第303話:壊れ壊れて生まれ変わる 16
型式は、自由な力である。
イメージの力。
人の想像力と創造力を使って、使い手が自由に作り変え発動できる力である。
樹の使う『模倣と創生』のような特例はあるが、人によって同じものはない、自由な型である。
冬は、常々。
型式という存在を知って、それを覚えたときからも、思っていた。
【なぜ、二つまでしか、
型式を一つのものに対して使えないのか】
人間の創造力が作り出す能力である。人の力を超えるような力が溢れてしまうのだろう。人の体に負担がかからないよう、体、ないしは脳――人にとって重要な器官が制限をかけているということもあるのだろう。
実際に、型式を使うと、疲れる。
冬も、使用していた当初は疲れを感じることも多く、それは理解している。
それこそ四つの型全てを使ってしまえば、何でも出来てしまう。何でも出来てしまうから、脳の処理が、体が、追いつかず壊れてしまうのだろう。
だが、考えてみれば、型式を使うに当たって、特殊なことをしようと思わない限りは、四つの型を使うことそれそのものに、意味はないのである。
それは、一つ一つの型は、他の型と同等のことが出来るからだ。
例として、『疾』の型と『焔』の型を上げてみよう。
『疾』の型は主に、自然の力を操り、自身の力とする型式であり、大気を操ることが前提の能力ではあるが、極めることで身体能力を超える高速移動を可能とする。
それは、つい先程、音無が伸縮する糸の力と合わせて行ったことでもある。
『疾』の型で得意とする、速さを特化させたイメージであり、『疾』という言葉からも、風や速さをイメージしやすいのではないだろうか。
だが。
自然の力――大気を操り身に纏うことで、『縛』の型と同じく防御をすることもでき、纏ったことにより筋力さえも高めることもできる。イメージ次第ではその膜に対して『流』の型で主流の癒しの効果さえも与えることができるだろう。
『焔』の型でも同じである。
筋力をあげることで、早く動くこともできれば、防御力を高めることもできる。必然と、自己治癒もあがるであろう。
特殊な例ではあるが、『焔の主』が自分の体の一部を爆発させて推進力とすることで、『疾』の型を超える速度を出すことだって可能であれば、ダメージさえも炎の塊なのであるから無効化することだって可能なのである。
つまりは。
型として分かれているのは、あくまでどのジャンルから進むか、人がどれがイメージしやすいか、という選択肢なだけとも考えられるのだ。
だからこそ『主』と呼ばれる存在は、その『主』としての単一型式を極めたものに与えられる称号とも言える力で、一つの型式を使っているのだ。
そして、冬は、ずっと思っていた。
『焔』の型で筋力を高め、『縛』の型で硬さを高め、『疾』の型で素早く動く補正を行えばいいのでは。
これは先の型式は一つの型で成立しているという部分に、相反する思いである。
この思いは、彼の師――A級許可証所持者『紅蓮』こと青柳弓から型式を伝授してもらったその時に聞いた言葉で、より一層彼の心に残り続けていた。
師匠、青柳弓は言っていた。
<型式を覚えたなら、それは防御策にもなる。相手に作用するものなら特に。だから、僕の『紅蓮浄土』は、そこまで万能ではないんだよ>
その意味は、単一型式であれば、防御することも可能である、と。
あのような単一型式の極致である型式でさえも、万能ではない。だから弓は、
<新しい型式を、作ってみたいんだよね>
<この力だって、初めて使えた人がいたからこそ今こうやって使えるようになったんだ。だったら、新しく作り出すことだってできると思わないかい?>
そう、自身の夢を語ったのだ。
単一型式では万能さに欠ける。複数型式では二つまでしか扱うことができない。
だからこその、第三の選択。
新しい型式を創ること。
だけど。
それは師匠の夢であり、冬の夢――行き着きたい場所ではない。
冬は冬で、また別の思考を持っていた。
