北方辺境異民族軍が襲来してきたときはヌウロタが単身突っ込んで暴れ回ったが、ヌウロタを避けてノスローに向かう異民族を相手にトギアロと共に戦って奮戦し、負傷はしたものの68人の異民族の戦士を倒して撃退した。
428年冬にタスダン、ラダミーア、エティホが連動してノスローに攻め込んで来たときはトギアロと共にノスロー城に籠城して城門付近で奮戦し、タスダン軍の猛攻をなんとか凌いでいた。
ノスロー城が吹雪に見舞われた際はノスロー王が酒と肉を振る舞ったのを頂き、吹雪で表に出たがらない兵士達を無視して見回りを行い、その視力でタスダン軍の攻城兵器である破城杭が迫っていることを確認して報告し、ノスロー王は粗末な甲冑を身につけて自ら城門の上に出向き、兵達に号令して迎撃態勢を整えた。
タスダン勢が吹雪に紛れて攻城兵器を前面に押し出して来た際はトギアロと共に岩を投げて破城杭を損傷させたが、後続に横一文字に展開してきた破城杭部隊がノスロー城に迫り、ノスロー王は迎撃したが押し戻され、ダッサカとトギアロは大岩が尽きた為に破城杭を破壊しきれず、やむなく弓矢に持ち替えて目ぼしい兵士長を狙撃して僅かに指揮を乱させた。
破城杭がノスロー城の城壁を粉砕した後はノスロー王と共に総がかりで雪崩れ込んでくるタスダン軍を相手に奮闘し、敵将ワヤザンと一騎打ちになる事態になり、七十合余り打ち合って撃退し、敵兵三十人を打ち破ってヌウロタが戻ってくるまで戦い抜いた。
ヌウロタが戻って来た時は真っ先にノスロー王にヌウロタの帰還を伝え、ヌウロタに続いてバハカルンのスルタガとカフデリンデがタスダン軍に突撃したのと同じくダッサカとトギアロもノスロー王と共に攻勢に出た。挟撃が成ったあとは遭遇した敵将ワヤザンを激闘の末に討ち取り、敵兵四十人近くを破り敵部隊長三人を討ち取る戦功を挙げ、エティホ軍への夜襲でもヌウロタとトギアロと共に狂笑しながら大暴れして敵将を討ち取り、エティホ王に矢傷を負わせる功を挙げ、ラダミーア戦では囮役のヌウロタが釣り出した敵勢を包囲して散々に打ち破り、敵将を負傷させた。
この戦いでヌウロタは「狂笑将軍」ダッサカは「雪原の猛梟」トギアロは「雪原の荒熊」の異名をとり、それぞれが僅かな銭と共にノスロー王が直々に認めた感状を手渡しされて戦功を賞賛された。
430年春から436年秋にかけて対ヴァネグリア戦、対リナキア戦でもヌウロタ、トギアロと共に活躍し、ヴァネグリア、リナキアから「ノスローには狂った様に笑いながら戦う化け物どもがいる」と恐れられた。
438年夏から450年冬にかけてノスロー王はヌウロタ、ダッサカ、トギアロ、ギシュフらと共にノスロー城周辺郡のクシャン郡、トコル郡、ナジュワ郡、ヒリガン郡を攻略し、スワイトホー郡、スワイトナーブ城も攻略して漸く影響力の低迷を防ぐ事ができた。
453年にノスロー地方中南部のスワイトナーブ城がタスダンの将軍ガトロエ・ルガイナの猛攻を受ける。スワイトホー郡から援軍に駆けつけたダッサカとトギアロはベルサ・ルガイナの伏兵に襲撃されたが、すぐに立て直して撃退した。しかし、スワイトナーブ城は内応者の手引きで陥落したので兵糧に余裕なく味方を回収して撤退した。
