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この宇宙に置いて何一つ未知の存在しない、窮極的な既知の状態へと人々は陥った。
だがそんな状態など、ラプラスの巫女にとっては当たり前の感覚だった。
それはそうであるとしか言えぬものだったけれど、彼女達は全てを知っていた。
既に知っていたならば絶対に成りたくなかった全知無能の存在が、巫女である。
ただ、どれをどれ位教えるのか、決められていたというだけの話だ。
未来予報という一つの形を持って。
で無ければ、どうして人に未来を告げる事が出来ただろう。
あの行いが出来たのは、人よりも先の事を知る事が出来たからに過ぎない。
だが、それももう終わり。
ルドルフ・Sによって制約を外され、遍く全ての人間達に自分達が見ている未来を告げたカサンドラは、今、肉体の拘束も解き放ち、仄青いコードを頭から生やしたまま、ぺたぺたずるずると、何も履いていない脚で廊下を進んで行く。
あの男が告げた言葉は、機械の根幹部を制御するものであり、それによって彼女は自分の意思のままに棺から抜け出したのだ。長い、長い間、己の意思で体を動かしていなかった為、その歩みは酷く鈍かったが、仕方が無い。筋肉が萎縮せぬ様、棺の内部は絶えず蠕動してはいたが、その機能にも流石に限度というものがあるのだ。
それだって、どうせ既に知っていた事だ。
よろよろと、中途でよろめきながら、しかしそうなる事を知っているカサンドラは、こけぬ様にそっと壁に手を付き、知っていた通りの結果を齎した。
その傍らに、ルドルフ・Sは居ない。
それも知っていた事だ。当の昔に。
カサンドラは、一度しか逢わなかった顔見知りの男を、感慨も何も無く思った。
受信機を入れていたが為、例外無く未来を知ったルドルフは、困惑の中で己が死を見た。
それはもう間も無く訪れる警護兵に襲われ、その発砲で死ぬというものだった。
彼は一瞬唖然とした表情を浮かべた。窮極的既知に至る覚悟は出来ていたのだろうが、しかしそれでも、事を成した直後に死ぬ事までは予測していなかった様である。
だが、全てを知り、知っていたルドルフは、皆がした様に潔くその未来を受け入れた。
それも彼の場合は能動的にだ。彼は目的を遂げた。そしてそれが見事に成功した未来を知っている。誰もが巫女と未来予報へ無関心で無くなった。というよりも、誰もが巫女同然となって他人事では居られなくなり、平等に公平に苦悩を受ける事となったのだ。そこに一体何の悔いがある? その問いに対する答えも、悔いなんて無いと信じる自分を既に知っているという事で、何の疑いも持たなくなっているというのに。
こうして巫女とその力を解き放った男は、カサンドラと共に部屋を出ると、確かに至らんとする死の元へと、彼女を置いて去って行ってしまった。この世代の人類が未来予報を悔い、やがてカサンドラを始めとする巫女が救われる事を確かに信じて。
そして彼は逝ってしまった。殺す側も殺される側も、既にそうと知っていた通り。
馬鹿な男だと、彼女は心底思った。
ルドルフは解っていなかった。何一つ解っていなかった。
巫女が開放されたとしても、未来が世界に浸透しているならば、それは結局、何も変わっていないという事に。享受していただけの者全てが巫女になったという話であって。
しかも、それだって今世代だけの話だ。次の世代になれば、何の問題も無くなる。既知はこの時だけであり、また無知に戻った人々が巫女を求めるのだ。繰り返し繰り返し。それ位はあの男も解っていた筈だが、しかし今だけでも、と考えたに違いない。
所詮は愚鈍で、芯の無い若造だったなと、カサンドラは思った。
思いはしたが、しかし憎みも嘲りもしなかった。
そうなる事は知っていたし、そう思う事も遥か前から知っていたのだ。
知っている事を今更知っても、揺れ動くものは何一つ無い。
既知既知既知、この宇宙は全てが既知だ。気が違いそうな程に。
今ではもう何の変哲も無くなった未来を知る者は、そこで始めて笑みを浮かべた。別に洒落が面白かった訳では無く、そこでそう笑う事を知っていたからに過ぎない。
だからカサンドラは、そこで知っている様に笑いながら歩き続ける。
目指す場所は知っている。どうやって行くのかも予め。その場所へ行き、どうするかも。その後に何処へ向かい、どんな風に生き、どんな風に死ぬのかも、既に知った通りにだ。
ぺたぺたと足音を立てながら、彼女は入り組んだ廊下を進む。やがて人の手のものでは無い、明るい橙色の光が見えた時、彼女は思った。自分がする事を、何故そうするのかという事を、大昔からそこで思う事を知っていた通り、淀み無く、迷い無く。
どうせ変わり無いならば、未知のままの旧友と共に過ごしてやろうか、と。