君が為に
冬の日。たとえ空は快晴でも、空気はとても冷え切っている。だが、青年の目覚めはいつもと違って最高のものだった。
「それで後悔はないんだな」
「はい、これが僕にとっての一番ですから」
「そうか。預かっていた物は夏川に渡しておく」
「ありがとうございます」
「また会おう、日陰宵」
プツリと電話を切って、青年は上を向く。その表情は昨日とは違い晴れやかだった。ゆっくりと扉を開けて外に出る。そこで最初に目に入るのは、彼の大切な人だ。
「おはよう、雪さん」
「おはよう、日陰さん」
一ヶ月ぶりのいつものやり取り。二人はお互いの顔を見て、にこりと笑った。この時間はかけがえのない大切な物で、どうにかなってしまいそうなほど愛おしい。
「いってきます」
「いってら……」
少女の言葉が詰まる。一体どうしたのかと青年が足を止めると、背中から小鳥が枝に止まったかのようなか弱い衝撃が加わった。
「いかないで」
少女は青年のコートをギュッと握りしめた。か細く掠れた声は青年も初めて聞いたものだった。目に溜めた涙がコートに染みをつくる。
「こんなことを言うのはわがままだって分かってる。だけど、この感情だけは押し殺せないの」
青年を引き止める手に力が入る。少女はもう押し殺すのをやめた。彼女は自分の真っ直ぐな感情を、大切な人にぶつけている。
「日陰さん。私は貴方を愛しています。だから、ずっと私と一緒にいてください」
その言葉を聞いて、青年は安堵と喜びが混ざり合ったような声で笑った。
「よかった、雪さんもそう思っていてくれたんですね。本当に、よかった」
青年は振り返って少女と目を合わせた。朝日の光が反射し流した涙が光り輝く。青年は、自分の大切な人の涙を流す顔を見て、自分の選択が正しかったことを確信した。
「大丈夫ですよ。あの話は断りましたから」
「えっ、それって、ホントに……」
少女は驚きの表情をしていた。あまりに呆気なく自分の願いが叶ったこと、そして、夢を叶えるためのチャンスを不意にした何も拘らず満足げな表情をしている彼に驚いていたのだ。青年は彼女を見つめたまま、ゆっくりと優しくこう言った。
「昨日考えたんです。僕の音楽は何のためにあって、どうすれば一番輝けるのか。それで思ったんです。僕の音楽は、大切な人のために……雪さんのためにあるんだって」
青年に迷いはなった。大切な人のために奏でる音、それが彼の持つ本当の音だ。自分勝手だった青年はもういない。そこには、大切な人のために美しい音楽を奏でるバイオリニストがいた。
「たとえあなたの気持ちから目を背けて海外に行ったとしても、僕は進むことはできない。あなたのそばで、あなたのために音楽を奏でる。これが、一番いいんです」
青年がにこりと笑ってそう言うと、少女の感情は振り切れて青年に抱きついた。青年がそれを受け止める。なんでもない冬の日に、ある男女の恋が実った。それを祝福するかのように、朝日は光り輝いていた。