455年にスワイトナーブ奪還戦でギシュフ・トコーダルがガトロエ・ルガイナと戦い、劣勢になったので敗走。ガトロエが追撃してきたのでギシュフは合図を送ってダッサカとトギアロが伏せている場所まで釣り出して三方向から挟撃した。ダッサカとガトロエは一騎打ちになるが五十合余り打ち合ってダッサカが勝利し、ガトロエは全滅する前に退却した。ダッサカは遠目から狙撃兵の存在を確認したのでガトロエの反撃を察して追撃をしなかった。やがてヌウロタがシャリズ郡を制圧して援軍に訪れ、ダッサカはヌウロタと合流してから進軍した。スワイトナーブ城を守っていたジェロ・ルガイナはノスローの攻撃に備えていたが城内の喧嘩騒ぎを反乱が起きたと勘違いし、さらにノスロー王が総攻撃の号令を出して猛攻を仕掛けてきたので勝ち目がない判断し城を捨てて逃亡した。ノスロー王は大した被害を受けずに城を占拠した為、ガトロエは帰る城を失って敗走。援軍に来ていたベルサはガトロエとジェロを回収して兄弟喧嘩をしながら撤退した。
458年にリギド郡侵攻時に敵の援軍として現れたタスダンのベルサ・ルガイナ率いる手勢と戦い、互角にやり合ったもののベルサの別動隊に側面攻撃されて不利になり、勢いを失って撃退された。
460年にタスダンが大軍を率いて侵攻してくると、ヌウロタの息子のラガナットに協力して巨木の丸太と大量の油を調達し、ラガナットの火計と本陣斬り込みを援護した。
465年辺りでヴァネグリアにイレイズが現れると、彼の巧みな采配と臨機応変の知略に翻弄され、猛将ノレガンダに足止めされた挙句に捕縛されるなど敗北を味わったが、ヌウロタによって救出された。
466年のドアンのカキャボ侵攻でヌウロタとトギアロと共にカキャボ公マチェットへの援軍として赴き、ドアンの勇士バンヨンを相手に一騎打ちになるが若干劣勢のまま決着がつかなかった。
バンヨンは「はは!お年寄りの割にはなかなかの使い手ですな」と余裕を見せたので、ダッサカは「ほざけ!儂はまだ年寄りでは無いわ!」と激昂したが、笑いを堪えたトギアロがダッサカを羽交締めにして後退させた。
あのダッサカを追い込む姿を見て血が騒いだヌウロタがバンヨンに勝負を挑み、両者は一騎打ちになり三十合余り打ち合ってバンヨンは「ヤバいぞ!これはとんでもない爺様だ!」と戦慄し、ヌウロタを「狂気の将軍」と呼んで逃げ帰った。
467年には侵攻してきたタスダンのランナズと交戦したものの、ダッサカは守りを固めて堅守したので、ランナズは攻め方を見出せず小競り合いをした後に兵糧が尽きて退却した。
齢60を超えてもなお盛んであり、老兵と侮られると発奮して若者顔負けの動きを見せ、ヌウロタとトギアロも負けん気を起こして益々働き、いつのまにかノスローの領土が拡大しているという事態になる事もあった。
ヌウロタが隠居すると、彼とトギアロも隠居して戦場に出ることは少なくなり、三人でよく地酒の飲み比べをしながら領内の散歩をして民の生活を眺めるのを楽しんだ。
ヌウロタが亡くなると、ダッサカとトギアロは葬儀の列を警護して全ての襲撃を撃退し、ヌウロタの葬儀を無事にすませた。
しかし、その数ヶ月後にはダッサカも眠る様に亡くなり、トギアロも休息中に亡くなった。享年71歳。
両親が奴隷であり、家を持たない極貧生活を送り、幼少の頃から仕事に明け暮れる毎日を過ごしていた。幼少期に空腹に耐えかねて狩猟に出かけたが成果なく、雑草を食べて飢えを凌いでいたところに猪を担いだトギアロと出会い、彼に猪肉を分け与えられた事が縁になって友誼を結んだ。後に猪肉の代金を支払おうとしてトギアロに遠慮されたので、互いの遠慮の結果、半分の代金をトギアロに支払って手打ちとしたが、全部払わないと気が済まないダッサカは代金の半分でトギアロから狩猟技術を教えてもらうことにした。投石術を身につけて兎や鳥を容易く撃ち落とす程の技量を身につけた。また、早くから武芸に興味を持ち、傭兵や戦帰りの浮浪者から武芸を教えてもらい、弓術、槍術と棒術、体術を研鑽して身につけた。
幼少期の経験が性格に影響したのか、戦功を挙げても戦功の全てをヌウロタやトギアロに譲り、奪った軍馬や武器、討ち取った敵将の首級の譲り合いをした事もある他、若手の兵隊や武官にも手柄を譲ったりしている。