それが、
【二つ以上の複数型式の使用】
である。
冬は、この戦いの中で、一つの疑問を持った。
型式を、なぜ、単一に対して複数使おうとするのか。
簡単な話であり、誰もが辿り着いたものではあるのであろう。
それそのものは型式を使う誰もが力を得るに当たって考えて実践し、その結果、型式を行使できなくなったことから、使うことができないと、思ったのだろう。
冬も同様に、この戦いの中で自分に対して、『疾』の型で体を護りつつ、『焔』の型と『流』の型を場合によっては切り替えて戦うようにしていた。
それが冬の基本の型式の使い方である。
相手とする同じく糸を使う美菜は、冬と違って、自身の扱う糸を、『疾』の型で創り上げていた。
創造する糸と、実際の糸。
どちらが強いのかと言われれば、想像により創り出された糸のほうが、より自身の思い通りにも動くし、強度も変えられるのだから強いのは創造された糸である。
実物の糸より強靭で自由にカスタマイズできる想像で創造の糸。目に付かないように消したままにしておくこともでき、必要とあれば現出させることができる、メリットしかない糸。デメリットとしては、使い続ければ、創造物を現出させているのだから、脳が疲れる、ということだろうか。型式を使っている間は、疲れるというのは当たり前なのであるので、使い慣れることで欠点は軽減可能である。
そこに、冬が思うヒントがあった。
この、『別天津』の二人と戦う前。
冬は、戦いの中で編み出した技『総曲輪』において、『疾』の型を実物の糸に、流し込み、強度をあげ、動きを早くし、切れ味を良くした。
そして、今。
美菜の糸の使い方をみて、より強く感じた。
自身と、糸。
二つにそれぞれの型式を、二つずつ使えばいいのではないだろうか。と。
これさえも、恐らくは裏世界で型式を使う誰もが、実践したことであるのであろう。ただ、この考えが主流となっていないことには、理由がある。
型式は、疲れるのだ。
先のファミレス勢を助ける際に冬と戦った殺し屋達は、冬が型式『無用心』と腰の装着された自動迎撃装置『布』を操り続けることに、なぜ疲れないのかと驚愕していた。『布』は型式ではないため勘違いではあるのだが、型式を使い続け慣れることで疲れを軽減することはできても、長時間複数型式を使い続けていると見えれば驚くのは当たり前である。
常時単一または二つの型式を使い続けるのだからそれ以上の負荷を、かけることができない。
それが、
型式を四つ同時に使えない理由でもあり、複数の型式を使い続けることができない、型式の常識である。
そして冬の、
自身と、糸。
二つにそれぞれの型式を、二つずつ使えばいいのではないだろうかという疑問は、疲れる行動であり、複数に対して複雑な力を与え続けるのだから、異常を及ぼし、最悪、負荷がかかりすぎて動けなくなる可能性がある。
それは、戦いの最中で、ましてや今自身の貞操にさえ危険性が及んでいる冬にとって、それは致命的だ。
だけども。
冬は。
過去に、もう一人の人格――本来の主人格が、精神内部で隠れ住んでいた。
本来の自分がそこにいたのであるから、今の冬は副人格であり、擬似的な二重人格であったと言えよう。
その二重人格は今はいない。ぽっかりと穴が空いたようにいなくなったことで、その分の容量もまた空いているのである。
複数人格者との違いは、人格統合された等ではなく、綺麗さっぱり、抜き取られたように消えている、ということではないだろうか。
つまり、冬は。
普通の型式使いより、人一人分多く、型式を扱うことができ、疲れにくい。
「『総曲輪』――自身と糸に、型式を、のせる――」
自身に、身体能力強化の『焔』の型と、その力によって負担となる体を癒す、自己治癒の『流』の型を。
糸に、速さを増幅させる『疾』の型と、強度を高める『縛』の型を。
普通の型式使いが、熟練の型式使いが。
出来なかったことを、出来るのだ。
その結果の『総曲輪』が、二人に襲いかかる。




