北蛮南夷先史〜北蛮ゴバル騒乱
北蛮大陸中央北部にあり、ゴバル地方とケヘテリ地方の南に位置し、サントラタ地方の東に位置し、ギスヴァジャ地方とフィルノスロー地方の西に位置し、首都ヤージカルの北に位置するデルトム地方。
この地方は東にデルタミア山脈を源流とする河川が流れ、西はケヘテリジブ大岩山の湧水を源流とする河川が流れており、土地も肥沃で平野と草原・森林が延々と広がる土地柄である。
それ故に南のヤージカルに次いで太古の時代から根付いた部族が多く、文明の開花も早かった。
太古の時代…メンゴルーダがヤージカルを中心に巨大連合勢力を結成し、外交を重ねて近隣地方を取り込んでいくと、デルトム地方の各部族もそれに応じた。
しかし、メンゴルーダがゴバル地方やモタラ地方、サウゼンス地方を取り込んだ辺りでメンゴルーダの外交姿勢は次第に強硬かつ傲慢になっていき、それは北方辺境の各部族を刺激する結果となってしまう。
それでも、メンゴルーダの外交姿勢はますます酷くなり、ついに手土産の貢ぎ物すら持たずに高圧的な態度で交渉に臨み、一方的に話を進め、反対すれば数の暴力で威圧し、人質を取るなどして強引に従わせるに至った。
メンゴルーダの威圧外交に強い不快感を示した北方辺境の各部族は、メンゴルーダを攻め滅ぼすべき敵として認識し、メンゴルーダの威圧外交で同じような目にあった部族達に広く協力を仰いだところ、多くの部族がメンゴルーダ打倒の為に集結した。
…その数、およそ六千…。
北方辺境の民は皆、筋骨隆々とした凶暴な荒馬を乗りこなし、木の杭や石を投擲して狩りを行う民族であり、馬に乗って獣に急迫し杭で獣の急所を一撃必殺する狩りが得意で、動く獣に対する杭と石の命中率はほぼ確実。その機動力と攻撃力は当時でも最強に近く、それらが連合して怒涛の勢いで攻めてくるというのは脅威そのものであった。
メンゴルーダ側は騎馬民族の脅威に対する防策の概念などなく、各自がそれぞれ手にした石槍や手斧で防戦に努めるだけで大した抵抗にもならなかったという。
北方辺境の連合は北方辺境に程近いエティホ地方とラダミーア地方に侵入して抵抗した部族を血祭りにしつつ、抵抗をしない部族は危害を加えずに隠れさせた。三月後には険阻なガミダラ山脈を越えてサウゼンス地方、狭い山道があるゴバラス山脈を越えてゴバル地方を蹂躙。サウゼンス地方とゴバル地方の抵抗は微々たるものであり、多くの部族は北方辺境の連合に食料を渡して交戦を避けた。二月後にはデルトム地方やギスヴァジャ地方、フィルノスロー地方にも北方辺境の連合は殺到し、抵抗した部族は滅ぼされ、抵抗しなかった部族は生かされた。
北方辺境の連合が首都に席巻しつつあるのに対し、メンゴルーダの盟主は諸部族に協力を乞うと八千人余りの戦士が集った。ヤージカル周辺に石罠、穴罠や草罠を構築し、投擲対策に岩の防壁や青銅の板や石の板等を構築し、敵の予想進路に細長い溝を掘って伏兵を配置して備えた。
やがて、北方辺境の部族連合軍が首都ヤージカル付近に進出すると、メンゴルーダ軍は決戦姿勢を整えて待ち構えており、北方辺境の部族連合は隊列を整えてメンゴルーダ軍と睨み合った。
決戦が始まると、メンゴルーダ側は奮闘して一時は北方辺境の戦士達を圧倒し、北方辺境の戦士達が僅かに足を止めた隙に溝に隠れていた伏兵が真下から石槍を突き出し、馬の腹を貫いて北方辺境の戦士を落馬させ、手斧で袋叩きにして討ち取るなど奮戦した。
戦況不利と見た北方辺境の連合盟主は一時後退の合図を出して後退し、それを見て調子づいたメンゴルーダの一部部族が追撃する。