50年以上ノスローの兵士または武官として働き、多大な戦功を挙げ続けたが、彼自身は平民である事やノスローの財政の苦しさを理由に褒美や直参の誘いを辞退し、臨時徴兵の手当てや臨時武官の賃金のみを貰って良しとした。
文字の読み書きを覚えていたので、武勇のみならず文事にも長けており、根を上げた軍吏に代わり臨時軍吏として事務処理の他、武具管理や兵糧の監督などをこなしていたこともある。隠居後は文官が不在の時にヌウロタと共に代理の文官として事務処理を担当し、次の文官が赴任するまでの引き継ぎを円滑にしていたりしていた。
彼は生活費を差し引いた僅かな銭を貯めて息子夫婦を援助し、孫の教育費に充てたりして自分の死後の飛躍に備えた。
ノスロー王はタスダンの傀儡として王位に就いた苦難の頃から存分に働いてくれたダッサカとトギアロの働きを生涯忘れず、彼らの死後は子孫に報酬をまとめて渡した他、爵位と領地も働き相応のものを与えたという。
ノスロー王の死後、後を継いだナーガン・タスダミル・ノスローアは世話になったヌウロタ、ダッサカ、トギアロの三人をノスローの功臣として新たに祀り、「三勇士の廟」を建造した。
志向・主義
利より義を尊ぶ・中庸
成長タイプ
万能豪傑型
能力値
統率力79 武力86 知略65 政務62 外交57 野望43 魅力76
特性
疾走 背水 猛攻 鉄壁 豪傑 猛将 不屈 梟 雪国戦闘 初撃必殺 殿軍 守城心得 歩兵調練 弓兵調練 民心掌握 節約 寡欲 敏腕 養鶏心得 狩猟
特性備考
疾走…自部隊の移動力+3、軍団の行軍速度+2
梟…視界範囲拡大、悪天候時や夜戦時でも視界範囲が狭くならない。奇襲・夜襲が成功しやすくなり、奇襲・夜襲を受けにくくなる。交戦時、たまに自部隊の攻撃が強力になることがある。
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トギアロ(408〜479)
ノスローの兵士または武官。ノスロー地方最西端の村落出身の豪傑。
鋭くハッタリの効いた目つきに大きな鼻と口、豊かな髭のほかにも全身にゴツイ毛が生えていて毛深くもっさりした印象の容姿で周りから「熊男」と呼ばれていた。不細工まんじゅう顔のヌウロタとフクロウ男のダッサカとならんで「濃顔三勇士」とも呼ばれた。
ヌウロタとダッサカと並ぶ剛力の持ち主で、大木を引き抜いたり、猪の突進を悠々受け止め暴れ狂う猪をものともせず持ち上げてバックブリーカーでシメてしまう程である。
百発百中の投石術と大型の鉄槌を得物に戦う人物。ヌウロタが突撃する際は必ず彼の右側に馳せ参じ、敵を粉砕しながら突撃した。
熊の様な容姿と荒々しい戦いぶりから「雪原の荒熊」の異名をとった。
初陣は427年秋のヌウロタの募兵にダッサカと共に応じ戦ったラダミーア迎撃戦であり、クシャトリア家の家督を継いだばかりのヌウロタは将として未熟だったのでラダミーアの精兵に翻弄されただけに終わったが、トギアロはラダミーア兵五人を負傷させ、味方を援護する働きを見せている。
428年春頃に北方辺境異民族が襲来してきた時はヌウロタが単身斬り込んで大暴れしたが、ヌウロタを避けてノスローに向かってくる異民族を相手にダッサカと共に奮闘し、軽傷を負ったものの70人程度の戦士を倒して撤退させた。その時に異民族の女戦士を捕らえて数年間保護し、後に嫁に迎えている。
428年冬にタスダン、ラダミーア、エティホが連動してノスローに攻めてきた際はノスロー城に籠城しダッサカと共に城門付近で奮戦した。
ノスロー城が吹雪に見舞われてタスダン勢、ラダミーア勢、エティホ勢が後退すると、外にでて岩や丸太を調達して次の攻撃に備えた他、城門に積もった雪を薙ぎ払って打ち払った。
