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 モニタに表示された時刻を横目で見たマルティン・Hは、そっと顔を上げた。

 肩を抑え、首の骨を鳴らす。すっかり集中していたクロスワードを手放し……にも関わらず、空いている穴は無数にあったが……雑誌と鉛筆を引き出しへ戻した。

 そして彼は立ち上がり、ぐっと腰を逸らせると、満足した様子で吐息を吐き出した。

 健やかな日は、今日も終わった。何事も無く。そして、明日はやっと休日だ。他人が休んでいる間に仕事に耽っている事程憂鬱なものは無いが、その逆程愉快なものも無い。今日出来なかった事を、明日思う存分やってやるのだ。

 マルティンは上機嫌でそう思うと、受付卓の整理を始めた。

 片付けながら、しかし、と眉を潜めた。

 しかし何だか今日は、偉く騒がしい日だった気がする。面会者は矢鱈多かったし、外の方も叫び声やら笑い声やらが轟き、喧しいったらありゃしなかった。そういえば、あのアドルフだか何だかいう男が入ってから直ぐに、中の方でもごちゃごちゃと物音がしたが、あれは一体何だったのか。まさか本当にやりおったのだろうか、あの男。

 幾つもの思考が白くなった髪の中でぐるぐると踊り、だが直ぐに止まった。

 そんな事考えても解らないのだし、と割り切って、マルティンは整頓を続ける。

 これで良し、と思える所まで済ませると、彼は大広間へと歩き出した。そうして大扉から外へ出、力一杯閉ざして鍵を掛けると、彼は振り返り、そこで妙な違和感を覚えた。

 理由は解らない。だが何かが朝とは違う風に感じられた。視界に広がるのは夕焼けに染まった穏やかな風景だというのに……いや、そうか、とマルティンは理解した。余りに穏やか過ぎるのだ。昼間起きていたらしい騒動を思えば、こんな風である訳が無い。それに何と言っても、今日は日曜では無いか。

 彼は腕を組み、はてとまた首を傾げた。一体全体、何が起きたと言うのか。

 けれど、やはり悩んでもどうしようも無いと判断したマルティンは、路面電車へと乗るべく予報局前の階段を降りて行く。軽やかにスキップする様な足取りで。人が居なければ、思わず口笛すら吹きかねない陽気さで、太陽の残り灯を味わい尽くす様に。

 だが、全ての段を降り行く前に、彼はぎょっとして脚を止めた。

 階段の中程に、誰か座っている。それが誰なのかは解らないが、しかし何なのかは良く解った。あの服装、そしてあの髪は間違えようが無い、巫女のそれだった。

 マルティンは固まり、思わず後ろを見た。何故巫女がこんな所に居るのだろう。まさか逃げて来たのだろうか。そうだとすれば、騒ぎも理解出来る。しかし、だとすれば、どうしてまだこんな所に居るのか、さっぱり解らない。それに重要なのは、この様に巫女が抜け出した場合の事で、さて自分は一体どうしたら良かったものやら。

 予想外の事態に、彼は一頻り考え、考えた末に、無視する事を決めた。

 事実その様にせんと前を向いて脚を動かそうとしたが、それも直ぐに中断された。

 無視しようにも、目の前に件の巫女が立っていたら、それも不可能な話だ。

「……遅いぞマルティン……一体どれだけ私を……待たせるつもり、だ……」

 しかも同時に不可解である。

 何故巫女がわしの名を知っているのだろう。しかも待たせるつもりだと、まるで待っていたかの様な口振りで。更に言えば、こんな馴れ馴れしい態度でっ。

「あー……お前さん、一体何様だ」

 マルティンはその正体不明の巫女へ、呆れた様に語り掛けた。だが、その頃にはもう彼女は彼の前には居らず、危なっかしい足取りで階段を降りている所だった。

「……何を、している……早く来いマルティン……私は腹が減ってるんだ……」

「お前さんなぁ……ったく」

 その態度は正直腹立たしいものだったが、不思議と言い返したりする気にはならなかった。それは何と無く、その態度に覚えがあった事もある。もしかしたら何処かであった事があるのかもしれない。だが何処でだろう? 巫女と知り合いになる機会など、ろくに無かった。ただ少し、遠い昔に生き別れた幼馴染に似ている気がしたが、それこそ有り得まい。もう何十年も前の事だし、もし生きていれば当によぼよぼの婆さんだろう。

 ともあれ考えたって仕方が無いのだ、こんなもの本当に。訳が解ろうと解るまいと、やる事は変わらない。要するに、無碍には出来なかった。いたいけな少女を相手にして、その彼女が何故か解らないけれど自分の名を知っているのならば、余計に。

 マルティンは溜息を一つ上げると、とんとんと小気味良く巫女へと歩み寄った。

 そこで彼女が素足である事を知ると、少し躊躇した末、自身の靴を脱ぎ、

「ほら、履くがいい。大きさはあれだが、無いよりかはマシだろ」

「……悪い、な……そうさせて、貰うよ……」

 たどたどしい口振りで少女は頷くと、すぽっとそれを履いた。予想通り大き過ぎるそれはますます歩き難いのだろう、階段を降りる足取りもますます覚束無い。見てられなかったが、ここで手出しするのは少女の誇りが許さぬだろうと考え、あえて見過ごした。

「まぁ何だい。詳しい事はとりあえず家で聞くとして、だ……」

 そうしてマルティンは、巫女の隣を歩きながら、自宅に何があったのかと考える。一つ、まず間違い無く喜ばれそうなものがあったが、しかしそれを出したくは無かった。余暇の為の取っておきとして、似合わぬ身ながら大事にしていたのだ。客人に渡したくは無い。

「……嗚呼、あれだろう、ほら、あれだ、あの、お菓子……林檎で作った……」

 だが何と言う事か。どうやらこの娘は、言わぬ前からそれが何なのか知っているらしい。

 これは弱った、とマルティンは顔を顰めたが、しかしばれてしまっては仕方が無い。彼は溜息を漏らすと、苦々しく唇を歪めながら、巫女に向き直ってこう尋ねた。

「嗚呼そうだよ……アップルパイなんか如何かね、お前さんや」


END

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