夢に向かう貴方
灰色の空の下、私は雪を巻き込んで吹き荒ぶ風に体を震わせながら、母のアパートの除雪をしていた。雪は程よく積もっていて、近所の子供たちが雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりして遊んでいる。一通り仕事を終えて、白い息を吐く。腕時計を見ると、針は三時過ぎを指し示していた。手に持っていたスコップを倉庫にしまってから、私は傘を二本持ってアパートを急いで飛び出した。住宅街の道には無数の雪だるまや雪うさぎが居て、ところどころ地面が露出しており、ここの雪景色は美しさを失くしていた。
足元に気をつけながら走り、大通りに出た。白い被り物をした街路樹の側を傘をさして行き交う人々は、降り頻る雪に物珍しげに目を向けていた。この喧騒の中では、雪の白色も木々の上でしか確認できなかった。コートのフードを深く被り、人々の間を縫って駅へと駆け足で向かった。駅に着いてから辺りを見回すと、屋根の下で空を見上げて途方に暮れている彼を見つけた。
「日陰くん、ここにいたんだね」
見つけ出した彼の元に歩いて行き、笑顔で声をかける。私を見た彼はギョッと驚いて、慌てて駆け寄って来た。
「朝日さん、こんな寒い中、わざわざ傘を持ってきてくれたんですか」
「そんな所。さ、早く帰りましょう」
傘を渡すと、彼は申し訳なさそうに頭を下げてから傘を開いた。サイズが少し小さかったせいで、肩にかけた黒いバイオリンケースがはみ出してしまっている。もう少し大きなものを持って来ればよかったと思いながら、彼の隣について帰途についた。
帰り道の途中、私は周りを見渡してため息をついた。どうかしたのかと彼が聞いてきた。何でもないことだが、話の種にはなるだろうと思って彼に話した。
「せっかくの雪なのに、綺麗な雪景色がないなって思ったの。どこもかしこも地面がはみ出てて、白の中に黒が混ざってる」
「見たいですか?」
「そうだね。雪なんてそうそう見られる物じゃないし」
私の言葉を聞いた彼は、少し考えるような仕草をした後、何かを思いついたように手をポンと叩いた。
「良い場所があるんですよ。行ってみます?」
優しい瞳でそんな事を言った。うんと頷くと、彼は私の手を引いて帰り道をそれた。彼はこうやって、何でもないことも真剣に考えてくれる。真面目で優しい彼は、誰にでもそうしてしまう。そんな所も、私は好きだった。
しばらく歩くと、町外れの高台についた。私はここにずっと住んでいるが、ここまで来たことはなかった。
「ほら、ここから見える景色は絶景なんです」
柵に手をかけて下に広がる街を見渡す。街は白く染まり、灰色の空と相まって寂しげな雰囲気を醸し出している。そして、それは美しくもあった。私が景色に見惚れていると、彼はケースからバイオリンを取り出した。それは手入れが行き届いており、白と灰色のこの場所で、光り輝いていた。
「傘、お願いできますか」
彼の望み通り、私は傘を彼の頭上でさして、降り頻る雪を防いだ。それを確認すると、彼は大きく深呼吸をして演奏を始めた。その音色は聴くもの全てを魅了するほど綺麗で、その上で目の前の景色に合った寂しげなものだった。いつしか私は、景色ではなく彼の奏でるメロディに聞き入っていた。永遠とも思えた時間が終わると、私は深くため息をついた。
「やっぱり、綺麗だね」
「あなたの歌声も綺麗でした」
そう言って彼は微笑んだ。私は思わず口を手で塞いだ。いつの間にか私は歌を歌ってしまっていたようだ。しかし、そんな歌声なんかを褒められても、ちっとも嬉しくなかった。
「それで、例の件についてなんですけど、四月になったら出発だそうです」
「そうなんだ。はやいね」
彼は先月のコンクールで、とある音楽家に目をつけられ、海外の音楽隊に入れるという話を貰っていた。今日もそれについての話し合いで出かけていた。それについて、私は嬉しくもあったし、寂しくもあった。私は彼が夢を叶えることを望んでいる。その心に嘘はない。それでも、私は彼の側に居たい。その心は本物のはずだ。だけど、私なんかが彼の夢を邪魔して良いはずがない。私は夢を諦めた人間だ。彼が褒めてくれたこの歌声は、私にとっては負の産物でしかない。でも、彼は違う。彼の奏でる音色は輝いていて、どこまでも純粋で美しい。もし、私が彼に行って欲しくないと伝えてしまったら、優しい彼はきっと迷ってしまう。その迷いが彼の音楽を汚してしまう。あの透明で純粋な音色が濁ってしまう。それだけは、どんなことよりも嫌だった。
「朝日さん、どうかしましたか?」
後ろから彼が声をかけてきて、私はハッと目を覚ました。私はいつの間にか柵の向こう側をただひたすら見つめ続けていた。いや、見つめていたわけじゃない。たまたまそっちに目が向いていただけだ。私は、叶わぬ願いを叶えようと、必死に足掻いていた。