ダッサカがタスダン勢の攻城兵器を発見すると、寒さで動きの鈍い兵士たちを背負ったり脇に抱えたりしてまとめて運び込み、何往復かしてから帰還して城門を閉めた。
トギアロは基礎体温が高かった上に毛皮の様に毛深かったので、彼に回収された兵士達はすぐに身体を温める事に成功していた。
タスダンの破城杭が迫ってくると、ダッサカと共に岩を投げて破城杭を損傷させたが、破壊には至らなかった。
タスダン勢が破城杭を横一文字に展開して一斉に迫ってくると、ノスロー王は急襲をしかけたが押し返された。やがて岩石が尽きたので、弓矢に持ち替えてめぼしい者達を狙い撃った。
タスダン勢の猛攻でノスロー城の城壁が破壊されると、総がかりで攻めてくるタスダン勢を迎撃して力の限り暴れ回った。
タクラート・ルガイナの手勢を押し返し、兄のタクラートの援護のために横槍を入れてきたグモト・ルガイナをも撃退して侵攻を防いだが、第二陣のルドール・エンビマフの手勢がタクラート達と合流すると押されはじめ、ノスロー城のあちこちで乱戦になった。
城内から50人ばかりの腕自慢の義勇兵と30人ほど狩猟用の弓矢で武装した民兵が現れて援護し、ノスロー王自らも前線に出て敵兵を薙ぎ払いながら必死で叱咤して戦う程の総力戦だったが、劣勢には違いなかった。
しかし、ヌウロタが援軍を引き連れてやってきたのをダッサカが見つけて真っ先にノスロー王に知らせた為、味方が奮い立ってタスダン勢を押し返した。
ヌウロタが狂った様に笑いながらタスダン勢の本陣めがけて突っ込み大暴れし、ヌウロタに続いてバハカルンの戦姫カフデリンデ・スーノ率いる30人とスルタガ・ジギムン率いる50人も果敢に突撃してきたのでタスダン勢は混乱し、ノスロー王は好機と見て総攻撃を命じ、タスダン勢を城の内外から挟撃してタスダン王を敗走させた。
続いてエティホ勢に対する夜襲でもヌウロタとダッサカと共に狂笑しながら大暴れし、エティホの将軍を敗走させている。
更に続くラダミーア戦では囮役のヌウロタが誘き出した敵勢を包囲して殲滅し、ラダミーア勢を敗走させる事に成功した。
430年春から436年秋にかけて対ヴァネグリア戦、対リナキア戦でもヌウロタ、ダッサカと共に活躍し、ヴァネグリア、リナキアから「ノスローには狂った様に笑いながら戦う化け物どもがいる」と恐れられた。
438年夏から450年冬にかけてノスロー王はヌウロタ、ダッサカ、ギシュフらと共にノスロー城周辺郡のクシャン郡、トコル郡、ナジュワ郡、ヒリガン郡を攻略し、スワイトホー郡、スワイトナーブ城も攻略して漸く影響力の低迷を防ぐ事ができた。
453年にノスロー地方中南部のスワイトナーブ城がタスダンの将軍ガトロエ・ルガイナの猛攻を受ける。スワイトホー郡から援軍に駆けつけたトギアロとダッサカはベルサ・ルガイナの伏兵に襲撃されたがすぐに立て直して撃退した。しかし、スワイトナーブ城は内応者の手引きで陥落したので撤退した。
455年にスワイトナーブ奪還戦でギシュフ・トコーダルがガトロエ・ルガイナと戦い、劣勢になったので敗走。ガトロエが追撃してきたのでギシュフは合図を送ってトギアロとダッサカが伏せている場所まで釣り出して三方向から挟撃した。ダッサカとガトロエは一騎打ちになった時はギシュフと連携して暴れ、ガトロエの手勢を次々と打ち倒して兵数差を逆転していた。一騎打ちに敗れたガトロエは全滅する前に退却した。トギアロは兵達とダッサカの様子を見て追撃を取りやめた。やがてヌウロタがシャリズ郡を制圧して援軍に訪れ、ダッサカとトギアロはヌウロタと合流してから進軍した。スワイトナーブ城を守っていたジェロ・ルガイナはノスローの攻撃に備えていたが、城内で喧嘩騒ぎが起きたのを反乱が起きたと勘違いし、更に城外にはノスロー王率いる軍勢が総攻撃の号令を出したのを聞いて勝ち目がないと判断し城を捨てて逃亡した。ノスロー王は大した被害を受けずに城を占拠した為、ガトロエは帰る城を失って敗走。援軍に来ていたベルサはガトロエとジェロを回収して兄弟喧嘩をしながら撤退した。
