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それはマリアとシューレが、二人して買い物ついでの散歩に出掛けていた時の事だった。
最早彼はシュレディンガーでは無く、シューレ・フォン・ハイゼンベルクならば、街の住人達も滅多に声を掛けてくる事は無い。皆、そうしたいのは山々なのだけれど、傍らに居る義母が怖くてとてもじゃないが出来はしない、と、そんな表情で一杯だ。
マリアは彼等を見、自分の教育が功を成しているのだと感じて、誇らしくなった。良き人間が放つ空気は、そうで無い人間を退ける力があるのだと、実感した。
その為、薄ら笑いと共に、シューレが吐息を発した事には気が付かなかった。
勿論、角を曲がったと同時にその姿が消えた事には、流石に気付いたのだけれど。
「シューレ?」
はっとして、マリアは辺りを見渡した。
彼の姿は何処にも無かった。正に忽然と、シューレは居なくなったのである。
彼女は慌てた。自身、それが起こるのを望んでいたにも関わらず、余りに突然であった為、不意を突かれてしまったのだ。何がどうなったのかと、彼女は右往左往した。
と、そこでマリアはもう一つ気が付いた。
角を曲がって直ぐの所に、開け放たれた扉がある事に。
彼女は訝しがった。この道の、この建物に、こんなものがあっただろうか。まだ、街に来て日が浅いけれど、それでも覚えている限り、ここに扉など無かった筈である。
だが、マリアは我知らず察していた。
ここがそうに違いないと。この先に、シューレはきっと居る筈だと。
彼女は扉の中へと視線を送った。
良く見かける木戸のその先は、一本の通路となっていた。照明は無く、薄暗くて奥に何があるのか解らない。ただ真っ直ぐ伸びているだけの様だが、その長さだけでも、尋常のものでは無かった。明らかにそれが貫く建造物の幅を超えている。
まるで魔法の様、とマリアは思い、そこで納得した。
あの少年ならば、こういう事も在り得るだろう。
在り得るが、それと逃げ出した罪は別である。逃げたのかどうか、そもそも本当に居るのかすら、この時点ではまだ確定的で無いにも関わらず、彼女はそう断定した。
ならば連れ戻さなくてはなるまい。ここまでの教育一切が何ら功を奏していなかったのは悲しい事だが、ここで諦めてしまっては、大人として示しが付かないでは無いか。
マリアは眉を吊り上げると、意を決した様に扉の中へと脚を踏み入れた。
通路は寒々とした大気に満ちていた。外は煉瓦だったが、ここは石の様で、硬く冷たい靴音が周囲に反響する。手探りで触れる壁は殆ど氷であり、彼女は小さく悲鳴を上げてしまった。我ながら恥ずかしいと直ぐに咳払いしたが、その声も彼方へと響いて行く。
「シューレ、居るのでしょう。出て来なさい、何もしやしませんから」
もう一度咳払いしつつ、一歩一歩、ゆっくりと先に進みながら、彼女は言った。勿論詭弁であり、戻って来たならば、相応の目に合わせ、シューレに取って何が一番必要なのか、解らせるつもりであったけれど。物は言い様という奴である。
それが彼にも解っているのか、反応は返って来なかった。
マリアは白い吐息を吐き出して、もう一度叫んだ。
「いい加減にしなさいシューレ。こんな事をして、何が愉しいというの」
だが、やはり返事は無く、ただ彼女の木霊だけが続くだけである。
あの子、私を馬鹿にしているんだわ。彼女はさっと頭に血が登るのを感じた。何が許せないと言って、侮蔑される事程腹立たしい事も無い。仮令それが義理の息子とは言え、だ。
既に入り口は遠く、日の光も去ろうとしているが、マリアは歩みを早めた。
ここが一体何処であり、これが一体何であれ、兎にも角にもシューレを捕まえる。
今の彼女の中にあるのは、ただ純粋で、歪みの無いそんな一点の意思だけであった。
その気高き精神の元、冷気に満ちた暗闇の道をどれだけ進んだ事だろう。
外の輝きが星灯りに似始め、流石のマリアも疲れを覚え出した頃、唐突に視界が開けた。
眼に突き刺さる光に、彼女は呻いた。そっと手で目元を覆いながら、周囲を伺う。
そこに広がっていたのは、円計状の小部屋であった。広がっていたと形容するのもおこがましい狭さであり、遥かな頭上には外光に似た、だが強烈さは人工のそれである照明が、『∞』の文様が刻まれた床に向け、光輝を放射している。曲線を描いて一周する壁には、等間隔で入り口と同じ様式の扉が五つ付けられ、そのどれにも床と同じ文様を象った、金属板の看板が取り付けられている。小部屋に入ったマリアが見ると、看板にはこの様な文字が、正面の扉を最初に時計回りの順番に描かれていた。即ち、
『IMG』
『B&B』
『T・A』
『O・R』
『6・R』
ぐるりと見回して見ても、マリアにはそれらが何を示しているのか、さっぱり理解出来なかった。整合性がある様で、だが良く解らない略称が癪に触るという位に。
そんな中、たった一つだけ解ったのは、扉は本当に五つしか無い、という事だけである。
え、と思った時には、先に歩んで来た道は消えていた。それこそ、あの入り口があった様な唐突さで、他と変わらぬ壁になっていたのである。触れて見ても何の継ぎ目も無い。
マリアは驚いたが、しかしそれは直ぐに止み、変わりに怒りが込み上げてきた。
シューレに関しては何が起ころうと受け入れる気概が出来ていたから、超自然的現象には目を瞑ってしまえる。問題なのは、そこに込められた意図であり、彼は明白に彼女をこけにしていた。事もあろうに育ての親に対して、あの少年は恩を仇で返すつもりなのだ。
「シューレ、貴方という子は、どうしてこんな……ろくでもない事を」
我知らず拳を握り締めながら、マリアは唸った。何故シューレが恩人に対してこの様な事をするのかは解らなかったけれど、彼が間違った道に進んでしまった事は良く解った。
ならば、地の果てまでも追い掛け、その性根を叩き直してやらなくては。
鼻息荒くマリアはそう頷くと、足音高く取っ手の一つに手をやった。
そうして徐に開けると、彼女達は扉の向こう側へと入った。
その背に二つの、猫の如き視線が注がれている事に露とも気付かないで。