第177話:大きな大きな樹の下で 11
落ちていく。
そんな感覚が、すぐに理解できなかった。
ふっと、体が急に軽くなった気がして。地面に向かって体が引っ張られるような感覚と体が一気にぶるりと緊張感を覚えたところで、やっと自分が落ちていると理解ができた。
なぜ? 何が? どうして?
自分に何が起きたのか分からず。
樹君が、どうして?
すう姉は無事?
いや、樹君もまさか一緒に落ちて?
そんなわけがない。
床が抜けて落ちた――いや、落とされたという事実に気づく頃には、すでにかなり落下した後。
暗闇の中のため、自分の平衡感覚さえも狂っていく。
「くっ!」
動きづらくなった体、無理やり動かして糸を射出して意識を集中させる。
射出された糸の先端が一瞬だけ抵抗のある物体に触れた。刺さることはない。なぜなら、糸が投げられて到達する間も冬の体は落下し続けているからだ。
どこまで落ちるのか分からないその落下。
もしかしたらもうすぐ地面に到達するかもしれない。
今この状態で到達すれば、見事なまでにぐちゃりと真っ赤な華を咲かせて絶命するだろう。
そんなわけにはいかない。
死ぬわけにはいかないと、すぐに腰の箱に触れた。
どうやったらこの腰の『布』が出てくるのかは分からないが、どこかに射出するためのスイッチがあるはずと、とにかく触り続ける。
「どこ、どこですかっ! 出てきてくださいっ!」
いつ地面に到達するか分からない状況下に、気持ちが焦る。
周りに誰もいないことが分かっているからか、大きな声で叫んでしまうのは、恐怖を紛らわせるためか。
落下するそのスピートも徐々に上がっていき、動きも阻害され押し潰されそうな感覚に心が染まっていく恐怖。
出てきてください。
そんな指示に反応したのか、箱から一斉に『布』が飛び出した。
暗闇の中四方に射出された布は、勢いよく遠くにあるはずの壁にそれぞれが突き刺さり、がりがりと大きな音を立てて壁を削りながら冬の落下スピードを減速させていく。
落下スピードが落ち着いてきたところで、糸も射出して固定させると、ぷらんと、宙に浮いたままだらりと楽な体勢になって心を落ち着かせる。
時折、跳ねるような布のたるみに、ぼよんぼよんと揺れる様が何より滑稽だと思う。
死ぬかと思った。
それは間違いなく思ったことであり、まさに何もしなければ死んでいたであろう。
落ちてきた空を見上げてみるが、そこに天井があるかも分からないほどに落ちたようで、光さえ見えない。
それは、すでに床が閉じられているためであるのだが、それは冬にはわからなかった。
「降りるしか、ないですよね」
空を見ても暗闇が広がるだけ。周りを見渡しても暗闇があるだけ。
唯一落下先を見ると、暗闇の中に唯一の白い光が見えた。
一人になってしまった。
周りに仲間がいなくなった。
だけど、進むしかない。
なぜなら、進む先にスズがいるはずだから。
そう自分を奮い立たせて、意を決して布と糸を駆使してゆっくりと地下へと降りていく。
「よっと」
意外と早くに降り立つことの出来た先は、何もない場所だった。
前後方にそれぞれ扉が一つだけあり、各々の扉を開ければ、また真っ直ぐな通路が続いているだけだ。
荒れているわけでもなく、清潔感はあるようにも思えるが綺麗さがあるわけでもない。
遠方が見えない程度の天井の弱弱しい光に照らされた通路。
壁が天井の光をうっすらと反射し、まだ周囲は明るく見える程度、といったところで、何も聞こえない静かなその場所は、酷く不安感を掻き立てられる。
歩いていく先に所々にある扉。
その扉を好奇心で開けてみるが、やはりそこに目的のものはない。
あるのはいまだ稼動している機械の音。
実験の跡。
ここにいる誰かが、この場所、このフロアで大規模な実験をしているかのような跡。
暗がりの中には、時折、何かの生物であったことを思わせる肉塊もあれば、何もないベッドだけが置いてある部屋もある。
生活感があるわけでもなく、ただ部屋だから置いてみたとでも言っているかのような殺風景な部屋。
だけども。
自分が進んできたこの施設の中で、もっとも人がいると思わせる場所。
冬は、まっすぐ続く、薄暗い通路の遥か向こう側を見る。
「この先に、いる……」
なぜか、冬は確信していた。
この通路の先に、自分が求めるものがある。
冬は進む。
外にはまだ仲間がいる。
この遥か高みにも。信頼できる仲間がすぐそこにいる。
春から受け継ぎ、姉から先を託され。そして、まだ戦い続けているであろう皆のためにも。
裏世界のためにも。
自分のためにも。
今は前へ進み、その先にいるはずの、自分の恋人――水無月スズを助けるために。
冬は、その道を、進む。
一方。
巨大な落とし穴とも言える暗闇の穴へと落ちて行った冬と強制的に別れさせられた枢機卿は、警戒しながらも樹の紡いだ言葉に驚愕する。
『……あの下に、『縛の主』が、いる、と?』
「ああ」
『そこに、冬一人で、向か……あえて、向かわせた。と?』
「そうだ」
ぎりっと、握り締められた枢機卿の拳に、みしみしと、自分の機械の手を壊しかねないほどに力が篭められていく。
『貴方は……『縛の主』に冬だけで勝てると?』
枢機卿は、断言する樹の顔面を、とにかくめちゃくちゃに破砕してやりたい衝動に駆られた。
枢機卿も他の姉に冬を任せられているのであり、自身も機械の身とはいえ、実の弟のようだと思っているからこそ、冬を護りたいのだ。
そんな危険な敵に一人相対させたいわけがなく、その相手は【四院】だ。高天原の頂点であり、裏世界でも禁忌と言われる存在だ。そんな相手に一人立ち向かえば無事ですむわけがない。
「勝てないだろうな」
『っ! ならばな――』
「――冬は『縛の主』に負ける」
そこまで断言するのであれば、なぜ一人でいかせるようなことをしたのか。
「だから……あいつが勝つために。俺達が裏世界を、表世界を護るために。その為にも。俺達の許可証と、お前が必要なんだ、枢機卿」
『……だから、何を……』
ちぐはぐなことをする樹に、ただただ困惑するしかなかった。
枢機卿が冬を助けに行く時間は、刻一刻と、少なくなっていく。
冬が、『縛の主』と相対するまで。
残り、数分。