458年にリギド郡侵攻時にトギアロは砦の攻略を任されるが、タスダンの守将のランナズ・ゼアン・エンビマフの抵抗が激しく攻めあぐねる。三日間の攻防を繰り広げたものの落とせず、そうこうしているうちに敵の援軍としてベルサ・ルガイナ率いる手勢がものすごい勢いで迫り、トギアロの側面を固めていたダッサカの部隊が互角にやり合ったもののベルサの別働隊に側面攻撃されて不利になり、トギアロはランナズの猛反撃を受けて撃退された。
460年にタスダンが大軍を率いて侵攻してくると、ヌウロタの息子のラガナットに協力して巨木の丸太と大量の油を調達し、ラガナットの火計と本陣斬り込みを援護した。
465年辺りでヴァネグリアにイレイズが現れると、彼の巧みな采配と臨機応変の知略に翻弄され、ヌウロタ、ダッサカと分断されて連携が取れなくなったところを各個撃破されてヴァネグリアの将軍に捕縛されたが、ヌウロタに救出された。
466年のドアンのカキャボ侵攻でヌウロタとダッサカと共にカキャボ公マチェットへの援軍として赴き、急先鋒を名乗り出たダッサカがドアンの勇士バンヨンと一騎打ちになるが若干劣勢のまま決着がつかなかった。
バンヨンは「はは!お年寄りの割にはなかなかの使い手ですな」と余裕を見せたので、ダッサカは「ほざけ!儂はまだ年寄りでは無いわ!」と激昂したが、笑いを堪えたトギアロがダッサカを羽交締めにして後退させた。
あのダッサカを追い込む姿を見て血が騒いだヌウロタがバンヨンに勝負を挑み、両者は一騎打ちになり三十合余り打ち合ってバンヨンは「ヤバいぞ!これはとんでもない爺様だ!」と戦慄し、ヌウロタを「狂気の将軍」と呼んで逃げ帰った。
467年にリギド郡の砦を補修し、見張り台と隠し兵糧庫を追加。
早速見張り台が役に立ち、タスダンの襲撃部隊を捉えて撃退した。
ヌウロタとダッサカとは生涯親友として共にあり、隠居した後も苦楽を共にした。ヌウロタ、ダッサカの死後、まもなく亡くなった。享年71歳。
祖父、父は猟師、母は百姓で幼少期から畑仕事を手伝い、時には父と共に狩猟や薪売りに出かけて家計を助けていた。体格が大きく常人離れした剛力で狩猟も畑仕事も十人分の働きを見せた。ある日仕留めた獲物の猪を担いで帰る途中に雑草を食べて飢えを凌ぐダッサカに出会い、彼に「これでも食って元気だせよ」と猪肉を分け与えた事が縁になって友誼を結び、ダッサカに猪肉の代金を渡された時は辞退したが、ダッサカに「友だからこそ貸し借りは作りたくない」といわれたが「貸し借りがあったって友だ」と反論し、遠慮して代金を半分だけ受け取った。ダッサカは手元に残った半分の代金でトギアロに狩猟技術を教えてもらう様に願い、トギアロはそれに応えてダッサカに狩猟技術を伝授した。
少し後に村八分にされていたヌウロタを見てダッサカと共に助太刀に入り、村のガキ大将率いる手下達を相手に一進一退のケンカを繰り返して苦労したが、ヌウロタとダッサカと協力して全員を叩きのめし、怪我させた子供達を家に送り、親達に謝って回って和解しヌウロタを村八分から脱却させた。
後にガキ大将を含む子供達はヌウロタ、ダッサカ、トギアロの部下として働くことになっている。
戦場では勇猛果敢だが平時は大らかな性格で子供に好かれた。無欲でダッサカとはよく手柄の譲り合いをしてはヌウロタや若手の兵士や武官らに手柄を譲った。
