第116話:現実と幻覚
「――ゆ」
肩に置かれた手が、冬の体を揺らし、冬にとって唯一である女性の声が、
「……ふゆ、冬っ!」
必死に、叫ぶように、その冬の目の前で起きた、信じられない光景に途切れ途切れとなった意識を揺さぶる。
「しっかりしなさいっ! 冬っ!」
その声は、冬の意識をゆっくりと。
《《引き戻す》》。
引き戻すために使われたのは、ピュアの型式『幻惑』。
《《冬にかかった幻惑》》と似通った精神攻撃を、幻惑の力を使い、上書き、解除した。
その結果。
冬はその胸元に引き寄せたはずのそれがないことに気づき、わなわなと体を震わせる。
確実に目の前にあったそれは、スズであった。
そのスズであったそれは、今は冬の目の前から消え。
だが、そこにあったという感触だけは、そこに残り続けている。
スズが、目の前で、死んでいた。
それは確かに冬は感じていた。視覚でも、手から感じた触覚でも。
「な~んて、ねっ☆」
そんな声が聞こえて、見上げた。
先ほどと同じ場所に座り込んだままの少女。
刃月美菜。
元、冬と同じファミレスの従業員であり、その屈託のない笑顔で周りに愛されていた少女。
「お兄ちゃん、驚いたー?」
その屈託のない笑顔を向けるその少女は、人の死なぞ興味もなく、人の死を撒き散らす、紛れもなく、
「殺してなんかいないよーっ。美菜がいるのに浮気したのが少しだけ許せないから、お兄ちゃんを驚かせてみましたー☆」
無邪気な、人の命をなんとも思わない、裏世界の殺し屋である。
「何を……」
「冬、聞きなさい」
呆然として座り込んだままの冬に、ピュアが同じように座り込んで肩を抱く。
「スズちゃんは無事。あちらはスズちゃんが絶対必要だから、きっと無事」
「必要……?」
「いいから、今は、スズちゃんが無事だってことだけを信じなさい」
「信じろって言われても……今……」
「型式よ。強烈な幻覚を見せる型式。だから、対抗しなさい。型式、覚えたんでしょ?」
そういわれて、冬ははっと我にかえる。
型式には型式。
使わなければその幻覚に騙されてしまう。
すぐに、型式を発動した。
ありったけの、どれでもいい。
とにかく、自分が使える型式を。
「『疾』の型……」
真っ先に思いついたのは、その型だった。
今は目の前で起きていたはずの、感触だけが残るそれを、吹き飛ばしたかった。
だから、風を印象付けるその型だったのかもしれない。
自身を周りでうっすらと吹く風を体に纏うと、霧がかかったかのようにぼんやりとしてしまうそれに、常にこの場では型式の攻撃を受けているのだと気づき、このぼんやりと、高熱を出しているかのような体のふわふわ感は、型式による防御が効いているということなのだと分かった。
改めて、その元凶である美菜を見る。
以前と変わらないその姿。なのに、彼女はこのように残酷なことを平気でできる殺し屋なのだ。
「本当は、本当にそうしたかったの。でも、あのスズって人は、殺すなって言われたから」
そう言い、美菜は立ち上がる。
食堂の机の上で立つ美菜は、座り込んだままの冬を見下ろしながら、先にピュアが言った通り、スズはまだ生きていることを告げる。
そのまま信用すればいいが、信用ができない。
だから、聞き出す必要があった。
「人形さんで、いたぶってみたの。少しはすっきりしたかなっ」
そして、美菜の傍に、唐突に現れるスズの姿。
だが、これは先程とは違い、その姿に違和感を感じた。
生気を感じることのできない、まるで――
「にん――ぎょう……?」
気を抜くとそれは、話しかけてきそうなほどに精巧で、今にも動きそうな、まさに本物の人がそこにいるかのような錯覚を感じさせる。
「美菜の型式『人形遊び』だよ。人形を型式で作って。でもそれだと人にすぐにばれちゃうから、そこに幻覚かけるの。この子は人ですよーって」
型式で人形を作り出す。そして、その人形が本当にそこにいるかのように認識をすり替えさせる。
「この子を見た対象に、違った認識を返すの。人形じゃなくて、人だって。ほら、今はこの人形、スズって子に見えるでしょ?」
くるりと、立てた人差し指を回すと、美菜の傍にあった人形は、和美、そして美保へと順番に姿を変える。
「許せなかったから、毎日のように作っては殺したよ? 和美お姉ちゃんも美保ちゃんも、なんでお兄ちゃんの傍にいるのか分からなかったから、何度も何度も」
にぃっと、不気味な笑顔を見せた美菜が、人形をスズの姿へと固定した。
「何度も」