しかし、追撃した部族は杭と石礫の餌食になって壊滅した。北方辺境の連合盟主は部族を再編して従来の正面突撃戦法から怪力自慢の部族による走射戦法からの側面突撃戦法に切り替え、メンゴルーダ側は杭に防壁を破られ、菱入りの石飛礫に気を取られていると、北方辺境の連合が側面から物凄い勢いで突撃してきた。更に正面の北方辺境の部族も突撃を敢行した為にメンゴルーダ側は慌てた。
北方辺境の連合の作戦は成功し、陣形を崩されたメンゴルーダ側は大混乱に陥り、それを見た北方辺境の連合は総攻撃に移ると、挟撃を受けたメンゴルーダ側はなす術もなく蹂躙されていった。
メンゴルーダの盟主は捕えられて北方辺境の掟に倣って殺され、抵抗したメンゴルーダのほぼ全て部族は奴隷とされた。
しかし、北方辺境の連合もヤージカル占拠の際にメンゴルーダの凄まじい抵抗にあった為に三千人余りの死傷者を出す大損害を被り、残った北方辺境の戦士達は千人にも満たなかったという。故郷から遥か彼方に離れた為に補給もなく、目的を果たして帰郷ムードと厭戦ムードが漂った為に北方辺境の連合はその場で解散せざるを得なくなった。
北方辺境の連合盟主は散っていった同郷の戦士や抵抗して滅ぼされた部族を悼み、生き残ったメンゴルーダの知識者と相談して北方辺境とメンゴルーダの流儀を融合させた新しい弔いの儀を執り行ってメンゴルーダの各部族を鎮撫した。これが数千年の歴史を積み重ねる事になる北蛮流の葬儀の原型となった。
北蛮辺境の連合盟主はメンゴルーダの文明にいたく感動し、同時にメンゴルーダの文明発展を妨げたことを後悔した。
それ故にそれらの文明と利器を同郷の部族達とともに吸収・学習し、メンゴルーダの知識者や職人達と共に昇華・発展させて独自の文明を切り開く事に成功したという。
北方辺境の連合盟主は植生による農業で得られる穀物や穀物を加工して作られる飲食物に興味を示し、食料問題の解決の為に農業に力を入れるようになった。
一方で解散した北方辺境の各部族は大陸の各地に散って新たに部族を作ったり、帰郷したり、狩猟生活ができずに野盗になって略奪を働いたりと様々だったが、中にはギスヴァジャやゴバル、サウゼンスに勝手に居着いて好き放題をやらかす輩も出てきた。
北方辺境の連合盟主は度々説得に赴いたが、元が同格の部族の長であったのと、年上だったことも災いして誰も聞くふりだけして相手にしなかったという。
一大決戦に敗れた上に盟主も失ったメンゴルーダの民はメンゴルーダの外交姿勢に不満を抱いていた他の部族達によって追われ続け、正統王族を含む主流派は南へ南へと逃れ、東に流れた者はソムトリケ地方から中央大陸に難民として流れ、主流派は一時期モタラを拠点に復興を目指したが、各部族の猛反対にあってモタラの維持が困難になり、ついにモタラを捨てて更に南東に流れた。
行く先々で駆逐され続けたメンゴルーダの主流派は、最終的には密林の多い新大陸へ逃れ、そこで文明を再構築する事になったという。
一方でメンゴルーダの貴族も他の部族によって西へ西へと追いやられ、先に遥西大陸入りを果たしていたメンゴルーダの領主によって匿われ、その貴族達は遥西大陸の貴族として根付いていく。
北方辺境の連合の盟主を務めた族長は残った僅かな部族や族長達と協議した末にヤージカルに居残ることに決め、そこに根付いていくことになった。
一方、新大陸に逃れたメンゴルーダの民達は北方辺境の連合に襲われた悪夢に苦しめられ続け、彼らを恨みを込めて北蛮族と名付け、ヤージカルから以北を彼らの跋扈する北の大陸という意味で北蛮大陸と名付けたという。
