第35話:傷の治りは遅く
朝。
「ぐう……」
自分の家で、冬は熟睡していた。
冬は、それなりに高いマンションの一室を、八年前に購入している。
マンションタイプの2DKの部屋に一人住んでいる。
隣も冬と同じ一人暮らしだ。
年齢も同じくらいだと入居時に聞いてはいるが、周りの住民とは挨拶もかわすこともない、静かなマンションだ。
「……ぐう……」
そんな家だからこそ、自然と警戒は薄れてしまったのか。
それとも、ただ疲れていただけなのか。
がちゃっと、誰かが侵入してきても、冬は熟睡しているため、全く気づかなかった。
「……ぐう……」
「……」
幸せそうに眠る冬を見て、侵入者はため息をつく。
「なぁ~んで、私が起こしに来なきゃいけないんだよぉ……もう少しで遅刻だよぉ……」
そう言い、軽く紫のかかった前髪を手で掬いながらため息をつく。
冬と同じくらいの年の少女である。
「ほら、冬。起きなよ――ん?」
と、冬を揺すり起こそうと手を伸ばす少女は、冬の顔を見てふと奇妙なことに気づく。
「……なにこれ。ゴミ?」
冬の頭にそっと触れてみる。彼女は身を乗り出し、自分の体が倒れないように手を冬の腹に乗せた。
「ぎっ!? ぎぃやぁぁっ!?」
「きゃあっ!」
冬がいきなり上半身を起こし、すぐに少女を撥ね除けて、腹を押さえて丸くなった。
少女が全体重を乗せたその場所は、二次試験で絆から受けてまだ完治していない傷がある場所だ。
まだ二次試験が終わって間もなく。
昨日シグマから殺人許可証試験の終了と取得を言い渡された次の日である。
治りきるわけもなく。
冬は盛大に眠りから覚めて、無防備に寝ていた自分を悔やみながら痛みと戦う。
「いたた……い、いきなり何するのよ!」
少女は地面に腰をぶつけたらしく、腰を擦りながら怒鳴り声をあげた。
「そ、それはこっちの台詞です……? あれ、スズ……ですよね?」
腹を押さえ、横目で少女を見る。
濃厚な日々を過ごしていたためか、妙に懐かしく感じるいつも通りの少女。
この家に侵入しているのはまだ理解できるし、学園に登校するため起こしにきてくれているのも理解はできた。
だが、なぜこの少女に痛みを目覚めなければならないのかと。
急いでいたのか、制服のリボンが結ばれていない。紫のかかった前髪の少女は、どこから見ても冬の幼なじみのスズだった。
「……何で確認してるの」
「そんな話し方でしたか?」
「何が言いたいのよ」
「スズは、もう少し喧嘩腰だったような気がしたのですが……」
痛みがやっと治まり、冬はベッドから降りて背伸びする。
そこまで行動をし、やっと自分が愚かな言葉を口走ったことに気づく。
……後ろを見れません。
見たら間違いなく、怒り狂ったスズからの一撃を頂くことになる。
蹴りならまだいい。ご褒美がある。
拳が来たら、ただ一撃を貰うだけ。
「……そんなことどうでもいいよ。冬、怪我してるの?」
少しむっとした声がしたが、あまり怒ってはいないような雰囲気に、冬は、残念なのか、安心していいのか。と、微妙な気分を味わった。
「怪我してるね」
「別に、怪我なんてしていませんよ」
「……冬の癖を教えてあげる。何か隠し事をしてるときは、一瞬黙るのよ」
怒ってないのであればと思い振り向くと、すぐ後ろにスズがいた。
「……ねぇ、冬」
スズが冬の頬を軽く撫でながら、誘惑的に微笑んだ。
冬を問いつめる時、スズはこう言う動作をする。
冬が色仕掛に弱いことを長年知っているからこその行動である。
しかし、冬も長年の経験から、抵抗力がついているので負けてはいない。
負けては、いないのだが……今回は場所が場所だ。
微笑むスズを見てごくりと喉を鳴らしてしまう。
「……怪我、してるんでしょ?」
「い、いいえ」
「もうっ! 素直じゃない!」
そう言うと、撫でていた頬をつねり、痛みに体を強張らせた冬をベッドに押し倒した。
「す、スズっ!?」
「ほら、見せてみなさい!」
「い、いやっ! やめてぇぇぇーーーっ!」
「なに女の子みたいな声出してるのよ!」
そう言う会話がしばらく続き、執拗に腹部をつんつんされて痛みに悶えながら、力も入らず冬は上半身の服を全て剥がされ。
「……うっ……」
思わず、その傷を見てスズは呻いた。
「……な、なによ……これ……」
冬の腹部は、紫色と赤色が入り交じっていた。肌色はどこにも見当たらない。
冬はスズによって脱がされた衣服を近くにまとめて置き、制服を着始める。
「……冬、何があったの……?」
冬は無言で制服を着ていき、最後に腕時計を左腕につける。
冬はバッグを肩に担ぎ、スズを通りすぎて寝室から出ていく。
話せるわけがない。
自分が、表世界でも知られている、殺人許可証所持者として。
これから表世界から離れ、裏世界に行くなんて。
でも。
話してしまった方が自分のこれからを考えるとよかったのかもしれない。
そんな想いもあったのは確かで。
だからこそ、見せてしまったのかもしれない。
冬は、伝えられなかった。
「あ、待ってよ……」
弱々しい声を背にし、玄関で靴を履く。
「冬っ! 待ってってばっ!」
冬はその声が聞こえなかったのか、それとも無視をしたのか、玄関のドアを開けて外へと出た。
追い付いたスズは不安そうに冬を見つめる。
「……スズ。急ぎましょう。遅刻します」
「その前に……手……」
「手……?」
そんな疑問を浮かべた冬の一瞬の隙をついて、スズが冬の手を握りしめた。
スズは、怖かった。
あのような怪我を見たこともなく。
ましてや、それがよく知る自分の幼馴染みの体にあった。
それを無理やり見てしまったことで、冬が自分の前からいなくなってしまいそうな。
漠然とした不安感が沸き上がっていた。
いつまでも傍にいるはずの彼がいなくなる。
そう考えると、決して、この手を放してはいけないと。
「冬。……怒ってない?」
「はい?……怒る……?」
我にかえり、見つめていた自分の手のやり場に困りながら、冬はふと思う。
今にして思えば。
スズは常に傍にいてくれた。
自分が姉を探していることも知っていて、時には手伝ってくれたこともあった。
でも、こんな風に手を繋いだことなんてなくて。
……温かい。
その手から伝わる温もりは、殺しを経験した冬には勿体無く思え――
「さっき、私のこと無視して通りすぎたから……見られたくなかったのかなって……だから、ごめん」
「……怒ってなんかいませんよ。別に見られてもよかったですし。……ただ、何を言えばいいか思いつかなかっただけですよ」
「そう……よかった……」
スズはほっと安堵のため息を漏らした。
こんなことで、冬が自分の前からいなくなるのではないかと、不安も吐き出すように。
「さ、行きましょうか」
「うん」
冬は、この温もりを少しでも長い間感じていたくて。
そして、二人は歩き――
「じゃなくて! ちゃ、ちゃんと病院に診てもらいなよっ!」
「……あ」
病院。
そう言えば行ってなかったですね。
スズの必死さに負け。
恥ずかしそうに勢いよく離れていったスズの手に寂しさを覚えながら。
病院に行こう。
なんて。今さら思う冬であった。




