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マリアが扉を抜けると、そこは霧立ち登る街路であった。
彼女は首を傾げつつ、そっと脚を下ろした。振り向けば気配無く扉が消えていて、薄汚れた壁が広がっている。手を当てて見ると、ひんやりとした肌寒い感触以上に、ぬめりと湿気を帯びた感触が奔り、不快感で直ぐに引っ込めた。鼻先に近付いた掌から、海が近いのだろう、潮騒とコールタールが混ざり合った匂いが香る。マリアは眉間に皺を寄せた。
しかし、一体ここは何処だろう。黄ばんだ、悪臭漂う煙の如き霧の中を歩きながら、彼女は周囲を見渡す。少なくとも、マリアが居た街では無い。それが所属する国とも。あそこは北部以外海になど面していない。それから靴裏より、壁と同じ感触がする事もあるまい。ねちゃねちゃと音を立てるそれは、実に不愉快極まり無い。神に縋る思いで天上を見上げても、あるのは分厚い灰色のカーテンだけであり、憂鬱な気持ちに変化は訪れない。
ともあれ構わない、早くシューレを見つけ出さなくては、とマリアが手を擦りながら進んでいると、霧の中に呆と浮かび上がる影に目が止まった。瓦斯灯の仄かな明かりの下で、その人影は佇んでいる。輪郭から察するに男性の様だったが、女性であるマリアよりもまだ頭一つ小さい上に、倍近い横幅がある。何とも不恰好な体型だった。
不摂生とそれは容易に結び付き、マリアは嫌悪も露に一度脚を止めた。まだ言葉を交わす所か、ちゃんと見てもいなかったが、それでも余り近付きになりたい類では無かった。
しかし、背に腹は変えられない。少年を見つけ出す為には、まず知識が必要なのだ。その取得先が好ましからざる所であったとしても、他に無いならば仕方もあるまい。
マリアはそっと取り出したハンカチで手を拭いつつ、人影の元へと歩み寄ろうとした。もしかして、これこれこの様な少年を見ませんでしたか、と聞こうとして。
だが、それよりも早く、人影は街灯の下より抜け出した。濃厚な、視界を塞ぐ霧の中にあって、彼は少々ふらついた足取りで、だが確かに彼女の方へと近付いて来る。
風切り音と共に、下腹部に冷たいものをマリアが感じたのは、その次の瞬間だった。
真正の驚きに目が開かれ、冷たさと痛みと、込み上げる熱さに視線が歪む。
彼我の距離は決して近くで無かったが、見た目以上に素早かったのだろう、男はもうマリアの目の前に居た。もとい、その下、懐の中にというべきか。両手で、ナイフと呼ぶには聊か凶悪過ぎる短剣を握り締め、口元には筋肉を無理矢理引き上げた笑みを浮かべて。
一体何が、と思う間も無く突き出された刃は彼女の肉に深々と入り込み、助けを乞うよりも早くに抜き出された事で支えを失ったマリアは、力無く地面へと倒れ込んだ。
流れ続ける血に意識は薄れて行く。馬糞が練り込まれた道から、死が這い寄って来る。
鼻歌交じりに男がマリアを物色し、財布と指輪を奪い去って行ってから幾らの時が経った後、彼女は、遠くから来る二人分の足音、それに続く二人の人間の声を耳にした。
そして死が脳髄を引き千切る刹那、マリアが耳にしたのは凡そこの様な言葉だった。
「見てくれたまえアレックス。どうやら、また被害者の様だ」
「嗚呼……また助けられなかったな。あの忌々しいドッペルゲンガーっ」