北方辺境の連合盟主は外交姿勢が常に高圧的なメンゴルーダに怒りを表し、故郷を捨てて南に逃れたメンゴルーダを南に逃れた夷狄として南夷と呼び、メンゴルーダが居座る大陸を南夷大陸と名付けた。これが北蛮南夷の大陸と呼ばれる所以となり、定着して後世までそう呼ばれる事になる。
北方辺境の連合盟主がヤージカルに溶け込んでから数百年余り、その子孫達が混血を繰り返して代々盟主を務める家柄として厚遇されて久しくなった頃、部族はより多くの人が密集して定住する集落を形成し、更には氏と家の概念が進み、それぞれが所属する部族名、集落のある地名や伝説、功績に準えた姓を名乗る様になっていた。盟主の家は数多の大家族達を束ねる長という意味合いを持つアズルダと首都の名を冠したヤージカルの両姓を名乗り、これらは「ヤージカルを治める主」という意味合いがあり、それはやがて地方、大陸の王という意味になっていく。
各地に散って新部族を立ち上げた北方辺境の戦士達も貴族化しており、その子孫達は複数の集落を治める勢力家になっていた。
ヤージカル氏は先祖から伝えられてきた、来るべき南夷大陸からの侵略に備えて農業を発展させて食料を蓄え、街道を整備して往来や交易を容易にし、青銅器や鉄器の加工技術を更に昇華させて青銅や鉄の武具を大量に生産し、弓を強化した強弓や半自動化した弩の発明を進め、乾燥した粘土を積み重ねて城壁を高く積み上げ、城門は青銅枠の分厚い木製扉を採用し、軍隊を編成して調練する日々を送っていた。
メンゴルーダは新大陸にてそこそこ大きな勢力を築いたが、一世の雄主を失ったことでかつての勢いは完全に失われており、強硬姿勢を維持した外交姿勢の悪さから悪印象を与えた影響も大きく、思うように勢力拡大ができなかった。
更に百年後、ヤージカル氏は首都ヤージカルにて神聖ヤージカル帝国の設立を宣言し、圧倒的な軍事力を行使して周辺の地方を呑み込んでいく。デルトム地方にはヤージカル帝王の三弟・デルトアが派遣され、事前の仕込みによって見事に降伏勧告を済まし地方を丸々臣従させた。
デルトアはその功績でデルトム地方の王に任命され、軍事内政人事一切を委任され、デルトアが養っていた食客千五百人もデルトム地方各地の郡や国に派遣され、地方統治に力を発揮した。
この地方はデルトアの名から「デルトム地方」と名付けられ、デルトム地方は代々デルトアとその子孫が治める王家としてヤージカル帝国が滅亡するまで存続する事になる。
そして、王家の姓もデルトアの名から取ってデルトーア姓となり、デルトアは「デルトア・アズルダ・ヤージカル・デルトーア」と名乗り、初代デルトム王として君臨した。
デルトアはヤージカル帝王に許可を取り、食客の中でも破格の武勇と野心を持つダヤット・ルスェフとその弟のバウベヤ・ルスェフに兵十万と兵糧八万石を持たせて東のギスヴァジャ地方を支配する北方辺境の末裔を駆逐する様に命じ、ダヤットを「征東夷将軍」に任じ、バウベヤを「東鎮将軍」に任じてギスヴァジャ地方の制圧に向かわせた。
時を同じくしてギスヴァジャ地方の南にあるフィルシムの地方にて在地領主のノスロー家の者が有力者達を説得してヤージカル帝国に臣従し、ケェヌジラ地方から攻め入ろうとしていた帝国軍は労せずしてフィルシムの地方を占拠した。
