夢に惑う自分
目覚まし時計が鳴り響き、目を覚ました。それと同時に、この布団の中から出るかどうかの葛藤が始まる。ペラリと布団を退けると、極限まで冷やされた空気に触れる。そしてすぐさま布団に潜る。そんなことを少しの間繰り返し、ようやくベッドを出て暖房をつけることに成功した。まだ寒い部屋の中で体を震わせながら朝食の準備をする。トースターに食パンを入れ、コーヒーを淹れ、部屋が暖かくなってきた頃に全ての準備が完了した。
時計を見て、まだ時間に余裕があることを確認し、朝食をとり始める。パンを咀嚼しながら、春からのことに想いを馳せる。海外で実績や経験は自分の「バイオリニストになる」という夢の成就に大きな助けとなるだろう。自分の夢への大きな一歩。それは、異国で生活するという不安をかき消してしまうほど嬉しかった。しかし、そんな僕にも心に引っかかるものがあった。食器を水につけて、荷物を持って扉を開ける。
「おはよう」
「あ、えっと、はい」
アパートの門を掃除していた朝日さんいつも通りの挨拶をする。だが、彼女は小さな声で返事をした後、すぐに顔を逸らしてしまった。いつもならば「おはよう、いってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれるのに。ここ最近は、さっきみたいに素っ気ない。原因は分かりきっている。僕の海外行きだ。自分で言ってしまうと小っ恥ずかしいが、それが事実なのは確かなことだ。そして、僕も彼女が好きだ。彼女が僕におはようと言ってくれなくなってから、心の何処かにポッカリと隙間ができてしまったように感じる。それが何よりも証拠だろう。雲で隠れた朝日の下で、冷たく乾いた風が吹き抜けた。
朝早くの大学は、虚な目をした学生が多い。一人暮らしの苦労、バイト、自分たちの未来、様々なものがのしかかる彼らにはこの時間に起きるのは辛いだろう。そんな中、たった一人馬鹿みたいに明るい奴を僕は知っている。
「おっはよーさん」
その男は底抜けに明るい声で挨拶をし、後ろから寄りかかってきた。まだ眠気が残る頭に、目の前で紙袋が爆発したかのような衝撃が加わる。
「夏川は朝から元気だね」
「そういうお前は元気がないな。特に前のコンクール以来、酷い顔してるぞ」
彼は僕の頭を鷲掴みにし、髪の毛をわしゃわしゃと掻き乱した。彼の言っていることは正しい。正直言ってここ最近体が重いし、意識もはっきりとしない。せっかく海外に行けるチャンスを手に入れたのに、こんなことではダメなのは分かっている。しかし、どうにも吹っ切れることができなかった。
「雪さんに振られたか」
「違うよ。そもそも付き合ってもないし」
「おいおい、それって大丈夫なのか。お前はもうすぐ外国に行くんだろ。今のうちに告白して付き合わないと、誰かにとられてるぞ」
彼はこういうことをはっきりと言う。普通は遠慮してしまうことを何の躊躇いもなく。それが彼の魅力でもあり、その性格が彼の真っ直ぐな音楽を創り出しているのだろう。
「そうだ、俺が最近作った応援ソングで告白の勇気を与えてやろう」
「朝っぱらから大音量は他の人に迷惑だよ」
そんなことを話していたら、いつの間にか講堂に着いていた。席について荷物を置く。その三十分後に講義が始まった。しかし、僕は居眠りをしなかったはずなのに、教授が何を言っていたのかよく覚えていなかった。
小さな個室で音が響く。自分は相棒を握りしめ、二人の男の前で力強く音楽を奏でる。しかし、今日の僕は自分の音楽を奏でられていなかった。昨日、朝日さんの前で奏でた音楽はこんなものではなかったのに。手が震えた。宇宙空間にいるかのように、僕の音は虚空へと消えていく。いくら力を込めても何も響いてこない。そのまま一曲が終わった。僕を海外に連れて行ってくれると言った秋山真月さんと、友人の夏川太陽は、演奏を終えた僕に対して、なんとも言えない目を向けていた。
「日陰宵、今日はより一層酷いな」
「すみません」
「このままだと、海外の話も取り消しだぞ」
「えっ、それは……」
その瞬間、僕は自分が嫌になった。秋山さんの言葉を聞いて、焦りよりも喜びが大きく心に現れた。言い訳ができたと思ってしまった。夢か朝日さん、どちらを選ぶか迷っている僕に、仕方がないと思える逃げ道ができたと思ってしまった。それは、僕の夢のために感情を押し殺している朝日さんへの侮辱であり、僕の心の弱さの証明だった。
「秋山さん。それは少し待ってあげてくれませんか」
「夏川太陽、それは分かってる。さっきのは半分冗談だ。彼の奏でる純粋な音楽は貴重な才能だ」
秋山さんは立ち上がり僕の目の前まで歩いてきた。すると、突然彼は僕のバイオリンを取り上げた。呆気にとられていると、彼は僕の肩を叩いてこう言った。
「しばらく音楽から離れろ」
「え、何でですか」
「お前には心を整理する時間が必要だ。音楽は心を映し出す。今のお前の音の乱れはそれが原因だ」
秋山さんはそのまま部屋を出て行った。立ち尽くしていた僕に、夏川がよって来た。
「ほら、秋山さんもああ言ってるし、さっさと雪さんに告白しろよ。なんなら俺の応援ソングを」
「いや、いいよ」
ギターを構えた夏川を手で制して、そのままハッキリとしない足取りで部屋を出た。空になったバイオリンケース、それが異様なほど重く感じた。