志向・主義
地方の民の安寧・中庸
成長タイプ
豪傑型
能力値
統率力80 武力87 知略52 政務47 外交45 野望40 魅力77
特性
疾走 背水 猛攻 鉄壁 豪傑 猛将 雪国戦闘 奮迅 不屈 熊 守城心得 攻城心得 歩兵調練 弓兵調練 民心掌握 寡欲 頑健 狩猟
特性備考
熊…たまに発動し、少しの間だけ自部隊の全ての攻撃が強力になる。
頑健…体力が減りにくくなり、傷病になりにくくなる。
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デリア・リジイン(429〜483)
ギスヴァジャ王イルマンの側室。西ギスヴァジャ王家の初代王太后。トマシュの実母。
リジイン上公爵家の長女として生まれ、若くしてリジイン家の三傑の一人に数えられる存在だった。
父のゼリウン、兄のクルセイを良く補佐し、従姉妹のリゼロッテと共謀してギスヴァジャとフィルノスローの間を巧みについたり離れたりを繰り返す毎に所領を切り取って勢力を拡大した。
タクルシャ郡領主のレーラム・ゼイシェン・ルイ・タクルシャが戦功によりリジインドに近いヒエガリオ郡を加増されると、ゼリウン、クルセイ、デリア、リゼロッテは連携して多方面からレーラムに牽制を仕掛けるが、ギスヴァジャの智将と名高い彼には通用せず、いずれも撃退された。
ギスヴァジャとフィルノスローの攻防戦の折にギスヴァジャにつき、リゼロッテと綿密に計画を練った通りにイルマンに嫁ぐ条件を出してバウベズ王家の側室となり、侍女に扮したリゼロッテと共に瞬く間に勢力基盤を整えて一気に勢力を拡大。
イルマンとの子であるトマシュを産んでからも勢力を増すが、サウゼンス正妃もテヘズを出産したので、勢力争いは膠着状態に陥った。
長く凄まじい暗闘を続けたが、サウゼンス正妃も強かな人物でなかなか隙を見せなかったので拮抗状態が続いた。
デリア自身はサウゼンス正妃を嫌っていなかったが、側近が過激かつ過度のデリア信奉者だったので、そこから仲が拗れていった。
リゼロッテの病が重くなった頃にトマシュと側近達が暴走した為、サウゼンス正妃殺害の暴挙にでる要因にもなり、本来の計画よりもかなり早いタイミングで王国乗っ取り計画が実行されたが、詰めを誤り肝心のテヘズと重鎮達を逃してしまった為に半分失敗した形になった。
イルマンとサウゼンス正妃の死後は王位を継承したトマシュを補佐し、叔父のケリセットの死後はリゼロッテの息子のメテルスを高級官僚に抜擢し、ゼリウンの死後は甥のラオスを宰相に抜擢して政治的安定化を図り、ラオスやクルセイと連携して領内に新法である「リジインド式農産業奨励式目」を布告して農産業を奨励し、ダヤッカス混乱で溢れ出した失業者達を手際よく積極的に雇い入れて民心を掴み、対外工作でもヤージカルへの献金と諸国の牽制及びケヘテリ王国やラダミーア王国と誼を通じてギスヴァジャ東部で王位を正当に継承したと称するテヘズの排除に集中するなど、様々な活動を行った。
480年以降に参謀を勤めていたリゼロッテが病死し、デリア自身も不調が続く様になり、活動も途切れ途切れになっているのが公式文書から読み取れる他、483年の2月初めの文書には新王側近の文官の筆跡と語りで既に亡くなっているのが確認されている。
トマシュの発行した文書には482年12月26日に53歳で病死したとされているが、ラオスの発行した文書には483年1月9日に病死したと記され、ドミ諜報機関でも暗号化された同様の内容が記された手紙がテヘズに送られていることから、482年末頃に危篤に陥り483年始に亡くなったと思われる。