ダヤットは腹心のイルデと同僚のサズルと共に雷鳴の如き怒声を放って敵に突っ込んで大暴れし、兵達はダヤット、イルデ、サズルに負けまいと死に物狂いで追従して暴れ回り、ギスヴァジャ地方最西端にあるトルア郡を一日で占拠し、翌日にはトルア郡に隣接するズラヤ国、トトズラヤ郡、リフズラヤ郡を占拠し、そこから軍勢を主力撃滅隊と周辺要地制圧隊とを分けてギスヴァジャ地方を順調に制圧していった。
優男に見えるバウベヤも戦闘となると修羅の如き形相で破格の武勇を遺憾なく発揮して凶猛な戦士達を蹴散らし、ダヤットは敵の本拠地であるメルカス郡を制圧し、呪術を唱えるシャーマン達を纏めて叩き潰し、怪力を誇る門番達も一瞬で首級に変え、地方の半分を支配して勝手に王を名乗っていた北方辺境系の貴族達を棍棒で百叩きにして全身骨折させた上で王を自称した者の頭を踏み躙って隷属を宣言させ、宣言後は身動きが取れないくらいに痛めつけてから拘束して首都のヤージカルへ送り届けた。
デルトアはダヤットとバウベヤの功績をヤージカル帝王に伝え、ダヤットをギスヴァジャ地方の王にする様に勧め、かねてからの約束でヤージカル帝王はダヤットに長女を娶らせ、バウベヤに次女を娶らせ、更なる褒美として数多の雷龍が宿るとされる豪槍テランシャと王者の黒鎧が贈られ、更にダヤットを初代ギスヴァジャ王に任命し、バウベヤを副王とした。
ダヤットはすぐにギスヴァジャ地方の北にあるサウゼンス地方の切り取りに動くが、そこにはすでにヤージカル帝王の次弟であり、帝国一の人格者にして切れ者と名高いサウルが入っており、ダヤットの企みは未然に阻止された。
デルトアがダヤットをギスヴァジャ地方に派遣したのは、兄のサウルと相談した上での事であり、野心の強いダヤットを天険の蛮地に封じ込めておき、ダヤットとバウベヤと仲違いさせる策だった。
先にサウゼンス地方を切り取ってサウルの悔しがる顔と失望するデルトアの顔を思い浮かべていたダヤットだったが、反対にサウルに出し抜かれた上にデルトアも共謀していると察知し、二人の術中に嵌って抜け出せなかった事を大層に悔しがったという。
バウベヤはデルトアの教唆の通り妻と共に流刑地とされていた丘下に赴任して善政を敷き、ダヤットは比較的良い政治を行なって民心を掴みつつ虎視眈々とサウゼンス地方切り取りを狙っていたが、その悉くがサウルに封殺されつづけた。
ダヤットはデルトム地方の切り取りも計画していたが、事あるごとにサウルの後方撹乱が猛威を奮った為に全て未然に終わる。王都への工作も計略も周辺外交も全てサウルが一枚上手であり、ダヤットのサウゼンス地方進出の野望は果たされる事は無かった。北上を諦めたダヤットだったが、領土拡大と帝国転覆の野望は諦めておらず、密かに地方南部の桟道を修繕・拡張してフィルノスロー方面にも手を伸ばしていたが、落盤事故や橋の崩落などで工事は遅滞し、更には東にある別大陸西北部のヴィンヘキル地方からくる水賊の襲撃を防ぐのに手間を取らされていたずらに時を費やしてしまう。
ダヤットは野望を果たせないまま在位23年で崩御し、ヤージカル帝王の娘との子で嫡男であるルタが二代目ギスヴァジャ王となる。ダヤットの葬儀にはサウルとデルトアが訪れ、その死を深く悼んだ。これにはダヤットが植え付けた憎悪を逸らし、国そのものを丸め込む狙いがあり、サウルの老獪な手腕とデルトアの人徳により、ギスヴァジャとの間にあった確執は水に流す事に成功し、サウルは交易関税を撤廃して国交は回復した。弔問にはヤージカル帝王とその一族が訪れ、ルタとバウベヤは丁寧に対応し、後日手土産を持って帝都に訪れ、引き続き帝国に忠誠を誓った。