そのスズの腹部に、ずぶりと、腕を突き立てる。
「何度も」
その腕は、スズの体に埋まっていき、時間をかけずに背中へと突き抜ける。
「何度も、何度も……何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も……何度も……何度も何度も何度も何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も――なぁんどぉもぉー」
抜かれては刺され、刺されては貫かれ。
虚ろに、無表情に貫かれながら貫かれる衝撃に体を軽く揺らしながら。
その人形は、ただ、美菜のなすがままに。
「――でも、ね。殺しちゃダメって。言われたから、殺せなくて」
人形の首元に、白い閃光が走ると、ぐらりと首が落ち、鞠のように床に落ちてはころころと冬の足元へと転がる。
「……」
スズではない。
目の前で美菜が造り出した人形だと。
そう思っても、その人であると思わせるほどに精巧で。
これだけ憎いのであれば、憎いからこそ殺したい。なのに殺せないから憎しみが募る。それがこの暴挙の理由なのであれば。
スズは、まだ、生きている。
そう思わせる行動だった。
「だからせめて。拉致ってお兄ちゃんの前で酷い目に合わせようと思ったのに。なのに、お兄ちゃんは裏世界から逃げてくし」
その頭部だけとなった人形に、効果はないと感じたのか、人形は消え。
「《《スズ》》を手に入れたことは誉められたけど、全然嬉しくないよ」
次は和美の姿をした人形が現れた。
その人形は、ころころと姿を変える。
「なぜ、こんなことを」
「お兄ちゃんが好きだから。お兄ちゃんを一人占めしたいから」
時には血を流し、滴らせた姿に。
時には、ばらばらにされて転がる姿に。
時には、先と同じように、首だけの姿に、首がない胴体を晒したり。
「お兄ちゃんのことが誰よりも好きで、誰よりもお兄ちゃんに愛されてる美菜がいるのに、ちょっかいかけるからこうなるんだよねっ、そう思わない? お兄ちゃん☆」
見るたびに、冬の心に入り込んでくる黒い意識に、塗り潰されないように必死に意識を保ちながらも、冬は、何が正しいのか、惑わされてないか、言葉のなかにある不信を精査しながら必死に耐える。
「スズはどうにもできないけど。和美お姉ちゃんと美保ちゃんは殺してもいいって言われたから。もう――」
「まっ……二人を、どうしたのですかっ!」
耐えていた冬の心の中の壁に、隙ができた。
黒は次第に心に入り込み、壁を食い破る。
「あははっ。お兄ちゃんに近づいていい思いしてたから、裏世界に、ぽいって、置いてきたよ?」
「置いて――」
「色んな人に襲われちゃって、飽きたらばらばらにされて。今頃は材料として並んでるんじゃないかなー。……あはっ☆ お兄ちゃん、型式が綻んでるよ?」
二人の姿をした人形が現れ、にこりと笑顔になったかと思えば、砕けて、千切れ、原形を留めない姿に変わり、溶けては消え。
「ほら、よく見て」
「……あっ――」
ゆらりと、冬の見ている人形が、形を変えた。
「お兄ちゃんの、大切な、大好きな人だよ」
「僕の……大切な……」
人形は、先のようにばらばらになったり潰れて原型を留めていなかったり等はなく、複数の姿にも切り替わることなく、一人の少女の姿を形作っていた。
それは、美菜だ。
「ほら、お兄ちゃん、一緒に行こう? 美菜と一緒に、裏世界で幸せになろう?」
「幸せに……美菜さんと……大切な人と……」
美しく、綺麗で、冬の大事な、愛すべき人である、その目の前の少女を護りたいと思えた冬は――
『鎖姫が先行して探しに行きました。安心しなさい』
「――っ!?」
冬の心が美菜の言葉に侵食され、染められる前に、間髪入れず枢機卿が冬を引き戻す。
「僕は……なにを……」
何を、考えていたのかと。
抵抗していたはずなのに、入り込まれていた。
『相手の言葉に惑わされず。気を張りなさい。相手は貴方より上位の殺し屋ですよ。一般人でも同業者でも。言葉巧みに簡単に貴方を騙す、その道のプロです』
「また、僕は……枢機卿、ありがとうございます」
枢機卿に戻してもらえたからこそ分かる、心をゆっくり塗り替えられていくような、型式で抵抗していたからこそ分かったこの精神を侵略されていく気持ち悪さに、冬の顔も歪む。
『まだ、希望はあります。諦めないように』
「はい……」
まだ、彼女達が美菜の言ったようになっていないことを祈りつつ。
冬は、気を引き締め直す。