彼女の死後、古くから彼女に付き従ってきた侍女達やリジイン特務機関の者達は若手達にトマシュの補佐を命じた後にデリアの墓前で悉くが殉死したという。
テヘズがトマシュを滅ぼした後、デリアの墓はダヤッカスの王家墓地に葬られたイルマンとサウゼンス正妃の墓の隣にある墓地に改葬され、そこは「デリア墓所」と名付けられた。デリアの侍女達の墓もデリア墓所の敷地内に丁寧に改葬された。
デリア墓所はデリアの孫であるドルフやテヘズの弟であるセルトンの要望もあってラヴォジの代で整備され、庭園や公園が構築されて歴史遺産になった。
イルマンが豪威王と諡されたのと同じくデリアも正式に王室の者と認可され、セルトンが描いた肖像画にはイルマンとサウゼンス正妃、デリアの三人が並んでいる姿が描かれている。
ラヴォジが描いた肖像画にはより鮮明な姿のイルマン、正妃、デリアの三人を背景にして右側に長く戦い続け老いて疲れた風貌のテヘズが描かれ、左側には老いてもなおギラついた目つきでテヘズを睨み顎髭を弄るトマシュが描かれ、中央下には老人になり二人の兄の争いに憂いた表情のセルトンが描かれている。
不思議なことにラヴォジはイルマンや正妃、デリアやトマシュとは面識が無い筈なのに姿も性格もはっきりとわかっていたので、テヘズとセルトンは驚いていた。(ラヴォジは509年冬の生まれなので祖父母やデリアはもちろん同年晩秋に討ち死にし遺体も丁寧に葬られたトマシュのことも分かるはずがない)
ギスヴァジャ王家に大乱をもたらし王家の歴史を改竄したので、後世では悪女、毒婦、梟雄の母などの悪名も残ったが、それ以上に善政を敷いて民の生活を向上させ、民の事を考えて政治を行ったので名君としても名高く、リジインドをはじめとする西ギスヴァジャの民からは感謝され、死後は彼女を讃える祭りまで執り行われた。ギスヴァジャ開発史の偉人達の中にはテヘズ、ソルマ、ラヴォジ、ロニエル、ラオスと並んで彼女の名前も乗っている。
ダヤッカスからリジインドに至るまでの細長く曲がりくねった街道を整備して一直線状の広い石畳及び煉瓦敷きの街道にし往来を容易にした。この街道は後世、自動車が出現してからもギスヴァジャ地方の国道1号線としてアスファルト敷きの道路に改良されて利用された。他にもリジインドの鍛治技術を生かして馬車や荷車の車軸強化と振動を緩和させるために関節部を設けて振動を僅かに和らげたり、農具を改良し、ベヤセヌ川沿いの農地に流れる小川を灌漑して用水路を形成し農地を拡大。ヒエガリオ郡との境にある水源から流れ落ちる川が雨季になるたびに巨大な沼地と湿地帯を形成しては水が溢れて毎年水害をもたらすので、付近に貯水池と新たな川を形成し、リジインドの南にある荒地を通ってフィルノスローとの国境付近に流れる川にまで川を開通させた。これにより雨季の水害を一つ解消したと同時に荒地だらけだったリジインドの南側にも農地を広げる事にも成功した。この貯水池と河川はリジインドのみならず農地の少ないヒエガリオ郡にも農地拡大の恩恵があったので、これらは後に「デリアの貯水池」「デリア川」と名付けられ、メテルスが実権を握った時は貯水池の清掃と保護がなされ、テヘズがリジインドを支配した時は清掃と改良がなされ中流及び下流の方にも新たに貯水池が形成され、名称はデリア川を理由にデリアの貯水池とされた。 後にデスガンがギスヴァジャ地方に侵攻した際は貯水池と河川を見てすぐに保護対象とし、決戦の場所をリフズラヤ郡に移したという。ラヴォジが再び返り咲いた時も貯水池と河川は保護され、その後も代々の領主が保護し、凡そ千年間はそのままの状態で保護され、住民の安全と生活を支え続けたという。