ダヤットの墓はメルカスの北部に築かれ、ダヤットが目指した北に頭を向ける様にして弔われ、ダヤットの石像は黒い愛馬ゲムジンに騎乗して北を向き、野望を抱く勇ましい石像が作られた。
生前のダヤットがサウゼンス地方に進出する為に熱心に削り、掘り進められ、整地されて広い桟道となったこの道をダヤットが野望を抱いて構築し、完成した際に雄叫びをあげて大いなる野望を果たす決意を表明したのに因んで「野望の桟道」と名付けられ、後世には野望を持つ漢達が必ず訪れ雄叫びをあげて胸中の野望を果たす願掛けを行う名所となった。
ルタの意向で王家が在住する首都になったメルカスはダヤットの名を冠してダヤッカスと改名された。
ダヤットの死後、サウルとデルトアはルタを支援し、ルタも二人を尊敬して良好な関係を築いたが、バウベヤは水面下で進むサウルとデルトアの侵食を防ぎつつ、ルタを諌めた。
数年後にサウルが病死して後継に孫のノアスが立ち、デルトアが危篤になると、ルタとバウベヤは見舞いに訪れ、懸命に看病するもデルトアは後継者のスリングの事をルタに頼んで数日後に崩御した。
デルトアの葬儀には大陸中から貴賤問わず多くの人が駆けつけ、その死を惜しまれた。特にヤージカル帝王は自ら弟の亡骸に寄り添って涙を流して長年の功労を語り労い感謝の言葉を贈り見送った。
バウベヤも妻子を連れて葬儀に参加し、かつての主君であるデルトアの亡骸を見て号泣し、かつての仲間であるデルトアの食客達と共に悼んだ。
デルトアの後は三男のスリングが継ぎ、新しい世代のデルトム王、サウゼンス王、ギスヴァジャ王は会談を設けて同盟を強化した。
スリングは偉大過ぎる父の影に潰されない様に務め、即位から十五年で名君と評される程になった。
しかし、スリングの子達は揃いも揃って不出来であった為、後継者は長男に定めた上で兄弟協力して国を治める術を教えた。スリングの子供達は父と祖父を尊敬していた為、これまであった誇りや不満をかなぐり捨てて歩み寄る様になったという。
スリングは在位27年で病死し、後は長男が継ぎ、兄弟全員が協力して国政に励み、それなりにデルトムを強固にした。
デルトアの遺臣達の子孫は代々デルトム王家に仕える家柄として確立し、スリングの兄弟は公爵家として地方各地を治める領主として代々続き、スリングの子孫達は直系王族として代々続いた。
スリングの崩御から約百年後…デルトム地方の北の地方…ゴバル地方を治める王家が断絶し、王家よりも在地貴族の勢力が強勢になる。
ゴバル地方はゴバル王家の三代目が暴政を敷いた為に反乱が頻発しており、その因縁からか王家による支配を嫌っており、ゴバル諸勢力は隙あらば王家とそれに忠誠を誓う家臣達の九族を暗殺し、伽の妨害や王子と王女の速やかな毒殺・事故に見せかけた暗殺を徹底し、ゴバル王家と家臣達の血が残らないように仕向けた。
ゴバル諸勢力は王家の根絶やしに成功して実権を掴み、ヤージカル一族から新しいゴバル王家が派遣されると、影と護衛、家臣を一人残らず睡殺し、王を幽閉し影武者を使って傀儡とした。
新しいゴバル王家を不審に思っていたデルトム国王ヤトルは使者を遣わして様子を探らせようとしたが、使者は尽く行方不明になっていた。サウゼンス王家も使者を遣わしたがこれも行方不明になったまま戻らなかった。
ゴバル諸勢力はヤージカル帝王に逐一讒訴して外交関係を制御しようとしたが、ヤトルとイルマンに妨害されて上手くいかなかった。
サウゼンス王家がゴバル遠征を決めると、ゴバル諸勢力は莫大な銭を使って大量の傭兵を雇い、百万石相当の兵糧と二十万人分の武具を掻き集めて開戦準備にかかった。三ヶ月後にサウゼンス軍三万がゴバル地方に侵入すると、ゴバル諸勢力は私兵六千を囮にして傭兵達を後方に待機させた。
