第416話:希望 2
階段そばで倒れたまま動かない男を冬と認識した夏は、ずりずりと、いまだ動きの鈍い体を動かして近づこうとする。
そんな夏を、天津はまるで猫を持ち上げるかのように首筋を掴んで持ち上げた。
「は、離しな、さい……っ!」
「いいではないか。冬は死んだ。俺が殺した。なかなか楽しい余興であった。それ以外のお前の親しいものは一心同体。その言葉通りに肉と血――その体となったのだから共にいるではないか」
「なにを、あなたが……っ!」
「それよりも、だ。これでいいのだろう?」
「なにが……」
「お前が愛した縛の体と、お前が愛した俺そのもの。ほれ、これでお前の伴侶たる俺達が一つになったのだから、これで困ることはあるまい?」
「……あなた、何を言っているの?」
「お前の愛を独り占めするということもなく。それらが共にいるのだから。いいではないか。俺は我が伴侶のためなら、自分を倒したにっくきこの男さえも許してみせよう」
やっと体が動かせるようになってきた夏の暴れる四肢を、紫の光を器用に扱って動きをとめると、満面の笑みを浮かべて天津は言う。
二人が一人を愛している。
では、二人を一人にすれば、一人が一人を愛することができる。
それはある意味、正しいことなのかもしれない。その一人に淘汰されたもう一人が報われないことを除けば。
その一人というのは、今でいうなら、夢筒縛のことである。
「は、離しなさい。縛、縛っ!」
必死に呼びかける。
その体の持ち主が目覚めてくれることを願い。
「何度声をかけても無駄だ。もうあやつはこの体にはおらん。すでに消し去ってやったわ」
「そんな……」
「ま……待てっ。このまま、いかすわけにはいかない」
「待てと言われて、待つものはいないと教わらなかったか? それか……。なるほど、死にたいのか。死にたいのならいくらでも。片手のお前が勝てると思うか?」
「勝てるわけがない。ただ聞きたいだけだ。お前は、何がしたかったんだと!」
樹は自分の背後に片手を隠した。すでに片手しかない樹である。その片手さえ失えばこれから先の行動に支障をきたすので隠したのだが、負けると分かっていても片手で戦うという意思を向けたと思える動作に、「勇敢で無謀なことだ」と、天津はにやりと笑う。
「何がしたかった、か。簡単なことだ。ただ、我が伴侶と共に生きるだけだ」
「……そんなことのために」
樹は、呆れているような発言をした後、背後に回した手で背中に触れた。
「そんなこととはまた言ってくれるな。俺からしてみると、長く生きてきた中でできた伴侶だ。逃すわけがあるまい」
「私は、あなたの妻じゃないっ!」
「この体の妻ではあろう?」
「どっちの妻でもないっ!」
「おかしいことを言う。そこにいるのも、冬も。その体を構築した娘も、どれもお前の子であろう」
「それは……」
「まあ、いい。お前が俺の元に来ればそれでいいのだ。お前のためにこの体を乗っ取ったのだから。ほれ、見た目は元の俺よりこっちのほうが好みだろう? お前たちは確か、この土地で生まれて好き合っていた。その男が神を倒す力を持ち、神をその身に降ろしたのだ。素晴らしいことだと思わぬか」
「……っ」
樹は、なかなかに辛い体勢ではあるものの、痴話喧嘩で意識が逸れたタイミングで、背中に触れた手を使い、拝殿で春が取り出した型式の『式』である丸い球体を体から取り出した。
ここまでしか聞ける情報はない。
このままでは、いつどのタイミングで天津に殺されるかわからない。殺される前にやり直す必要がある。
樹は、『未知の先』の『式』の、空っぽになった『奉納』に、指示を与える。
春が言っていたことを思い出す。
<お前が、覚悟できているのなら、だが……お前の、命、または寿命を捧げればいい>
「……捧げて。俺の命を捧げてやり直しができるなら」
自身の命を削る。
そう選択する。
「ん? おい、お前、今何か言ったか?」
気づかれた。
痴話喧嘩をしていた天津が、紫の光を樹へと向ける。
「に、逃げなさい、逃げなさい、樹っ!」
「今更、逃げるなんてことも、できないだろう。逃げることができたのなら、お前達が痴話喧嘩している間に隙を見て逃げている」
紫の光に掴まれて身動きのとれない夏が、樹へと必死に促す。
狂ったよう逃げるように叫ぶ夏に、樹も、逃げて型式を使いたいと思う。
思うが、すでに樹も満身創痍なのだ。
「遅い、な。まあ、いい。死ぬといい」
「遅いのはどっちだろうな」
樹は、球体に触れて、自身の体に押し込もうとする。
押し込めば、樹が指示した『奉納』が型式に取り込まれ、そして『未知の先』は発動する。
やり直しの型式。
自身の命。それもやり直した先でまた活動できるだけの寿命を残す。それだけで、どれだけの時間をやり直せるかなんてわかったもんではない。
記憶という何百、何千、何万と、人の生きてきた情報を『奉納』して、数年辺りのやり直しだった。
「一か八か、だっ!」
紫の光が辺りに群がる。
樹を満遍なく、ゆらゆらと揺れながら糸のように隙間なく。刺し殺しばらばらにするかの如く、辺りに空気のように、充満するかのように。
死の気配を伴って。
「瀕死の男に、よくもまあ、念入りに」
受ければただでは済まない。
躱せる自信もなければ、それを捌ける自信もないし、ただこの身で受ける自信だけがある。
受けて、ばらばらになって死ぬという事実と自信。
目を閉じた。
樹は、祈る。
やり直せることを。
この型式に、賭ける。
「『未知の――』」
——その、型式の『式』を押し込む手が、もう一つ、あった。
辺りに。
「樹君。まだ、間に合いますか?」
隙間なく。
「この、型式の塊に僕は、いや。僕が、捧げます」
樹を護るかのように。
きらきらと光を。煌めきを放ちながら――
――銀『糸』が、舞う。