綿花に似た植物の栽培を試行錯誤して成功に導き、量産に成功。死霊の森付近に生息する虫の蛹から生糸を採取する器具を設計・開発して実用化し、裁縫器具も改良して手動ながらミシンに似た器具を実用化させた。綿や生糸と絹を用いて質の良い衣装や寝具を生産し、平民と貴族向けのデザインをそれぞれ差別化して売り出し、双方に流行させると共に平民・貴族の生活の質を向上させた。それらは行商人達を通じてリジインドのみならず西ギスヴァジャと周辺国に宣伝・伝播させて特産品にする事にも成功した。外交面でもヤージカル帝国とフィルノスロー王国の心証を維持したまま中小領主達を取り込んで国内を固め、ラダミーアとケヘテリにも商人を通じて誼を結び、サイラス地方のカビアンカとも手を結び、仇敵のドアンをも味方につけて東ギスヴァジャ包囲網の構築を進めるなど、大胆な外交戦略を展開した。
戦績が芳しくない割に西ギスヴァジャが容易に崩れなかったのは彼女の頑張りが大きく、テヘズも迂闊に手が出せなかったので実力を蓄える方針に切り替えたという。
デリアの死後は西ギスヴァジャの進路に暗雲が立ち込めはじめ、ラオスとメテルスの死後はムゼドランが実権を握った事で暴政が敷かれラオス達が育てた多くの能臣と忠臣はことごとく闇に葬られ、西ギスヴァジャは一気に滅亡に向かっていくことになる。
志向・主義
力による北蛮大陸の天下一統・革新
成長タイプ
デリア型
能力値
統率力83 武力71 知略86 政務93 外交90 野望91 魅力87
特性
電光石火 槍衾 名将 猛攻 気合 策士 攻城心得 密使工作 外交術 商工人脈 治水巧者 利殖達人 利器発明 都市計画 街道整備 投資の極意 宰相 民心掌握 傾国 強欲
特性備考
電光石火…自部隊の移動力+5、軍団の行軍速度+4
利器発明…勢力内の内政開発の効率上昇、民の生活レベルが上がりやすくなる。
街道整備…街道整備や新規街道敷設の際、複数の地点が選択可能。作業終了時に街道の規模が2ランク上がる。
投資の極意…経済影響力が上昇しやすくなる。全ての投資の効率が大幅に上がる。
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リゼロッテ・リジイン(429〜480)
西ギスヴァジャの幕僚。ゼリウンの姪。ケリセットの娘。デリアの従姉妹。メテルスの母。
デリアの参謀役になりリジイン特務機関の創設して様々な諜報活動を行い、情報統括して策を練りデリアを補佐した。
生まれつき身体が弱く、よく体調を崩しては一族の世話になっていた。中でも従姉妹のデリアには良く世話になっており、彼女の為に様々な暗躍をしたという。
デリアの野望を果たす為の道標としてギスヴァジャ王国の乗っ取りを献策し、デリアはそれを実行した。
しかし、リゼロッテの体調がかなり悪化した事で意識が途切れ途切れとなり、指揮ができなくなった事で計画に乱れが生じ、イルマンとサウゼンス正妃が死去してしまい、策の要になる人材の悉くがトマシュやデリアの側近勢力によって殺されていたので、計画は破綻した。
以降は下策を用いるしかなく、リゼロッテは西ギスヴァジャの体制を整える為に奔走して調整し国を保つことができた。
しかし、473年以降は体調が悪く活動が鈍っており、480年秋に亡くなった。
トマシュ達の無茶な出兵の負担に対応できたのは彼女の存在がデリアとラオスを支えていた為であり、彼女の死後は特務機関の活動が鈍りラオスに負担がのしかかって彼が過労死する遠因にもなった。
志向・主義
地方一統・やや革新
成長タイプ
参謀型
能力値
統率力43 武力5 知略89 政務83 外交68 魅力71 野望70
特性
策士 鬼謀 能吏 密使工作 利殖達人 封殺 虚弱 不運