天候は霧がかった弱い雨天であり、ゴバル諸勢力の私兵六千は適当に戦ってから逃げ出し、調子づいたサウゼンス軍が猛追撃をかける。しかし、追撃したサウゼンス軍先陣一万は三方に伏せていた傭兵十万の総攻撃を受けて全滅。それを合図としてサウゼンス軍の本隊の両側面の丘に伏せていた傭兵十五万が逆落としにて襲い掛かり、サウゼンス軍本隊は瞬く間に壊滅した。
この戦の指揮をとっていたサウゼンス王は最期まで叱咤・奮闘したが数多の刃、槍衾を受けて討ち死に。重臣達も将軍達もほぼ全てがボーナス目的の傭兵達に討ち取られた。
国王と有力な重臣達が全て討ち取られたサウゼンス軍は総崩れになり、投降も許されない徹底的な掃討戦で兵一人に至るまでが殺された。
勢いづいたゴバル軍二十五万は討ち取った王、重臣、将軍、兵長の首級を矛先に掲げながらサウゼンス地方に侵攻し、バロフの関前でサウゼンス軍の惨敗を喧伝し、サウゼンス王家と地方全ての隷属化を要求し、代案として破格の賠償金と姫達を人質として差し出す事なども要求した。王と重臣達の首級を見たサウゼンス王家は激しく動揺したが、王太子のノルテニアは一喝して動揺を鎮め、ノルテニアは代理の王になって防戦を指揮、仇討ちの宣言を行ないつつ、事の次第を記した書状を持たせた急使を走らせ、ギスヴァジャ、フィルノスロー、デルトム、ヤージカルに向けて仇討ちの協力を要請し、デルトム国王ヤトルはゴバル諸勢力に散々好き勝手されていた為にすぐに快諾したが、フィルノスローは旨みがないとして傍観した。
ギスヴァジャ国王イルマンは戦友の死に衝撃を受けたものの承諾し、対するゴバル諸勢力は同盟国のケヘテリとサウゼンスの背後のラダミーアとギスヴァジャの背後のフィルノスローと結託して三国を牽制する。
ゴバル諸勢力は二十五万の兵力と最新の武装を行き渡らせてサウゼンス王国の十倍の戦力を有していたが、初代サウゼンス王サウルが築いた錯覚要塞型のバロフの関はダヤットと凶猛なるギスヴァジャ兵達ですら落とせなかった難攻不落の関所であり、守るだけでなく隙をみて積極的に打って出るノルテニアの獅子奮迅の戦いぶりにも圧倒されて攻めあぐねる。
バロフの関の攻防戦は二週間続いたが、ゴバル諸勢力はいよいよ補給が困難になり、更に短期契約の傭兵が多かったことや割に合わないとして十万人近くの傭兵が離脱。そこへ慌てた伝令が駆けつけると、ゴバル勢はあわてて撤退する。
ラダミーアとサウゼンスの国境付近に布陣して挟撃の機を伺っていたラダミーアの先遣隊三千だったが、バロフの関の戦況に気を取られて索敵を怠り、サウゼンスの別働隊の奇襲により壊滅してしまった。
翌日に先遣隊壊滅の報を受けたラダミーア王シヤル・エティシオ・ラダミーアは驚愕して撤退したという。
ゴバル諸勢力の撤退はヤトル王率いる三万の軍勢がゴバル地方に侵入しつつあるとの報告があった為であり、ゴバル諸勢力は現地補給と契約更新を済ませて十二万の兵力を結集させ、デルトム王を討ち取るべくデルトム軍の迎撃に向かうが、そこで思わぬ計算外が生じた。
懐柔していたはずの北方辺境の異民族が戦力の薄くなったケヘテリ北部とゴバル北部を狙って荒らし回り、クリンヘ将軍率いるケヘテリ軍は北方辺境の異民族討伐に向かったが劣勢を強いられた為に援軍を要請してきたのである。
ゴバル勢も戦力を分割して対北方辺境異民族に三万を投入して北方辺境異民族討伐に向かわせたが、更に困惑する報告が届く。
ラダミーアが撤退し、ノルテニア率いる五千の軍勢がゴバル地方に攻め込んできたのである。
ゴバル諸勢力はまたしても軍勢を分割して対サウゼンスに二万を投入し、七万をデルトムに向かわせたが…。
数日後、北方辺境異民族はゴバルの討伐隊が到着するや農作物を全て刈り取ってから撤退してしまい、ケヘテリ北部とゴバル北部の秋の収穫に大打撃のみを与えて去ってしまった。ギスヴァジャ勢が野望の桟道を通過してノルテニアと合流して総勢三万となり、対サウゼンスに向かったゴバル勢は眼前に現れた、巨馬に跨り一丈もの長さと百斤の重さがある狼牙棒を棒切れを振るうが如く軽々と捌いて見せる巨漢…ギスヴァジャ王イルマンの姿と凶暴で名高いギスヴァジャ兵の異様なまでの殺気を見て震え上がり、さっさと撤退してしまう。
ヤージカルからの援軍を得たデルトム勢は総勢十四万になっており、ゴバル勢は数的不利と見て決戦を避けた。
ゴバルに雇われていた傭兵達は動く城のごとき帝王車とその周りを護衛するヤージカル帝国の正規軍十万の威容を前に萎縮してしまい、報酬も貰わずに散り散りになって逃げていき、ゴバル諸勢力の戦力は私兵と僅かな傭兵のみになってしまった。
「フィルノスローの暴熊」の異名を持つフィルノスローの王太子ヤテリ・デルトーア・フィルシムがギスヴァジャ地方南部のリジインドにちょっかいをかけてきたという報告があった為、イルマンは仇討ちをノルテニアに依頼しつつ、三万石相当の兵糧と軍馬千頭を譲ってギスヴァジャに引き上げた。
ノルテニアは騎馬隊を編成して物凄い勢いでゴバル地方を攻略していき、ゴバル諸勢力は各個撃破されていった。
ゴバル諸勢力は傀儡にしていたゴバル王の首を差し出してヤージカル帝王に降伏する旨を伝えつつ虚実入り混じった経緯を話して保身を計ったが、可愛がっていたゴバル王の首を見たヤージカル帝王は「我が従弟を殺しておいて…なんと図々しい…!」と内心激怒し、表面上はゴバル諸勢力に情状酌量の余地ありとして降伏を許すふりをし、ゴバル諸勢力が降伏したので戦闘中止する様に認めた勅使を向かわせるとしたが、裏では影にゴバル諸勢力の捕縛を命じ、ゴバル諸勢力討滅の勅令を勅使に持たせてノルテニアの下に向かわせた。
ゴバル諸勢力の諜報機関は勅令状を疑って勅使を狙ったが、その勅使と一団こそがヤージカル帝国の影であり、すり替えは失敗し、刺客は全て返り討ちにあった。
ヤージカル帝王から直々に勅令を賜り大義名分を得たノルテニアは、後顧の憂いなくゴバル諸勢力討滅に励む事となり、ヤージカル帝王に欺かれて帝国の敵となったゴバル諸勢力は外交を遮断され、資金源も断たれて独力で抗戦するしかなくなった為、ノルテニアを警戒していたゴバル諸勢力の一部は友好国であるケヘテリへと亡命していったが、帝国の敵という意味が分からない上にノルテニアの力量を侮った一部のゴバル諸勢力は抗戦するも、いずれも二時間余りで蹴散らされた。
ノルテニアは先頭を切って敵陣正面に突っ込み、敵兵を蹴散らし、跳ね飛ばしながら疾駆し、馬上から繰り出される槍は鬼神に等しく、ノルテニアの通った後は道も土も草木も敵将兵の血で染まらない事は無かったという。
ノルテニアを女顔の王太子と侮っていたゴバル諸勢力の歴戦の将兵達はノルテニアの凄まじい戦いぶりに戦慄し、やがて恐怖に駆られ、総崩れになったという…。
この戦い以降、ノルテニアは「北都の戦鬼」と呼ばれ、恐れられる様になる…。
ケヘテリ王家にもヤージカル帝王からゴバル諸勢力討滅の詔勅が訪れていたが、ケヘテリ王・トラシェ・カタートス・ケヘテリオはゴバル諸勢力残党を哀れに思い、国内に匿う事にしたという。
ゴバル地方を平定したノルテニアはゴバル諸勢力が逃げ込んだケヘテリにゴバル諸勢力の身柄を引き渡す様に要求しつつ、「仇討ちの戦である故、貴国を戦火に巻き込む真似はしたくない」とも揺さぶったが、ケヘテリ王トラシェはシラを切り通した。
しかし、ノルテニアの揺さぶりは将兵や民衆にとって効果絶大であり、先の北方辺境異民族の襲撃で民心が離れていたのもあって、ケヘテリの民衆はゴバル諸勢力を包囲し、将兵もゴバル諸勢力の行手を遮って妨害した。
民衆の猛反発と将兵の妨害を見たトラシェは、掌を返してゴバル諸勢力の捕縛を命じ、不意を突かれたゴバル諸勢力は大半が捕縛されてノルテニアに引き渡された。
捨て駒を身代わりにしてまででも逃げおおせたゴバル諸勢力残党の幹部達だったが、ヤージカル帝国の影達によって一人残らず捕えられ、ノルテニアに身柄を引き渡された。
ノルテニアはゴバル諸勢力の残党を全て拘束して檻車に乗せ、帝国の影とデルトム軍の護衛と共に首都ヤージカルへ護送し凱旋。
ゴバル諸勢力は裁判により裁かれ、罪の重さに従って次々と刑罰が課された。保身に走った幹部達の告発により長達は王族断絶の真相が暴露されたが、長達の告発により、幹部達が独断で新たなゴバル王とその従者達を睡殺したことが暴露された為、長達と幹部達は王族及び貴族達をその手にかけた罪により三族棒罰百回と斬首刑が確定し、積極的に加担した者達で罪の重い者も斬首刑または棒罰百回の後に終身重労働刑を課され、罪の軽い者も有限労働刑に課された。
ゴバル諸勢力の長達と幹部達の一部は泣き喚きながら三族の命乞いをしたが、ノルテニアの大喝とゴバル開戦での殲滅及び恫喝を責められると、長達と幹部達は黙らざるを得なかった。
ヤージカル帝王は最終確認をした後に刑罰が執行され、ゴバル諸勢力を形成していた者達は歴史からその姿を消した。
ノルテニアは改めてヤージカル帝王に謁見し、正式にサウゼンス王に任命され、ノルテニア・フェルブ・サウゼンスと名乗る事を許された。空白地帯と化したゴバル地方北部の統治を任された他、戦死した先王と重臣達、将兵達の補償とゴバル再建の資金に巨額の資金が手配され、北方辺境異民族の田畑荒らしの補填として二百万石相当の食糧も手配された。
美少年ながら並外れた武勇と統率力と胆力を持つノルテニアを評価したヤージカル帝王は第三王女ルミエとの婚姻を仄めかし、ノルテニアに丁重に断られたものの、婚約を結ぶ事には成功した。
ノルテニアはサウゼンスに帰国し、奪還した父の遺骨を初め、重臣達の遺骨も代々の墓に改葬して弔うと、空位になった王位継承を巡って叔父と従兄弟が揉めていたのを鎮め、ヤージカル帝王からの公式任命書を読み上げさせて皆を納得させた後に正式に王位についた。
トラシェはノルテニアがゴバル北部を治めると聞いて恐れ慄き、サウゼンスとの同盟を模索したが、先の北方辺境異民族との戦いと田畑荒らしで国庫が枯渇寸前であり、収入も減る一方で身動きが取れずに頭を悩ませていたという。
ラダミーア王シヤルはすぐにサウゼンスと交渉に移ったが、ノルテニアを騙す事はできずに怒らせてしまい、これが国境紛争の引き金となる。シヤルが国境紛争に手をこまねいている内にノルテニアは両方の勢力の間に立って説得し、国境紛争を鎮めてしまった。
シヤルは苦労して削り取ったアノザフ郡を手放す羽目になり、サウゼンスと講和を結んで国許に帰っていった。